古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

和気清麻呂の奉納文 その2

2025-02-02 09:20:14 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回ご紹介するのは、和気清麻呂の2枚目の奉納文ですが、これは前々回ご紹介した、道鏡事件が『続日本紀』編集者の創作であるという説に関係すると思われるものです。

【和気清麻呂の2枚目の奉納文】

番号
読み
解釈
古代文字の種類
15
わかみかとはあめつちのは 我がみかどは天地のは 阿比留文字
しめよりこのかた 和気清麿(花押) じめよりこのかた 和気清麻呂 阿比留文字+漢字
きみとやつことさたまれり 君と奴と定まれり 阿比留文字

まず、この奉納文の意味を知るため、同じような文言が使われている文献がないか探したところ、『平田翁講演集』(平田篤胤:著、室松岩雄:編、法文館書店:1913年刊)という本に、前々回ご紹介した宇佐神宮の御託宣の原文「我國家開闢以來、君臣定矣」を、

「わがみかどはあめつちのはじめよりこのかた、きみとやつことさだまれり」

と読んでいるのを発見しました。つまり、この奉納文は宇佐神宮の御託宣の前半部分であると解釈できるのです。

なお、「みかど」については、『大日本国語辞典』を調べてみると、5番目に「帝王の治め給ふ國土。國家。」と書かれているので(次図参照)、「みかど=国家」で問題ないでしょう。

みかど

【みかど】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

したがって、この奉納文が存在するということは、和気清麻呂は宇佐神宮の御託宣として確かにこの文言を持ち帰ったのだと思われます。

ところで、前々回ご紹介した『訓読続日本紀』には、孝謙上皇が淳仁天皇を退位させた際に、その根拠として、彼女が父親の聖武天皇から、「王(おほきみ)を奴(やつこ)となすとも、奴を王と云ふとも、汝(いまし)の爲(せ)むまにまに・・・」と言われたことを挙げています。

つまり、自分には、聖武天皇から王(皇族男子)を奴(臣下)にする権限が与えられているという主張です。(なお、王を皇族男子と解釈する理由は、本ブログの「舎人親王の奉納文」で解説済み)

ここからは私の想像となりますが、道鏡事件には次のような経緯があったのかもしれません。

1.何らかの理由で、和気清麻呂は宇佐神宮の御託宣を持ち帰った。(弓削道鏡とは無関係)

2.その文言は「わがみかどはあめつちのはじめよりこのかた、きみとやつことさだまれり」だった。

3.これは聖武天皇の言葉を否定するものだったため、称徳(孝謙)天皇はこれに激怒し、清麻呂を大隅に配流した。

4.しかし、『続日本紀』編集者は、この事件を道鏡の野望を阻止した物語に脚色するため、御託宣の後半部分を創作し、道鏡がこれに激怒したことにした。

参考までにご紹介すると、前々回の「『続日本紀』と道鏡事件」(中西康裕:著)という論文では、道鏡事件創作の動機を次のように推測しています。

すなわち、第四十九代光仁天皇の即位は天武系から天智系への皇統の転換であり、その子である第五十代桓武天皇には「新王朝」創設という意識があったため、『続日本紀』編纂にあたって、皇位継承をめぐる混乱、すなわち道鏡事件を創作することによって「前王朝」の失態を現出させ、「新王朝」誕生は革命であったという根拠にしたのではないかというものです。

確かに桓武天皇は、平安遷都によって千年の都を築き、蝦夷の反乱を平定して領土を北方に拡大し、律令政治の改革を断行した名君ですから、「新王朝」における革命の旗手を自任していた可能性は高く、道鏡事件を「創作」する動機はあったと言えそうです。

そう考えると、この奉納文も、歴史的な事実を検証する上で非常に貴重な資料であると思われるのです。

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和気清麻呂の奉納文

2025-01-05 10:23:39 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は、本来なら「13」という番号が割り当てられている藤原千常という人物の奉納文ですが、この人は10世紀後半に活躍した武将で、弓削道鏡よりも200年ほど後の時代の人なので省略し、より歴史的価値が高い、次の和気清麻呂の奉納文をご紹介します。

