きりのみやこ

ソプラノ歌手「みやこ」の音楽する日々

刺激

2014年07月28日 | 音楽のこと
最近、・・・と言うよりはもうずいぶん前から、「刺激」を受ける事を避けて通っているという自覚がある。
もともと感受性が多分強く、刺激の強いものはとても苦手。
映画でも本でも、ホラーなんてもってのほか。
そうでなくても、心にずしーんと来る重たい物は見てしまうと本当につらい。
しばらく立ち直れない。

でも本当は、これじゃいけないのかな、と思っている。
音楽家なんだし、もっともっといろいろな物に触れて、もっと心を動かして・・・

でもやっぱりちょっと怖い。

何せ影響されやすい私。本でも映画でも、心を動かされると、そのことで頭がいっぱいになる。
怖いものや刺激の強いものは、そのまま夢にまで登場する。。。
心が占領されてしまう気がする。

そこまでして、刺激を受けなくてもいいのかな?

音楽から受ける刺激で、私は十分なのかもしれない。
うむ。。。どうなんだろう。。。?

ちょっとつぶやいてみました。

恋と愛について

2014年07月09日 | 音楽のこと
最近久々に連絡を取り合った親友から、

プッチーニのオペラ、「トスカ」のアリア、”歌に生き愛に生き”
をオンラインで検索したら、
「歌に生き」
と入れると、
「愛に生き」と、「恋に生き」
の両方が出てくるけれど、
日本語で、「愛」と、「恋」とはずいぶんニュアンスが違うよね?
どちらが正解か、教えてください。

というメールをもらいました!

多分相当日本人の歌手では珍しく、残念ながら、クラッシックの歌唱においてメインの言語、
「ドイツ語」「イタリア語」「フランス語」
の3つの言語の中で、イタリア語が一番弱い私。。。

きちっとした正解を出すには、相当なイタリア語の能力が求められます。

ただ、共通点の多いヨーロッパ言語のこと。
とりあえず英語で考えてみました。


Love は、愛。恋も・・・Love あえて言えば in love
と、この法則で行くと、
イタリア語で愛は amore 恋は inamorato???

つまり、ヨーロッパの言語では「恋」は、「愛」に関係する。ということかな?と。

日本語はどうでしょう?
「恋」と、「愛」は、密接に関係していると思いますか?

友人は、このテーマで膨大な比較文化論文が書けそうだなんていうけれど、
比較文化まで行かずとも、日本語だけでも十分に深いなぁとおもう私。
とても答えなど出せそうにありません。
ただ改めて、「恋」と「愛」が別々に存在する日本語は、なんて繊細で美しいのかしら!!と思いました!!

ちなみにトスカのアリアの訳は、「愛に生き」が正解でしょう。
理由は詩が語りかける相手は「神」であること。
そして「歌に生き、愛に生き」とはじまり、続く歌詞が、明らかに「恋」ではなく、「愛」を語っているからです。

"「歌に生き、愛に生きる」みやこちゃん”
と言ってもらったので、そのとおりの人生にしたいと、決意を新たにするみやこです。
いい事言ってくれるね~~!
Sちゃんありがとう♪

心を揺さぶる音楽

2014年04月04日 | 音楽のこと
この世の音楽で一番好きな曲は?と聞かれたら、とても答えるすべがないほど、好きな曲は山ほどある。
それらはスタイルも時代もすべてばらばら。

音楽が常に生活の中心に位置してきた私の脳裏には、今まで触れてきた音楽の数々が、自分の記憶を持っている。
つまり、その曲に触れたときのそのときの自分が、曲とともに私の中に記憶されているのだ。
例えば初期のベートーヴェンのソナタを聴くと、小学校高学年、中学生のころの思い出が、かなり細かく自分の中で再生される。
正直、思い出したくない過去と重なって、いまだに恐ろしくて聴く気になれない曲もいくつかあるくらいだ。

