老病死(いのち)の寺―現代仏教にみる看取りの風景 | |
須田 治 | |
川辺書林 |
脱「葬式仏教」の改革派僧侶を全国に訪ね「いのち」の質を問い直す30編”(Amazonより引用)
プラユキ・ナラテボー師の取材記事が掲載されています。
「ブッダに還れ 開発僧の挑戦
第五章 タイ仏教に学ぶ」(P225~263)
老病死(いのち)の寺―現代仏教にみる看取りの風景 | |
須田 治 | |
川辺書林 |
仏教・開発・NGO―タイ開発僧に学ぶ共生の智慧 | |
- | |
新評論 |
“経済至上主義の開発を脱し、仏教に基づく内発的発展を目指すタイの開発僧とNGOの活動を通して、持続可能な発展への新たな智慧を切り拓く”(Amazonより引用)
プラユキ・ナラテボー師の活動も紹介されています。
「東北タイ・チャイヤプーム県ターマファイワーン村を事例として
第6章 農村社会の変容と仏教寺院」 (P150~160)
-----
ところで、「開発僧」とは?
ナラテボー師の著書「「気づきの瞑想」を生きる 」からご紹介します。
-----------------------
ブッダの教えは…他に頼ることなく、みずからの心の平和を自力で築き、そして、生きとし生けるものと共に幸せに生きる道を教えている。実は最近、タイでは『プラ・ナックパッタナー(開発僧)』といった一群の僧侶が出現してきている。
開発僧は…、今日人々が直面している現実の社会問題にもしっかりと目を向け、仏教的な教えをもとにして、そういった社会問題にも積極的に取り組んでいこうとしている僧侶たちだ。(P41、一部加工)
-----------------------
当時タイの大学院生だったナラテボー師が、実際に開発僧たちと交流した印象は、
-----------------------
開発僧たちと身近に触れ合うようになってからというもの、その話の内容だけでなく、彼らが漂わす雰囲気や声音、そのようなものに魅せられはじめてきた私がいた。私が出会ってきた開発僧たちはひとりひとりじつに個性的で、知的であったり、情的であったり、男性的で豪快であったり、女性的で繊細であったり、それぞれのカラーは確かにあった。しかし同時に、彼らが皆一様に共通して醸し出している雰囲気があるように私には感じられた。それは言葉にすれば、「明るさ」「余裕」「自由」「温かさ」というような性質だった。(P47)
-----------------------
明るくいきいきと現実社会の問題に取り組んでいる開発僧たちの姿と自らを引き比べて、
-----------------------
さまざまな社会問題について学び、議論し、そして実際の活動にも携わってきた。しかしそこには常に焦りが、窮屈さが、イライラがつきまとい、暗く、冷たく、落ち込んでしまうことが多かった。それでも負けずに無理を通して、かえってやればやるほど疲れてしまう自分がいた。(P48)
-----------------------
良かれと思ってやったことでも、相手に伝わらなかったり、思った通りの結果にならなかったり、自分もクタクタになってしまっていたり…
人生なんてそんなものなんだろう、と、思いきや、どんな苦難困難にも「明るく、余裕を持って、自由に、温かく」対応していくという道も、実は、あるんですね~
ところで、ブッダも「開発」という言葉をつかって教えを説かれています。
「仏法(ポー・オー・パユットー著)(P375)」からご紹介します。
-----------------------
「修習」()は、増進する、起こす、訓練・教化するといった意味である。パーリ語では、ブッダはと言われた。すなわち、タイ語のパッタナー(開発)そのものである。この修習は、三学に代えて使える言葉である。
四修習は、
①身修習:身体を開発すること、すなわち、自然的、あるいは物質的環境と支援関係を持つことである。
②戒修習:戒を開発すること、すなわち、社会的環境、すなわち、朋友と支援関係を持つことである。
③心修習:心を開発すること、すなわち、心を増進して美徳、善、勤勉さと楽しさ、明朗さ、静けさを成長させることである。
④慧修習:慧を開発すること、すなわち、知識、思考、理解、真実の洞察力を支援創造することである。
すでに述べたように、この四修習は人の生命の開発の様々な面が開発できたかどうかを見るために、成果を測るために使う。
-----------------------
私たちは、どんなことでも練習したり学習したりするとき、それがどのくらい成果が出ているかとか、身についているかとかを、なんらかの基準を用いて見極めようとします。
仏教修行もそれと同じ。
「四修習」は、はたして修行を通して人間開発が正しくすすめられているかどうかをチェックする項目、という感じですね。
チェック1. 環境(身体や自然)と相互に理解しあい、協力しあうような関係を持っていますか?