【和気清麻呂の奉納文】

番号
読み
解釈
古代文字の種類
14
とほつみおやのみたまよよのおやたちうからやか 遠皇祖の御魂 代々の祖達 親族(うがらやか 阿比留文字
のみたまあめにのほりてかへりことまをしひの ら)の御魂 天に登りて返り言申し 日の 阿比留文字
わかみやにととまりき わけきよまろふみ 少宮に留まりき 和気清麻呂書 阿比留文字

この奉納文に書かれた文言は、日本紀にも使われているので、『日本紀標註』(敷田年治:著、小林林之助:1891年刊)という本を参考にして解説します。

まず、1行目の「とほつみおや」は、孝徳紀元年秋七月の條に「遠皇祖」の訓として使われているので、皇室の祖先を意味しているようです。

ちなみに、皇室以外の氏族の祖先は「遠祖」(とほつおや)と書かれています。

また、「うからやかり」は、顕宗紀元年の條の直前に「親族」の訓として「うがらやから」と書かれているので、「り」は「ら」の間違いだと思われます。(赤字の部分)

次に、2行目の「あめにのほりて・・・」以降に対応する部分は、神代上の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の最期の記事に、「登天報命仍留宅於日之少宮矣」と書かれていて、「あめにのぼりてかへりことまをしたまひき、かれ、ひのわかみやにとどまりましぬ」と訓がつけられています。

和気清麻呂は、『和気清麻呂公』(岡山県教育会:1940年刊)という本によると、天平五年(西暦733年)に生まれているので、この奉納文を日本紀(西暦720年完成)から引用して書いたことはとても自然なことだと思われます。

そう考えると、「登天報命仍留宅於日之少宮矣」という文章は、実は敬語を省略して「あめにのぼりてかへりことまをし、ひのわかみやにとどまりき」と読むのが正しいということになります。

また、全体の意味は、「皇室の祖先の御魂や、代々の祖先・親族の御魂は、(伊弉諾尊と同じく)天に登り、(神々に)あいさつを申し上げ、日の少宮に留まった」となります。

3行目の最後は奉納者の署名で、「わけきよまろ」に相当する人物は和気清麻呂と考えられますから、これまでと同様、氏(うぢ)と名の間に「の」を挿入することはなかったということが分かります。

また、末尾の「ふみ」は、単純に考えれば「文」ですが、「〇〇が書いた」という意味を考慮すると「書」という漢字を当てるのがふさわしいと思われます。(次図参照)

「書」という漢字の意味
【「書」という漢字の意味】(土屋鳳洲:著『明解漢和大字典』より)

この奉納文は、日本紀の正しい訓読みと、和気清麻呂の正しい読み方を明らかにしていると考えられますから、これまでと同様、非常に歴史的価値の高いものであると判断できるのです。

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弓削道鏡の奉納文

2024-12-09 12:42:08 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は、弓削道鏡の奉納文ですが、実は彼の奉納文だけは日本の古代文字ではなく漢字で書かれていて、2枚奉納されていますが、それらをまとめて「12」という番号が割り当てられています。

【弓削道鏡の奉納文】

番号
順番
内容
12
1枚目 天平神護元年 道鏡法師
     三月
2枚目 應神天皇(姿絵)
天平神護元年三月 大政大臣道鏡法師

なお、この時代のことは『続日本紀』(しょくにほんぎ)という歴史書に詳しく書かれているので、『訓読続日本紀』(藤原継縄・他:撰、今泉忠義:訳、臨川書店:1986年刊)という本を参考にして説明を進めていきます。

また、奉納文の「應」は「応」の旧字体であり、天平神護元年は西暦765年で、その前年の十月九日に第四十六代孝謙天皇が重祚(ちょうそ)して、第四十八代称徳天皇となっています。

孝謙天皇は、第四十五代聖武天皇の第一皇女で、彼女は西暦758年に第四十七代淳仁天皇に譲位して上皇となるのですが、結局西暦764年に淳仁天皇を退位させて重祚したわけで、当時の最高実力者だったようです。