そんな私だから、曲が流れると、すっかり忘れていた自分の記憶が呼び起こされる衝撃には割りと慣れている。

でも先日、ブラームスのピアノ協奏曲1番を聴いたときの自分の反応には少々驚かされた。
当然、その曲に触れていた時代がよみがえってくるだろうと思ったら全然違ったのだ。(細かくは書かないけどね。ははは。。。知ってる人が読みませんように。。)

聴き始めた途端に、幼いころから最近までの記憶が、一気に押し寄せたのだ。
それも、表面的な記憶ではない。
自分の多分、奥底に眠っていた、深い深い感情の記憶。
出来事ではなくて、その時代に感じていたあらゆる感情の波が、自分の心に音を立ててドバーッと流れ込んだような感触だった。
またそれが、運転中だったからたまらない。目にワイパーでもつけたくなるくらい、涙があふれ出た。

多分これは、ブラームスと私の心がシンクロした瞬間なのかもしれない、と、思うことにしている。
私の生まれてからこれまでの感情のすべてを使って、ブラームスのこの曲を書いたときの心を感じようとしたのだと。

音楽とはつまり、「記憶」のかたまりなのかもしれない。
作曲家が全身全霊を込めた作った、感情の「記憶」。
もっといえば、太古の昔から人が感じてきた「心」の「記憶」。
感じたものを「音」で表現し、その「音」でまた心が感じる。
それを幾多も幾多も繰り返してきた人々の「心」の歴史。すなわち「記憶」。

しかし、ブラームスの1番。ありきたりの表現になるが、何ていい曲だろう。
文字にしてしまったらやはりありきたりだけれど・・・
なんてロマンチックで、切なくて、でも奥底から湧き上がるエネルギーに満ち溢れていて。。
。。。やめよう。
せっかくの名曲が台無しだ。

いったい何から書いたらよいのか・・・

2014年02月10日 | 音楽のこと
最後にブログを更新してから、何と半年以上の時が流れていました。。。
「光陰矢のごとし」
とはよく言ったもので、北九州に移り住んでから、あっという間に2年が経ちました。

音楽活動がしたいと、模索して、いろいろな種を蒔き・・・
思ったよりもずっとたくさん芽が出てしまった嬉しい誤算の去年一年間。
何度舞台に上がったか覚えていないほど、たくさんの機会に歌わせていただきました♪♪♪

でもあまりに家庭との両立が過酷で・・・
こうしてブログを更新する時間もとれず。。
今年はちょっと、スローダウンして、ひとつひとつ、身近にあるものをもっと大事に、もっと丁寧にこなしてゆきたいと思って新年を迎えました。

が!!

走っている車はブレーキをかけてもなかなか止まれない訳で。。。

やっと、本当にやっと、今年に入って初めて、たった今、
「ん?何をしよう?」
という状況が生まれました。(いや、やらなくちゃいけないことは山ほどあるのだけれども、それらをまとめる時間さえなかった。。。)

それでブログを開いてみた私。
そして、タイトルに戻ります(笑)
いったい何から書いたらよいでしょう??

去年11月はじめにひどい風邪を引き、ものすごくこじらせてしまいました。
無理にコンサートやオペラ公演をこなしたものの、とにかくひどいことにならないように、コントロールして妥協して、
何とかメロディーラインを歌いきるのに必死という有様。
年が明けて本来の声に戻ってきたけれど、今も本調子とは言えず、歌いたいように歌おうとすると、喉がすぐにSOSを出します。

それで、新年の抱負に戻りますが、今年はスローダウン。
でも決して、守りに入るという意味ではなく、常に喉の状態を良好に保つために、まず体調を整えること。体を鍛えて強くすること。
そして、練習時間もろくに取れないままいくつもの本番をこなしてしまったことを猛反省して、とにかく勉強すること。頭を鍛えること。
そして何より、フレーズも長く続かなくなり、歌唱力が著しく落ちている自分を徹底的に、芯から鍛えなおすこと。
とにかく鍛えに鍛えて、どこにいても、どんな時でも、またどんなに忙しくても、舞台に上ったらこれ以上ない最高のパフォーマンスができる自分を作ります。

そして何より今年は、すべてのことを、一生懸命行いたいと思います。
手を抜くことを考えず、全部正面から向き合って、真剣にやります。
仕事も、子育ても、家事も!!(笑)

そんな心積もりのみやこです。
ものすごく遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします!!