チェック2. 周りの人達、社会と相互に理解しあい、協力しあうような関係を持っていますか?
チェック3. 美徳、善、勤勉さと楽しさ、明朗さ、静けさ、そういう方向に心を成長させていますか?
チェック4. 知識、思考、理解、真実の洞察力を深めるよう、智慧を育てていますか?
ナラテボー師が開発僧の皆さんに感じられた印象は、こうした項目をクリアした「開発された人間」が醸すものなんですね
ちなみに、ナラテボー師の師匠のルアンポー・カムキエン師も、「修習」(=タイ語ではパワーナー)について、
「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌム著)の中で言及されています。
-----------------------
手のひらを動かしてひっくり返すときの感覚を感じてごらんなさい。知らず知らずに考えごとが起こってきますが、その考えに惑わされず、体に戻るように。体がここにあることを意識して、よく注意して観るようにしましょう。これを「パワーナー(心の成長、修養、智慧の開発)」と呼びます。
パワーナーとは、気づくことに努めることで、静けさを求めるものではありません。それによって自分自身に気づくことがよくできるようになれば、迷いが少なくなり、真理が明らかになっていくでしょう。(P80)
-----------------------
こちらもご参照ください→「気づきの瞑想修行をはげましてくれる、ルアンポー・カムキエン師の言葉」
「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語 | |
プラユキ・ナラテボー | |
佼成出版社 |
仏法[新装版] | |
ポー・オー・パユットー | |
サンガ |
苦しまなくて、いいんだよ。 | |
プラユキ・ナラテボー | |
PHP研究所 |
「苦しまなくて、いいんだよ。」の中のエピソード動画です。
"やんちゃな感情"をより成熟した良質な心へと成熟させるには?
動画のエピソード該当部分をご紹介します。
-----------------------
P216
..."やんちゃな感情"をより成熟した良質な心へと変容させていくためには、植物を育てるときのことがヒントになると思います。
たとえば、フルーツの種(苗木)を植えるとしましょう。それが元気に育ち、たわわな果実を実らせるにはいったい何が必要でしょうか?肥沃な土壌、光、水、そしてできれば、私たち人間の心を込めた世話があればなおよしですね。これら果実の豊かな生育に必要な環境的要因、それは「縁」と呼んでもいいでしょう。これらの縁をそれぞれ心にあてはめれば、肥沃な土壌→受容、光→気づき、水→思いやり、人間の世話→理解、と対応させることができるのではないでしょうか。
すなわち、怒りであれ、欲であれ、慢心であれ、悲しみであれ、あるがままにまるごと受け入れられ、気づきの光が当てられ、思いやりによって潤いを与えられ、正しく理解されて、適切な対応が図られたとき、それらの未熟な心も確実に良質な心へと成熟していくことと思います。
-----------------------
「苦しみ」も同じこと、と引き続き語られます。
まず、「苦しみ=私」ではないことに気づくこと。
そして、「苦しみを観る私」が「苦しみ」のあるがままを観察し、苦しみのありようやその生じる過程を理解していくこと。
ありのままを観察する、苦しみを理解していく、こうしたプロセスそのものが「智慧」となっていくということ。
こうしたことに、ひとつひとつ、コツコツと取り組んでいくこと。あきらめないこと。
自分には無理~と、なんだかがっかりしたら、ブッダのこんな言葉を思い出したりします。
-------------
「友よ、あなたも善をなすことができる、どうして自分自身を蔑視されるか」
社会の中で多くの人は自分自身を、自分は能力がないと思って軽蔑し、意気阻喪して、善なることをすることができない。ブッダはこの仏語で注意されたのです。
