気づきの瞑想

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社会の開発とブッダの教えをつなぐもの~開発僧の活動、6つのポイント

2012年10月25日 01時21分22秒 | プラユキ・ナラテボー師の著書など

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サンガジャパン Vol.9(2012Spring)
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サンガ

サンガジャパン Vol.9(2012Spring)には、ナラテボー師寄稿
ブッダの大地を築く、タイ仏教の開発僧 社会の開発とブッダの教えをつなぐもの」が掲載されています。

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本稿が、ブッダの教えが個人の心の安寧といった次元にとどまらず、社会的な問題解決ヘの活用という意味でも大きな可能性を持っているということが周知される一助になったら幸いである。(P89)
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というナラテボー師の趣旨のもと、開発僧の活動や考え方について、ナラテボー師も影響を受けたというナーン和尚とサナーン師の詳細な記述から知ることができます。

なお、「大法輪」(2002年7月号)のナラテボー師の寄稿「タイ・開発僧の挑戦~心豊かな開発を目指して~」では、開発僧の活動がわかりやすく、6つのポイントでまとめられています。

日本社会に生きる私たちにも、多くの「気づき」を与えてくれる内容だと思います。
また、「瞑想」の意義を確認することもできるように思います。特に@ポイント<4>。

「大法輪」(2002年7月号)は、現時点で入手が不可能になっているようです。

下記に6つのポイントについて引用いたしますのでご参照ください。

<開発僧の活動~6つのポイント>
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<1>アバイヤームック(悪行)からの解放

「アバイヤームック」とは仏教語で、「破滅への道」を意味します。
釈尊は説法の中で、以下のようなことをアバイヤームックと述べています。

一、酒を飲む

二、博打を打つ

三、夜遊びをする(女を買う)

四、悪人と交わる

五、怠ける

の五つです。

“アバイヤームックから解放された村”として話題になった村を一つご紹介しましょう。ナコンラチャシーマー県にあるノーンムアン村です。かつて酒、ばくちが蔓延(まんえん)し、泥棒や強盗などの事件もおきていたというこの村に、開発僧チャルーム師が住職としてやってきました。彼はアバイヤームックからの解放に力点をおき、村人に働きかけました。

チャルーム師は、何度いってもばくちや泥棒をやめられない村人も、心の底ではそれから解放されたいと願っていることに目をつけました。まず一人、アバイヤームックから解放される人が出るように努力しました。解放された人には、他の村人にたいして、悪行から解放された喜びの体験談を具体的に語らせました。悪行から解放されたことによって、自分自身の心や生活に、そして家族たちにどのような良い変化があったかを説明させました。この方法により、次々と悪行を断つ人が現れました。

 

<2>村人のベーシックニーズを満たす

かつてタイでは、農業といえば「ナイナーム・ミープラー、ナイナー・ミーカーオ(水の中には魚がおり、他には米がある)」という言葉に代表されていたように、村人のベーシックニーズは満たされていました。

しかし商品経済が村にも押し寄せてくると、村人たちはタピオカやトウモロコシなどの換金作物を栽培するようになりました。「食うための農業」から「売るための農業」への変化です。

村人が採用した近代的農法は、一時期こそ彼らに夢を見せてくれましたが、それもすぐ崩れました。

単品作物の連作で土地はやせ、一度農薬に頼ったばかりに虫が増え、農薬の消費量は増加するばかり。冷蔵庫やテレビなどが周りに増える一方で、生存を支える糧である米や野菜といったものが不足し始めたのです。

開発僧たちは、農業のたてなおしこそ急務であると考え、仏法に基づく農業の思想的基盤を求めました。そして目にとまったのが、「自然農法」でした。自然農法は、自然の営みにまかせるという考えをもとにした無農薬・無肥料・無除草・無耕起を理想とする農法です。この自然農法を唱えた、日本の福岡正信氏の著書「わら一本の革命」は開発僧たちのバイブルとなっています。

中には、プッタカセート(仏農場)というモデル農場を持ち、自然農法による自給自足、「食うための農業」への回帰をよびかけている開発僧もいます。「まず自分たちで食べる漁を自分たちでつくり、余ったらそれを売るように」とアドバイスする僧侶もいます。

 