さらにもうひとつの目標!
ブログを毎週更新します!(たぶん!きっと!!)

再会

2013年05月17日 | 音楽のこと
生きていると人生、本当にいろいろなことがある。
そのいろいろなことの中で、私にとっては最も驚くべきことが最近起こった。
それは、旧友との再会。

時は20年ほど前。私がロンドンに行ってまだ1年たつか経たない頃に、習っていた日本人の声楽の先生に紹介されて出会った美佐ちゃん。
当時私はピアノ専攻で、声楽専攻の美佐ちゃんは、受験のためのピアノ伴奏者を探していたのだ。
最初はピアノ伴奏者として。。。そしてなぜか、それはすぐにデュエット・パートナーとして、に変化。
教会のランチタイム・コンサートやイベント、リサイタルなどで、声楽科でもない私が、美佐ちゃんにくっついて、たくさんの曲をデュエットした。

2年ほどそんな時期があり、美佐ちゃんは大学院を卒業とともに帰国。
私はそれから、10年ロンドンにそのまま居座ることになる。

美佐ちゃんは福岡、私は埼玉出身。何せパソコンもインターネットもない時代。
もうあまり接点もあり得ないとお互い思ってか思わぬか忘れたが、とにかく住所を交換したかどうかも定かでない。
美佐ちゃんが福岡出身だというのは何となく覚えていたけれど、1年ほど前の引っ越しの際にも思い出さなかった。まさか北九州だとも思わなかったし。。

そしてある日、彼女は突然目の前に現れた!
英語の先生の集まる研修で、本当に目の前に座ったのだ!!

確かにどちらも英国留学経験者。音楽以外に英語を教えていて何の不思議もないけれど・・・
それにしても、こんな偶然ってありうるだろうか!?

とにかく会った!また会っちゃった!!
そして、20年前とちっとも変らず、美佐ちゃんがまたどんどん引っ張ってくれて、また私は彼女のデュエットパートナーになった。
ほんと人生、何が起こるかわからない!!

と、言うわけで、もうすでに彼女とはジャズバーで再会記念ライブをして(別にそういう名前のライブじゃなかったけど)
今週の土曜日、また下関の、あるイベントで歌います♪

結の丘・梅ヶ峠オープニングイベント
場所:梅光学院大学梅ヶ峠キャンパス
   JR梅ヶ峠駅下車 徒歩3分
   駐車場あり 梅ヶ峠駅より豊浦町側約200m
出演: 宗 美佐(ソプラノ) みやこ(ソプラノ)
13:30~ 日本の春の曲、夏の曲、パッヘルベルのカノン、私のお父さんなどを、ソプラノデュエットでお送りします!
イベントのメインは、陶芸、木工などの芸術作品の展示です。
 入場無料です。

旗揚げ公演 「奥様女中」

2013年05月15日 | 音楽のこと
ずっとずっと書きたい書きたいと思いながら、なかなかブログ更新にたどり着かず・・・
そして港町オペラ座の立ち上げ、旗揚げ公演、4月20日の一回目、5月11日の2回目、ともに終了!!
北九州で出会った新しい仲間たちとの、新しい冒険が始まっています♪

「奥様女中」を選んだのは、その内容の面白さ、お手軽さ(上演時間が短く、ストーリーもシンプルで、登場人物も少ない)が主な理由だったけれど、
これがまたなかなか、よくできている作品であることに、気づかされています。
アリアやデュエット一つ一つも、その人物の心情や性格をとてもよく表していて、自然に感情移入できるようになっています。
さすが、時代を超えて、現在まで残ってきた名作だけのことはあるなーと、感心することしきりです。