-------------
<仏法の思考と実践―テーラワーダ仏教と社会(ポー・オー・パユットー著) p43、より>
なんだか、元気になります
苦しまなくて、いいんだよ。 | |
プラユキ・ナラテボー | |
PHP研究所 |
仏法の思考と実践―テーラワーダ仏教と社会 | |
ポー・オー・パユットー | |
サンガ |
「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方 | |
カンポン・トーンブンヌム,上田 紀行 | |
佼成出版社 |
「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方(カンポン・トーンブンヌム著)の中から、ご紹介します。
体育教師から一転、事故により重い障害を追ったカンポンさん。
苦しみを減らそうと、さまざまな取り組みをされました。そうした中、ルアンポー・カムキエン師に、”障害を負った私にできる修行の方法を教えて下さい”とお手紙を送ります。ほとんど横になっている姿勢しか取れないカンポンさんに対して、カムキエン師は次のようなお返事をされました。
-----------------------
私はあなたの善き仲間になれることをとても嬉しく思います。
修行に関して誤った方向におちいらないように導くお手伝いをいたしましょう。自分自身を見つめ、感じていく瞑想のやり方をお勧めします。たとえ体が不自由で横になっていたとしても修行は可能です。
手のひらを動かしてひっくり返すときの感覚を感じてごらんなさい。知らず知らずに考えごとが起こってきますが、その考えに惑わされず、体に戻るように。体がここにあることを意識して、よく注意して観るようにしましょう。これを「パワーナー(心の成長、修養、智慧の開発)」と呼びます。
パワーナーとは、気づくことに努めることで、静けさを求めるものではありません。それによって自分自身に気づくことがよくできるようになれば、迷いが少なくなり、真理が明らかになっていくでしょう。
私たちは、体と心の真実を観ることができるようになるでしょう。そのものとなるのではなく、観るものとなる。体や心に何が起ころうとも明確にそれを知るものになりましょう。
時に幸せが起こってもそれを追う人とならず、幸せをただ感じる人となる。苦しみが起こってきても、苦しんでしまう人とならずに苦しみを観る人になるようにしましょう。
もし、飽きがきたり、息が詰まったり、腹が立ってくるような事態が起こったときでも、それに気づくことが大切です。それは心の状態なのですから。あなたがその状態そのものになる必要はありません。そうやって修行に励んでごらんなさい。
(P80)
-------------------------------
「気づきの瞑想」のエッセンスが、ギュッと詰まっています…
「気づきの瞑想」修行方法はこちらをご参照ください。→「気づきの瞑想」実践方法・ポイント
「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方 | |
カンポン・トーンブンヌム,上田 紀行 | |
佼成出版社 |
著者紹介<Amazon より引用>
カンポン・トーンブンヌム
1955年、タイ・ナコンサワン県生まれ。1977年、アーントーン体育高等専門学校に体育教師として入職したが、2年後、水泳の模範演技中に事故に遭い全身不随に。その後、ルアンポー・カムキエン・スワンノー僧に師事し「気づきの瞑想」を修める。現在、寺院や病院、学校を中心に講演活動を行なっている。
--------
読書メモ
--------
体育教師から一転、全身不随となったカンポンさん。「苦しむ人」から「苦しみを観る人」になっていくプロセスは何度読み返しても心にぐっときます
プラユキ・ナラテボー師の著書や、気づきの瞑想の学びと実践に役に立つと思われる本を、本棚にまとめました。
↓
(外部サイトリンクです)