ブルース・リー主演のカンフー映画「燃えよドラゴン」は1973年に公開され、世界各国で大ヒットとなった。
ブルース・リーとカンフーが世界的なブームとなり、多くのフォロワーが生まれた作品である。
ゴールデン・ハーベスト傘下のコンコルド・プロダクション(香港)とワーナー・ブラザーズ(アメリカ)の合作。
配給、及びソフト化の権利は欧米と日本ではワーナー、日本、韓国以外のアジア(香港、中国、台湾等)では
ゴールデン・ハーベストが保有する。
2004年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。
アメリカのメディアで成功し、凱旋した香港で「ドラゴン危機一発」が1971年に放映され、当時の映画興行記録
を更新する大ヒットとなり続く「ドラゴン怒りの鉄拳」で、リーの人気を不動のものにした。
そして上記した「燃えよドラゴン」が日本で放映され大ブームとなり、みんなを驚かせた。
しかし1973年7月20日に、リーは、「死亡遊戯」で共演予定の女優「丁珮」 の香港の自宅で頭痛を訴え、
鎮痛剤を飲んでベッドに横になり、そのまま昏睡状態に陥ったため、「丁珮」は映画プロデューサー
「レイモンド・チョウ」を呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。
32歳であった。
この死は世界を驚かし、葬儀は香港とシアトルで行われた。香港では数万人のファンが葬儀に押し寄せ、
シアトルの葬儀にはリーの弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列した。
死因もはっきりせず問題になったが、公式な死因は脳浮腫(うふしゅ)である。
司法解剖の結果、微量の大麻が検出されたほか、脳が極度に肥大化していたことが判明した。
検死報告によると、彼の脳は1,400gから1,575g(13%の増加)まで膨らんでおり、頭蓋内圧亢進により
脳幹部が圧迫されて死に至ったと考えられている。
香港に立てられた銅像。
燃えよドラゴン3:30判(吹き替え)
「 ドラゴンへの道」
ブルース・リーが企画・監督・脚本・主演・武術指導・ひとり5役を務めた主演第3作。
知人がイタリアで経営する中華レストランがギャングの地上げにあって苦しんでいる事を知り
単身ローマに降り立つタン・ロン。
彼の存在を快く思っていなかったレストランの従業員たちもチンピラたちを瞬く間に倒したタン・ロンに心酔する。
だがギャングの嫌がらせとタン・ロンの防衛戦は次第にエスカレートしていく。
やがてギャングのボスはタン・ロン打倒のために凄腕の空手家を呼び寄せるのだった……。
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