今回私が原作をもとに日本語のセリフを書き、レシタティーヴォをカットして、アリアはイタリア語の原曲のまま残しての上演です。
場所は門司港レトロ。明治時代に開港し、大正時代にかけて貿易港として栄えた街で、重要文化財となっている洋館が立ち並んでいる素敵な所。
オペラ会場はその重要文化財の一つ、アインシュタインも滞在したことがあるという洋館、旧門司三井倶楽部。
イベントホールはこじんまりとしているけれど、暖炉があり、大きな窓には素敵なカーテンがかかり、絨毯の敷き詰められた洋間といった様相。
その洋館の洋間で、和装をしてオペラをするという、何とも和洋折衷なアイデア。
でも、滑稽なようで不思議としっくりくる。
日本語でしゃべってイタリア語で歌っているけれど、意外に違和感がない。。。
そんな舞台になりました。

私的には、かなり思い切って個性的なものを作ろうとしたつもりだったけれど、なんだか思ったよりもナチュラルで落ち着いた感じになったので、
ちょっと驚いていたり(笑)。

思えば幼少の頃から、音楽劇をやりたくて仕方がなかった私。
小学校の時に入っていた所沢少年少女合唱団でちょっとしたオペラ「学校の先生」をやったことがあり、そのあとに合唱団の指揮の先生が上演したのが「奥様女中」だったなー。と、遠い遠い記憶がよみがえってきました。
そして、高校生の時には、合唱部で無理矢理ミュージカルをやり(笑)
あー、仲間は覚えていてくれてるかなー。
1年生が「シンデレラ」2年生が「ロミオとジュリエット」3年生が「緑の館」。
全部台本を書き、既成の有名なメロディーに歌詞をあてはめ、照明器具まで音楽室に運び込み、ドーランをみんなで塗りたくって歌ったなー。
文化祭で5人くらいしかいない合唱部が、最優秀賞やら校長賞を総なめにしてたなー!!(演劇部や吹奏楽部の子たちがそのあと怖かったけど・・)

と、その後の人生かなり色々あったのに、やっていること、やりたいことがちっとも変っていない自分に気づかされ、ちょっと苦笑しています。
なんだか道に迷って、迷って迷って、「やっと出口だ!」と思ったら入り口だった・・・みたいな・・・ははは。。。

そんなわけで、冒頭に「新しい冒険」と書いたけれど、私にとってはホームに戻ってきたみたいな??
不思議な居心地の良さと愛着を感じています。



アレクサンダー・テクニーク

2012年07月19日 | 音楽のこと
大学の授業で1年生、入学したばかりの頃に必修だったアレクサンダー・テクニーク。
英国の音楽大学では割合当たり前に必修科目になっている。
日本でも最近、教室や講座もずいぶん増えてきた。

それではアレクサンダー・テクニークとは何か?
これはきっと、一言で言い表せるなら私はきっと、教師になれる(笑)。
アレクサンダーという、アメリカの舞台俳優が、自身の声を演技によっていためてしまった事で、
体の正しい、無理のない動きをするために提唱したもの。
と、ここでは書いておく。

恥ずかしながら、そしてとても残念な事に、1年も週に一回のレッスンを受けておきながら、まだ入学したてなうえに言語力も未熟で、ちゃんと教わった内容を覚えていない。
当時の私はピアノ専攻で、大学入学前に師事し始めたニーナ・セレダ先生(ロシア人の女性。彼女が私のピアノ人生を大きく変えてくれた。これもまた書かねば。)に、
レッスンのたびに指や手、腕、体の使い方について厳しく指導されていたので、大きな相乗効果を得た覚えがある。

わたしはもともと、体のあちこちに力みがある不器用な人間で、コーディネーションも悪く、ダンスなどもへたくそ。
足も速く、跳躍力、瞬発力もあるので、決して運動神経は悪くないと思うのだが、ボールを持たされたりするとあっという間に動きがぎこちなくなるタイプ。
これでよくピアノをやっていたものだと、自分でも感心する。
右手と左手を違う動きをさせる上に、ペダルまで両足で踏まなければいけないピアノ演奏は、どう考えても私には向いていない。
音楽が好きだという理由だけで、厳しく熱心な両親があってこそ続いたものだ。