また、孝謙上皇は称徳天皇となってからも弓削道鏡を寵愛したことは有名で、前年九月に大臣禅師(おほおみぜんじ)の位を道鏡に授け、天平神護元年閏(うるう)十月には太政大臣禅師(おほまつりごとおほおみぜんじ)に昇進させ、文武百官に道鏡を拝賀させています。

次に当時の時代背景ですが、宇佐神宮では御託宣が頻繁に下されており、東大寺の大仏建立(西暦752年完成)の際にも、この事業が成功することを神が請け負うことや、必要な黄金が国内から産出することを予言する御託宣が下されていたそうです。

なお、宇佐神宮とは、八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)を祀る全国四万余りの八幡宮の本宮で、現在の大分県宇佐市にあり、八幡神とは、応神天皇、神功皇后、比売大神の三柱の神を合わせたものだそうです。

したがって、道鏡が応神天皇の姿絵を奉納したのは、彼の八幡神に対する信仰心の表明だったのかもしれません。

そういった状況において、神護景雲三年(西暦769年)九月に、「道鏡を皇位につければ天下太平になるだろう」という宇佐神宮の御託宣が朝廷にもたらされ、道鏡は深く喜びます。

このとき、称徳天皇は和気清麻呂を宇佐神宮に派遣し、改めて御託宣を持ち帰るように命じ、この際、道鏡は清麻呂に昇進を約束したのですが、新たな御託宣は、

「我が国家(くに)開闢(はじめ)より以来(このかた)君臣定りぬ。臣を以て君と為すこと、未だ之れあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃(はら)ひ除くべし」

【原文】我國家開闢以來、君臣定矣、以臣爲君、未之有也、天之日嗣必立皇緒、無道之人宜早掃除。

という内容で、道鏡を皇位につけてはならないことが明白でした。

このため、これに怒った道鏡は清麻呂を大隅に配流したのですが、称徳天皇の死後、結局道鏡は失脚したというのが『続日本紀』の記録です。

これに対して、『日本史研究(369)』(日本史研究会:1993年5月刊)という雑誌に、「『続日本紀』と道鏡事件」(中西康裕:著)という論文が掲載されていて、『続日本紀』の記述をそのまま信用することはできないということが論じられています。

これを簡単に説明すると、

1.もし称徳天皇が道鏡を天皇にするつもりだったのなら、わざわざ和気清麻呂を宇佐神宮に派遣する必要がないこと。

2.道鏡失脚後、和気清麻呂は以前の地位に戻されたが、道鏡の野望を阻止した最大の功労者としては処遇が不十分であること。

3.称徳天皇の死後、道鏡は下野国薬師寺を造る別当(長官)に左遷されたが、皇位を狙ったものに対する罰としては処分が軽すぎること。

といった点を指摘して、道鏡事件そのものが『続日本紀』編集者の創作であるという結論を導いています。

確かに、もし道鏡が本当に皇位を狙ったのであれば、いわゆる逆賊(反逆者)ですから、伊勢神宮にこのような奉納文が残されたまま放置されているというのもおかしな話です。

そう考えると、この奉納文も、歴史的な事実を検証する上で非常に貴重な資料であると言うことができるのではないでしょうか。

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舎人親王の奉納文

2024-11-03 09:10:37 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。(以下、『伊勢神宮の古代文字』と略す)

今回は、順番が前後しますが、舎人親王の2枚の奉納文です。これらは、太安萬侶や稗田阿礼の奉納文と同じく、倭建命(やまとたけるのみこと)に関するもので、古事記によると、1枚目は倭建命が能煩野(のぼの)に到着したときに詠んだ歌、2枚目は倭建命が臨終前に詠んだ歌とされています。

なお、舎人親王は第四十代天武天皇の皇子で、天武天皇の四年(西暦676年)に誕生し、天平七年(西暦735年)に60歳で亡くなっています。

【舎人親王の奉納文】
・1枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
のちのまたけむひとはたたみこも 命が無事であろう人は (たたみこもは枕詞) 肥人書
へくりのやまのくまかしかはをう 平群の山の熊橿の葉を頭部の飾り 肥人書
にさせそのこ 一品舍人王(花押) にせよその家の子 一品舎人親王 肥人書+漢字

