切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

光福寺・・・六斎念仏総本寺    京都市左京区   2023.1.8 訪問

2023-01-13 22:19:38 | 撮影
 

『光福寺

 正式には、干菜山斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗 の寺院であり、山号をとって俗に「ほしな寺」とも呼ばれている。
 寺伝によれば、寛元年間(一二四三〜四七)に道空上人が 西山安養谷(長岡京市)に建立した一 寺(斎教院)が当寺の起こりで、天正十年(一五八二)に月空宗心によって現在の地に移されたと伝わる。
 道空は、「六斎念仏」を世に広めたことで知られ、当寺に伝わる「六斎念仏興起書」によると後柏原天皇から六斎念仏総本寺の勅号を賜ったという。 六斎念仏とは、毎月の六斎日(八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日)に精進潔斎(身を清めること)して念仏を唱えることが起源であったが民衆の間に広まるにつれ、鉦や太鼓を打ち鳴らす念仏となった。大きくわけて空也堂系と干菜寺系があり、空也堂系は踊り念仏で芸能的色彩を帯びていったのに対し、干菜寺系は原型を留めた六斎念仏といえる。
 また、文禄二年(一五九三)に豊臣秀吉が鷹狩りの途中、当寺に立ち寄った時、住職宗心が乾菜を献じたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれている。
 本堂には、正和二年(一三一三)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫では、六斎念仏興起書の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓や秀吉の画像等を所蔵している。
  京都市』  (駒札より)

  

 光福寺は京阪電鉄及び叡山電鉄の出町柳駅からすぐ東側にある。周辺は商店や住宅が密集している地域であり、その中に溶け込む形で位置している。

 鎌倉時代の浄土宗の僧である道空により創建されたと言う。元々は乙訓郡のほうに創建され、今現在の長岡京市にあたる場所となる。同時に道空は「六斎念仏」を広めるために朝廷より六斎念仏総本寺の勅号を受ける。以降、六斎念仏は少しずつ周囲に広まり始め、民衆の心を捉え京都の中で大きく知られるようになる。

  

 後年、室町末期になって寺は現在地に移る。安土桃山期には豊臣秀吉がこのお寺を訪れ、六斎念仏に大いに賛同、六斎念仏総本山の称号を与えることになる。このようにして道空が六斎念仏の創始者であり、光福寺が六斎念仏の発祥の寺としての地位を確立する。その後、六斎念仏は大いに栄えていくことになる。

 

 六斎念仏そのものは、光福寺が干菜山と号するために干菜系と呼ばれ、これとは別に空也上人が広めたとされる、空也系の六斎念仏は後に、芸能的要素が加わり太鼓や鉢などを叩いて踊る、いわゆる「六斎念仏踊り」の方向に発展していくことになる。

 六斎念仏そのものは浄土宗における専修念仏から発展したもので、毎月の6回の斉日(祭日)に、身を清め念仏を唱えることによって往生極楽、大願成就を全うしようというもの。今現在では京都において、いくつもの寺院で執り行われており、その一部は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 光福寺の山門の横には、六斎念仏総本寺と彫られた石柱が立てられている。その石柱の側面に斎教院と彫られている。これは元々、光福寺の前身である乙訓郡に創建された時のお寺の名前だ。

  

 お寺は山門をくぐると緑が豊かであり、正面に本堂が控える。季節によっては花なども綺麗に咲き誇るようだ。山門と本堂、鐘楼が京都府の暫定指定文化財になっている。おそらく江戸時代の中期辺りの再建だろうと思われる。

 

 また光福寺は、江戸時代の初期に鎮守社である八幡宮再建のために、「勧進相撲」を開催したという記録が残されている。勧進相撲というのは要するに、正式な相撲場で行われるものではなく、一般民衆の前で外の広場などで行われるものであり、この場合は光福寺近くの下鴨神社、糺の森において見物料をとって開催されたと言う。少なくとも京都においてはこれが、勧進相撲の始まりだといわれている。今現在で言う大相撲とは別の、地方巡業のようなものなのかもしれない。


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