そんな私でも、体の正しい使い方を教えてもらうと、不思議と指が良く動くようになる。
体重が乗り、音も全然変わってくる。
それを体感させてくれたのが前出のニーナ先生。
そして、それを解明してくれたのが、アレクサンダー・テクニークの存在だ。

最近それを思い出し、書籍等を読みあさっている。
一番興味深いと思うのは、人間の体は、みな完璧にデザインされている、という考え方。
その証拠に、幼い子供はみな動きが自然である。
大人になる家庭で人は、体の使い方を誤る習慣を身につけ、それによって体を歪めていってしまう。
というもの。

確かに、今、例えば「正しく姿勢」とはどんなものなのか、私にはまったくわからない。
妙に肩がこるけれども、どんな動作が肩こりを引き起こしているのかもわからない。

なんだか、語学学習と似ているな、と思う。

子供の頃は自然に言葉を覚えたけれど、大人になったら文法を把握しなければしゃべれるようにはならない。
それだけ、私たちは日々の生活の中で、頭を使い、体を使い、脳を発達させてきて大人になったのだろう。

現在私は、骨の仕組みなどの絵柄を見て、体を動かしてみながら、自分の体の仕組みを勉強中だ。

音楽家とお金♪

2012年07月06日 | 音楽のこと
フィリピンにいたころから、つくづく考えさせられる事があります。
それは、音楽家と、報酬、つまり、お金について。

結論から先に書くと、音楽家は、報酬をもっと得るべきだと思う。
もっと言うと、音楽家は、もっとお金を稼ぐ事を真剣に考えなければいけない時代だ、と最近考えるようになりました。

事の発端は、フィリピン生活において。
私は駐在員の妻としてフィリピンに渡り、夫の会社の方針で、配偶者は仕事をしてはいけない決まりでした。

必然的に、コンサートはすべてチャリティーで行いました。

それはそれで、やりたかった事だったので、良かったと思っています。
とても良い経験もし、大きな舞台も踏ませてもらいました。

でも、正直に言えば、心に少し、わだかまりを残しました。
チャリティーだからという理由で入ってくださるお客さま。
せっかく特技があるのだから惜しまずどんどん出してくださいと言われる日々・・・

自分がしっかりと報酬を得て、生活を立てられた上でのチャリティーならばいざ知らず、
自分は夫におんぶに抱っこの状態で、コンサートのために莫大な時間と労力を裂き、
プレッシャーに耐えての舞台。

それ自体はそれでもまだ良いのです。
好きでやっている事だから。楽しい面もたくさんあるし。
でも、一番良くないと思ったのは、そのプレッシャーから逃れるために、自分に言い訳してしまう事。
「お金をもらっているわけじゃないんだから・・・」

人間はとても弱い。
誰にとっても、どんなに経験があっても、何十人、何百人の前に立ち、演奏をする事はとてつもないプレッシャーです。
そして音楽家は、そのプレッシャーをはねのけるために日々努力をする。技を磨き続ける。
それでも、精神的に疲れて舞台に上れなくなる演奏家は後を絶たないし、
どんなに一流といわれ、実力のある演奏家でも本番の緊張は相当なものです。

でもその極限のプレッシャーがあるからこそ、日常ではないものを生み出す。
その緊張感から、芸術は進化してゆく。
それが音楽であり、音楽家の役割であると思っています。

緊張するのが嫌、プレッシャーから逃れたいと思っていて良い音楽家にはなれない。
そのプレッシャーを乗り越えるための努力こそがすばらしい音楽を生み出す事につながってゆくわけです。
だから、言い訳する理由なんてあってはいけないのです。
ちょっとの甘さ、緩みが、緊張感に欠ける、人の心に響かない音楽を作ってしまう。。。
実に音楽とは、微妙で繊細なものだからです。

その昔音楽家は、貴族によって身分と生活を保障され、音楽だけやっていればよかった。
でも現在は、そういうわけには行かない。音楽家として独り立ちしたかったら、自分たちでお金を稼がなければいけない。