これに関しては、日本紀にもよく似た歌があり、本ブログの「古事記より古い文献」にその解説をしているので、よかったらそちらも参考にしてください。

・2枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
とめのとこのヘにわかおきし 少女の床の辺に我が置きし 肥人書
つるきのたちそのたちはや 剣の太刀その太刀はや 肥人書
やまとたけるのみことのうた 一品舍人王(花押) 倭建命の歌 一品舎人親王 肥人書+漢字

今回の古代文字は、これまでご紹介した書体では解読できないので、『神字日文傳』(かむなひふみのつたへ)(平田篤胤:著、佐藤信淵・他:編、文政二年刊)に掲載されている別の書体を五十音順に並べ替えてご紹介します。

次の図が「第十文」と書かれた書体で、卜部家に伝わるとする説と、阿波国名方郡大宮神社に伝わるとする説の2つがあるそうです。

肥人書五十音図第十文
【肥人書 第十文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

なお、「第十文」の書体をよく見ると、平仮名に似た文字(わ行の「ゑ」)があるので、肥人書が平仮名の誕生に寄与したのではないかという印象を受けますが、いかがでしょうか?

さて、まず最初にこの奉納文で特に注目されるのは、この五十音図には存在しない文字が使われている点です。

それは先頭の太字の部分で、その書体はカタカナの「ノ」に似ているのですが、古事記との比較によって「い」と読むことは間違いなく、ひょっとするとあ行の「い」を表わしたものかもしれません。

もしそうであれば、8世紀にはあ行の「い」が一般的になった結果、肥人書の五十音図に修正が加えられたということのようです。

次に、古事記と異なる部分を赤字で、奉納文だけに存在する部分を青字で示しましたが、何度も言うように、これが偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致は、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

また、2枚目の奉納文に「やまとたけるのみこと」と書かれていることも、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

なぜなら、『伊勢神宮の古代文字』によると、これらの奉納文は明治初年頃、新しい紙に写されたものだそうですが、当時は本ブログの「雄略天皇の和名」でご紹介したように、「やまとたける」ではなく「やまとたけ」という呼称が一般的だったからです。

この「やまとたけ」がどれだけ古い呼称か調べたところ、『続群書類従 第拾八輯下』(塙保己一:編、続群書類従完成会:1924年刊)という本に、「春能深山路」(飛鳥井雅有:著)という鎌倉時代の日記が収録されていて、弘安三年(西暦1280年)十一月十六日に「山とたけのみこと」という記述がありました。

したがって、すでに鎌倉時代には「やまとたけ」が一般的になっていたようですから、「やまとたける」と書かれたこの奉納文が後世の偽造であるとはとても考えられないのです。

なお、1枚目の奉納文の「うつ」は、古事記との比較から「うず」のことで、この仮名遣いの間違いは、奈良時代初頭には〔zu〕と〔du〕の音韻の区別があいまいになっていたことを示していると考えられます。

また、2枚目の奉納文の1行目の「おとめ」は「をとめ」が正しく、やはり〔wo〕と〔o〕の音韻の区別があいまいになっていたことを示していると考えられます。

続く2行目の「剣の太刀」は、一般的に剣は両刃(もろは)で太刀は片刃(かたば)ですから、矛盾する表現ですが、『原色日本の美術 第21巻 甲胄と刀剣』(尾崎元春・佐藤寒山:著、小学館:1970年刊)によると、おそらく鋒両刃造(きっさきもろはづくり)の大刀のことだと思われるそうです。

次に、この奉納文が奉納された時期ですが、「一品舍人王」という署名があって、一品(いっぽん)は親王の位階を示し、「舍」は「舎」の旧字体で、舍人王は舎人親王のことだと考えられますから、舎人親王が一品となった養老二年(西暦718年)以降に奉納されたことになります。