<3>エコロジカルな環境づくり

開発僧たちに共通していることは、自然というものに価値をおき、人間のみならず、動植物をこよなく愛していることです。スカトー寺の住職(当時)、ルアンポー・カムキエン師の説法には、「ダンマ・クー・タンマチャート(仏法とは自然のことである)」という言葉がよく出てきます。

スカトー寺の環境は、あらゆる種類の樹木により緑深い森が形成され、多くの動物や虫、そして池には魚などがいます。ここは一度、森が破壊され、丸裸にされたことがあったのですが、カムキエン師の熱意によってよみがえりました。

自然環境の大切さを認識する開発僧たちは、寺の環境を良くするだけにとどまらず、村の環境をよりエコロジカルなものとするよう努めます。例えば、村の開発のために資金が寄付されると、苗木を購入し、村人に配り、各自の土地に植林することを進めます。自然環境の意味を深く認識する開発僧ならではの農村開発のプロセスと言えましょう。

 

<4>村人の内面的苦悩の減少

基本的な物質的ニーズを満たすことは、それが失われている今日の農村においては必要なことですが、しかしそれが本質ではありません。農村開発の本質とは「パタナー・チット(心の開発)」、すなわち人間性の開発であり、農村が真の意味で「開発した」と認められるのは、村人の苦が少なくなった時、そして幸福が増した時なのです。

ノーンムアン寺のチャルーム師は、なぜ開発の仕事を始めたのか、との質問に対して次のように答えています。

「私は、修行の中で、社会を理解し、自分というものを理解するようになった。普通、私たちは他人ばかり見て、自分自身を見つめることは少ないが、自分自身を知れば、他人に対してとやかく言うことは少なくなるし、心身ともに解放に向かう。その中で、近くにいる人々に対しても、ひとりふたりと教えを広め、私自身の意識を発展させていくうちに、人の生活はどう成り立っているのかということに私の関心は向かうようになった」

この言葉から、瞑想は幸福の追求を個人レベルに閉じこめるのではなく、自分の存在を社会の中に、あるいは自然をも含めて周りの環境というものに開いていく効果があることがわかります。同時に、本当は心が平安でないにもかかわらず「幸福である」と思いこんでいる人たちに、「真の幸福感」への気づきを促します。

したがって開発僧たちは、ある程度村人の生活レベルが安定し、寺へ来る村人も増えだすと、瞑想指導に重点を移していきます。これによって、村人が真に自己に目覚め、家族の一員として、村人の一人としての役割に目覚め、ある者は自身の体験や知識を自分の村だけでなく、他村の農村開発に役立てようという意識を持ち始めます。ここにおいてはじめて、開発僧の事業は軌道に乗りはじめたといえます。

 

<5>村人間の連帯感、協力心の確立

村が真の意味で「開発」されるためには、個々人の目覚めも大切ですが、それを促し更なる村人間の連帯感を育むことも大切なことです。そのために開発僧は「祭り」を重視しています。かつては一ヶ月に一度ほどの割合で営まれていた伝統的な「祭り」が、村人間を連帯させる方便となっていたことを知っているからです。

農村部においては都市部に比べ祭りが残っていますが、村人の手稼ぎ人口が多くなるにつれ、その数も少なくなりつつあります。残っている「祭り」であっても、深い意味が見失われ、ただ寺に寄進する、あるいは楽しむ、という形だけのものも増えてきたといえるかもしれません。開発僧たちは、「祭り」を復活させて、その伝統的な意味を村人たちに知らせると同時に、現代社会の中での意味も付け加えようと試みています。

 

<6>真に自立した平和でお互いに自愛にあふれた村「ペンディン・タム(仏法の大地)」の樹立

ここまで紹介した五つの活動は、結局は「ペンディン・タム(仏法の大地)」、すなわち、資本主義的価値観を基盤とした村ではなく、あくまでも、約二千五百年前にブッダが説いた仏法に基づいた村の樹立を目指してのことです。それは、自然と調和したエコロジカルな社会。少欲知足で、悪をなさず、善をなす人々によって成り立っている社会です。開発僧の一連の活動は、外見的な発展と内面的な発展とを伴う、心の人間らしさを取り戻させるための方便であるといえるでしょう。

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開発僧については、こちらもご参照ください→「仏教・開発・NGO―タイ開発僧に学ぶ共生の智慧」~仏教における「開発」とは?


 

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