その事実を、音楽家はもっと考えなくてはいけない時代になったのだな、とつくづく思うようになりました。

なぜなら、今現在、例えば自分の子が音楽家になりたいといったら、私は間違いなく大反対します(笑)
自分の教え子が才能があって音楽家になりたいと言い出したとしても、
「悪い事は言わないから、趣味にとどめておきなさい」
と、言ってしまいそう(苦笑)

音楽をやる友人にも、
「音楽はお金にならないから」
といって、すっぱりやめ、普通に就職した力のある人がたくさんいます。
続けていたとしても、ほとんどの人が、片手間でやっている。

音楽を愛し、本気でやってきた者として、
そしてこれからもやって行こうと覚悟を決めている者として、
やっぱりすばらしい音楽を伝えるために、届け続けるために、
後進の音楽家をどんどん育てるためにも、
音楽家は「稼がないと」いけないなと、強く感じるようになりました。

それにはまず、すばらしい音楽をしないとね!
ってなっちゃうから、家で練習に勉強に明け暮れちゃって難しいけれど・・・

演奏家も、聴衆も、もっともっと本気になって、音楽をともに高めていけたら。。
なぜなら、やっぱりクラッシック音楽はただの娯楽ではないから。
演奏するほうも、聴くほうもその深みを知って初めて本当の楽しみが生まれると、究極には思うから。

シューベルト

2012年03月27日 | 音楽のこと
実は私、シューベルトはあまり好きではない、とずっと思ってきた。
シューマン、ショスタコーヴィッチ、シェーンベルグなど、「シュ」がつく音楽家は全部好みじゃない、なんて公言していた事もあったほど(笑)。

歌手として、シューベルトとシューマンが好みじゃないって言うのもおかしいけれど、
実際、シューベルトは有名曲(野ばら、ます、など。)数曲、
シューマンに至っては、一曲しかレパートリーがない。。。

何だこの曲、さえないなー
と、思うとシューベルトの作品だったりして、何でこのシューベルトという人は、歴史に残っているんだろう?くらいに思っていた。

それを覆す演奏に、出会った。
テレビで放映された、ポール・ルイス日本公演。
イギリス人である彼は、12歳でピアノを始め、20歳のときに巨匠アルフレッド・ブレンデル氏の目に留まり、直接手ほどきを受けたといい、シューベルトを得意とするピアニスト。
私はイギリスに住んでいたので、名前や顔写真は見たことはあったけれど、コンサートに足を運んだ事はなかった。(ブレンデル氏の演奏会には何度行ったかわからないのに!!)
たぶんプログラムがシューベルトばっかりだったからだろう(苦笑)。

彼の演奏するシューベルトのなんとすばらしい事!!
何よりもまず、シューベルトの音楽に対する深い、本当に深い理解と、愛情を感じる。
「これこそがシューベルトの音、これこそがシューベルトの音楽」
といえるほどの説得力。

シューベルトの音楽が、地味で単調だと思っていた自分の浅はかさをとことん思い知らされた。

最近の風潮として、自分も含めて、どうしても派手なほうに走ってゆく傾向がある。
演奏家も、観客も、舞台は華々しく、きらびやかなものを求めるものと思って疑わず、
派手な音楽を「どうだ!」とばかりに演奏して、拍手喝采を浴びることを目指している。

でも、音楽は決してそんなものではない。
もっと人間とは何か、心とは何か、人生とは何かを追求した、時間の「芸術」だ。
そう、シューベルトと、ポール・ルイス氏に教えられた。

歌うときの姿勢♪

2012年01月01日 | 音楽のこと
歌うときの姿勢はとても大事である。
スポーツで言えば「フォーム」に値するからだ。

姿勢において一番大事なのは、無駄な力が一切入らないこと。
それには、簡単に言えば体の芯がまっすぐになっている事が望ましい。

体の芯をまっすぐにするには、まず足を肩幅に開いてリラックスして立ち、頭の「つむじ」の位置を確認する。つむじから糸が出ていて、自分がその糸一本でつるされている事を想像する。
手も足もぶらーんとした、「あやつり人形」になったつもりで。
重力で地面から体が引っ張られている事を意識すると良い。