舎人親王は、日本紀作成の総責任者としてその完成に尽力した人物ですから、ひょっとすると西暦720年に日本紀が完成したことを神に感謝するため、彼はこの年にこれらの奉納文を奉納したのかもしれませんね。

なお、『伊勢神宮の古代文字』には、奉納文が古い順に配置されているのですが、今回の奉納文は稗田阿礼の奉納文より新しいので、配置する順番を間違えてしまったということだと思われます。

最後に、親王と王の違いについて説明すると、親王は皇太子以外の皇族男子のことで、親王宣下が行なわれるまでは、皇族男子は王と呼称されていたようです。(次図参照)

親王と王
【親王と王】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

ただし、この記事によると、親王宣下は第四十七代淳仁天皇の時代になってから行なわれたようですから、淳仁天皇の父親である舎人親王は、実は「舎人王」とよばれていたのかもしれません。

そう考えると、「一品舍人王」という署名も、この奉納文が本物である証拠だと思われるのです。

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稗田阿礼の奉納文 その2

2024-10-06 08:43:54 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は前回の続きで、稗田阿礼の2枚目の奉納文をご紹介します。

【稗田阿礼の2枚目の奉納文】

番号
読み
古代文字の種類
11
うみかゆけはこしなつむおほかはらのうゑくさ 阿比留文字
うみかはいさよふ 阿比留文字
はまつちとりはまよゆかすいつたふ 阿比留文字
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと 肥人書
つちのさる和銅元(記号) 稗田阿礼(花押) 肥人書+漢字

この奉納文の1行目から3行目は、前回の歌の続きですが、やはり古事記とは異なる部分があるので、『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)の原文をご紹介します。なお、意味は『紀記論究外篇 古代歌謡 上巻』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)を参考にしました。

【上記奉納文に対応する古事記の原文と意味】

(后たちや御子たちが)海潮(うしほ)に入り、難渋しながら進んだときに詠んだ歌。

原文
読み
意味
宇美賀由氣婆 うみがゆけば 海を行けば (「が」は場所を意味する)
許斯那豆牟 こしなづむ (波が腰にまつわりついて)行きなやむ
意富迦婆良能 おほかはらの 大河原の
宇惠具佐 うゑぐさ 水辺の草(が波に漂うように)
宇美賀波伊佐用布 うみがはいさよふ 海は進もうとしても進めない

また、(八尋白智鳥が)飛んで、磯にいるときに詠んだ歌。

原文
読み
意味
波麻都知登理 はまつちとり 浜千鳥 (八尋白智鳥にいいかけたか?)
波麻用由迦受 はまよゆかず 浜を行かず (「よ」は「を」と相通じる)
伊蘇豆多布 づたふ 磯づたいに行くよ

両者の異なる部分を赤字で、奉納文だけに存在する部分を青字で示しましたが、前回と同様に、この奉納文は古事記より古いので、稗田阿礼の奉納文が間違っていて、その間違いを太安萬侶が古事記で校正したということだと思われます。

前回も言いましたが、これが偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致は、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

なお、「うゑぐさ」は、松岡静雄氏の見解によると、莞(おほゐ)という水辺に自生する草で、蓆(むしろ)を織るのに使われたそうです。

莞は、『大日本国語辞典』では「ふとゐ」という読みを採用していて(次図参照)、カヤツリグサ科アブラガヤ属の植物で、多くの別名があり、「おほゐ」もその一つです。

莞(ふとゐ)
【莞(ふとゐ)】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

また、「いさよふ」は、進もうとしても進めないという意味です。(次図参照)

いさよふ
【いさよふ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

以上の検討結果をまとめると、全体の意味は次のようになると思われます。

【前半の意味】海を行けば(波が腰にまつわりついて)行きなやむ。大河原の水辺の草が波に漂うように、海は進もうとしても進めない。

【後半の意味】浜千鳥が(その名にそむいて)浜を行かず、磯づたいに行くよ。

なお、4行目と5行目に関しては、1枚目の奉納文とまったく同一なので、前回の解説をご覧ください。

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