比べることに何の意味もないが、わが国の原発デモとは凶暴性や本気度の質が段違いだ。
中国の反日デモは、北京政府へのストレスもあるんだろう。
また逆に、当局のヤラセもあると思う。どこかうさん臭い。
一方、反米デモは宗教がらみだから、ひときわ厄介だ。
歎異抄 (講談社学術文庫) 梅原 猛 価格:¥ 1,103(税込) 発売日:2000-09-08 |
僕は、信心など毛ほどもないのだけど、とりあえず仏教徒を標榜している。
僕んちは浄土真宗のお寺の檀家だから、宗祖は親鸞上人ということになる。
親鸞の口伝「歎異抄」に、こんな一節がある。
念仏して 地獄におちたりとも
さらに後悔すべからずさふらふ
親鸞の晩年、京にいるころ、
かつて教化した関東の門人たちが念仏して本当に往生できるかと、
根本義に疑念を抱いてはるばる訪ねてきた。
歎異抄によると、親鸞はその旅の労をねぎらうのだけど、
「しかしながら」と言葉を繋ぐ。
念仏の奥義秘伝など、親鸞は何も知らぬ。
ただ一つのことを知っている。
親鸞は言う。
親鸞においてはただ念仏して弥陀にたすけられ参らすべし、
という一事をよきひと(崇敬する師匠の法然)の言葉どおりに信じているだけである。
そのほか、なんの子細も別儀もない。
宗教は理解ではない。
「信ずる」というストイックな傾斜からはじまらねばならない。
その「信ずる」という人間の作用について
これほど剛胆な態度と明快な言葉を吐いた人間は、類いがないだろう。
さらに親鸞は言う。
この上はおのおの、念仏を信じようとも捨てようとも、おのおのの一存とされよ。
「信」とはそういうものであろう。
親鸞のいう信仰とは、おのれの一念の問題ということだろう。
ならば、他宗教の雑音などが入り込む余地は寸土もない。
無信心ながら仏教文化の中で育った身としては、
異教徒に対して激しく攻撃する宗教はどうも馴染めない。