そしてもうひとつ、両脇に小さな風船が入っているのを想像する。

これで自然な姿勢が出来上がっているはずである。

余分な力が入らないよう、以下を確認すると良い。
・ひざ(ぴんと張らないこと。ちょっと曲がっているくらいが良い)
・あご(左右に自由に動けばOK)
・胸 (決して前に向かってせり出さないこと。「なでおろす」感じ。)

長く立っていなければならない時、会議、セミナーなどで立って話す時なども、上の姿勢をとると疲れず、見た目も自然で美しい。

当然健康にも良いので、是非姿勢を正してみていただきたい。

ちなみに上記の「姿勢」はアレクサンダー・テクニックの授業で音大時代に習ったもの。
詳しくはこちらを読むと、身体を正しく使うことがいかに大切なことかが分かります。

レア・サロンガ

2011年09月10日 | 音楽のこと
レア・サロンガと言う歌手をご存知だろうか?
歌手、と言うよりは、ミュージカル女優と呼ぶべきか。

日本ではまったくと言っていいほど知られていないこの人、恥ずかしながら、私はこの人の歌が大好きで、凄い!と、もう何年も前から思っていたのに、名前を知らなかった。。。

では、一体何を歌っているかと言えば!

ミュージカル
「ミス・サイゴン」(オリジナル・ロンドンキャスト)
「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ

ディズニーの映画
「アラジン」のジャスミン
「ムーラン」

などなど・・・

なぜ今更彼女の事を書くかと言えば、ここフィリピンに来て、初めてちゃんと名前を知ったから!
そう、レア・サロンガはフィリピン人!

残念ながら余りここフィリピンで活動をしていないようなので、コンサートなどに足を運ぶ機会もないが、彼女の存在をちゃんと知ったというだけでも、フィリピンに来て良かったと思える!

是非、改めて、アラジンや、ムーランのサウンドトラックなど、聴いてみてください。
今はYoutubeもあるので便利ですよね♪

フィリピンでホームコンサート

2011年09月06日 | 音楽のこと
プール付きのお庭のある豪邸のはなれのサロンでのコンサート。
まるで夢みたいなイベントに、ピアニストのお友達に誘っていただいて行って来ました!

曲はソロ2曲
「岩のように」オペラ’コジ・ファン・トゥッテ’より モーツァルト
「月に寄せる歌」オペラ’ルサルカ’より       ドヴォルザーク

どちらも新しい歌です!レパートリーが増えました。
ルサルカは、チェコ語。
新しい言語で歌ったのも久々です。
そしてチェコ語の響き、大好きです♪
ちょっとロシア語っぽい。子音の響きが素敵。

そして、最近組んでいるトリオもデビューしました!
曲はシューベルトのアヴェ・マリアと、ブラームスのハンガリアン・ダンス。
どちらも女声3部の合唱用の編曲でしたが、お客さんにも楽しんでもらえた模様☆

コンサート後にお庭で軽食を優雅に頂いて、すっかりいい気分で帰ってまいりました。
なんだか久々に緊張感のある、優雅な時間を過ごして、譜読みと子育てに追われていた頭がすっきり!
また引き続き、頑張れそうです!!

夢と目標

2011年08月18日 | 音楽のこと
先に、自分の進路について、特に自分の歌について「これ」と言うものがない事は書いた。
では、将来のビジョンがないのかと言われれば、決してそんな事はない。

今歌手である事は、私の場合、「結果」ではなく「過程」だと思っている。

先に、いくつかオペラについての記事を書いてきた。
私の夢は、それに強く関連する。

それは、オペラをもっと日本でポピュラーにする事。

だからと言って私の場合、オペラ座を作ったり、本格オペラ団を作るような力もコネクションも何もないし、それらを作る事は私の直接の目標に一致しない。

なぜなら、オペラ座にしてもオペラ団にしても、作るのには多大のお金が必要で、
それを還元するためには、また多大な入場料を取らなければならない。
それでは観客は、オペラファンのみになるに決まっているし、オペラ=敷居の高いものという意識を強めてしまうだけだから。

それよりはもっと、時代に合った、誰もが楽しめるオペラが出来ないか。

実は、私の頭の中ではこの事は、かなり具体化されつつある。
あと必要なのは仲間か。

同じような考えを持っている方がもしいらしたら、是非ご一報を☆

オペラって、どんなもの?

2011年08月14日 | 音楽のこと
先のブログで、オペラが全然日本でポピュラーでない理由をあげました。

ではオペラって、どんなものでしょう?
日本語では「歌劇」。文字通り、演劇です。

演劇との大きな違いは、ほとんどの台詞は「歌」によって表現されます。
(例外がありますが、ここではいわゆる著名で典型的な、ロマン派までのオペラについて書きます。あ、それでも例外がありますけど。。)

伴奏はオーケストラの生演奏で行われます。
(舞台の前下の「オーケストラピット」と呼ばれる所に入って演奏します)

基本的に、それだけです。

後は、普通の演劇と同じく、もちろんストーリーがあり、役があり、
一人で台詞を言う「独白」の時はソロ。
2,3人で会話をするときはデュエット・トリオ
人数が増えれば5重唱、6重唱、

いわゆる「エキストラ」(通行人とか、村人とか・・・)は合唱によって行われます。

そして、もっとも特徴的なのが「レチタティーヴォ」。
上記した、ソロやデュエット、合唱などをつなぐ、「台詞」の部分で、
歌っているけれど台詞をしゃべっているような感じの部分を指します。

オペラって・・・

2011年08月13日 | 音楽のこと
先のブログでも書いたのですが、クラッシック音楽が好きな方でも、意外とオペラについては知識のない方が多かったり。
もちろん日本でも、熱烈なオペラファンの方はいっぱいいるけれど、
一般的に見て、意外とちゃんと知られていない「オペラ」の存在・・・

それもそのはず、日本ではオペラはとても遠いですね。
本場イタリアや、ドイツなどでは、すべての都市にオペラ座があって毎日のように上演されている事を考えたら、日本でのオペラ上演の回数は極端に少なくて、しかもオペラ座が存在しない。

「そりゃだって、本場じゃないから当たり前だよ」

って声が聞こえてきそうだけれど。。。
でもそんな事を言ったらクラッシック音楽自体本場ではないのに、たとえば東京でのコンサートの数は、ロンドンのそれとさして変わらない。
立派なコンサートホールの数も、他のヨーロッパの首都のそれにまったく劣らないのです。
コンサートの質だって、世界の一流演奏家がどんどん来日しているし、日本人演奏家の質もどんどん上がっていて、365日、いつでも良い音楽を生で聞きたければ聴けます。(ちょっと高いけど。。)

じゃぁどうしてオペラは・・・??
理由は沢山あるけれど、まずオペラ座がない、と言う事実がとても痛いです。
少し前にブログでも書いた小沢征爾氏と武満徹氏の対談「音楽」と言う本を読んで知ったのですが、バブルの時代に、オペラ座を日本に作ろう、と言う動きはどうやらあったけれど、実現しなかったようですね。

オペラ座と普通のコンサートホールの差は何かと言ったら、まず、舞台裏のスペース。
オペラは演劇なので、巨大な舞台装置がいくつも必要です。
そして衣装。出演者は、コーラス含め、数十人に上るので、その数も大変。
そしてその人数を収容できる控え室。。。

それをすべて備えているホールって言うだけでもほんの少ししかないのに、
その「音楽」という本によると、たとえば東京文化会館の大ホールでも、舞台装置をたとえば、前日の夜に搬入させてもらえない。
公立のホールなので、時間もしっかり決まっていて、まったく融通がきかないので、とても大変などと書かれていました。
たとえば夜7時に開演の場合、当日朝からセッティングをしていたら、リハーサルの時間がとても限られてしまう。。

そんなこんなで、日本のオペラファンの方は、ヨーロッパまで観に行かれる方が多いですね。
日本にオペラが浸透していないのも、無理はないな、と、とても残念に思っています。