古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

弓削道鏡の奉納文

2024-12-09 12:42:08 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は、弓削道鏡の奉納文ですが、実は彼の奉納文だけは日本の古代文字ではなく漢字で書かれていて、2枚奉納されていますが、それらをまとめて「12」という番号が割り当てられています。

【弓削道鏡の奉納文】

番号
順番
内容
12
1枚目 天平神護元年 道鏡法師
     三月
2枚目 應神天皇(姿絵)
天平神護元年三月 大政大臣道鏡法師

なお、この時代のことは『続日本紀』(しょくにほんぎ)という歴史書に詳しく書かれているので、『訓読続日本紀』(藤原継縄・他:撰、今泉忠義:訳、臨川書店:1986年刊)という本を参考にして説明を進めていきます。

また、奉納文の「應」は「応」の旧字体であり、天平神護元年は西暦765年で、その前年の十月九日に第四十六代孝謙天皇が重祚(ちょうそ)して、第四十八代称徳天皇となっています。

孝謙天皇は、第四十五代聖武天皇の第一皇女で、彼女は西暦758年に第四十七代淳仁天皇に譲位して上皇となるのですが、結局西暦764年に淳仁天皇を退位させて重祚したわけで、当時の最高実力者だったようです。

また、孝謙上皇は称徳天皇となってからも弓削道鏡を寵愛したことは有名で、前年九月に大臣禅師(おほおみぜんじ)の位を道鏡に授け、天平神護元年閏(うるう)十月には太政大臣禅師(おほまつりごとおほおみぜんじ)に昇進させ、文武百官に道鏡を拝賀させています。

次に当時の時代背景ですが、宇佐神宮では御託宣が頻繁に下されており、東大寺の大仏建立(西暦752年完成)の際にも、この事業が成功することを神が請け負うことや、必要な黄金が国内から産出することを予言する御託宣が下されていたそうです。

なお、宇佐神宮とは、八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)を祀る全国四万余りの八幡宮の本宮で、現在の大分県宇佐市にあり、八幡神とは、応神天皇、神功皇后、比売大神の三柱の神を合わせたものだそうです。

したがって、道鏡が応神天皇の姿絵を奉納したのは、彼の八幡神に対する信仰心の表明だったのかもしれません。

そういった状況において、神護景雲三年(西暦769年)九月に、「道鏡を皇位につければ天下太平になるだろう」という宇佐神宮の御託宣が朝廷にもたらされ、道鏡は深く喜びます。

このとき、称徳天皇は和気清麻呂を宇佐神宮に派遣し、改めて御託宣を持ち帰るように命じ、この際、道鏡は清麻呂に昇進を約束したのですが、新たな御託宣は、

「我が国家(くに)開闢(はじめ)より以来(このかた)君臣定りぬ。臣を以て君と為すこと、未だ之れあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃(はら)ひ除くべし」

【原文】我國家開闢以來、君臣定矣、以臣爲君、未之有也、天之日嗣必立皇緒、無道之人宜早掃除。

という内容で、道鏡を皇位につけてはならないことが明白でした。

このため、これに怒った道鏡は清麻呂を大隅に配流したのですが、称徳天皇の死後、結局道鏡は失脚したというのが『続日本紀』の記録です。

これに対して、『日本史研究(369)』(日本史研究会:1993年5月刊)という雑誌に、「『続日本紀』と道鏡事件」(中西康裕:著)という論文が掲載されていて、『続日本紀』の記述をそのまま信用することはできないということが論じられています。

これを簡単に説明すると、

1.もし称徳天皇が道鏡を天皇にするつもりだったのなら、わざわざ和気清麻呂を宇佐神宮に派遣する必要がないこと。

2.道鏡失脚後、和気清麻呂は以前の地位に戻されたが、道鏡の野望を阻止した最大の功労者としては処遇が不十分であること。

3.称徳天皇の死後、道鏡は下野国薬師寺を造る別当(長官)に左遷されたが、皇位を狙ったものに対する罰としては処分が軽すぎること。

といった点を指摘して、道鏡事件そのものが『続日本紀』編集者の創作であるという結論を導いています。

確かに、もし道鏡が本当に皇位を狙ったのであれば、いわゆる逆賊(反逆者)ですから、伊勢神宮にこのような奉納文が残されたまま放置されているというのもおかしな話です。

そう考えると、この奉納文も、歴史的な事実を検証する上で非常に貴重な資料であると言うことができるのではないでしょうか。

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舎人親王の奉納文

2024-11-03 09:10:37 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。(以下、『伊勢神宮の古代文字』と略す)

今回は、順番が前後しますが、舎人親王の2枚の奉納文です。これらは、太安萬侶や稗田阿礼の奉納文と同じく、倭建命(やまとたけるのみこと)に関するもので、古事記によると、1枚目は倭建命が能煩野(のぼの)に到着したときに詠んだ歌、2枚目は倭建命が臨終前に詠んだ歌とされています。

なお、舎人親王は第四十代天武天皇の皇子で、天武天皇の四年(西暦676年)に誕生し、天平七年(西暦735年)に60歳で亡くなっています。

【舎人親王の奉納文】
・1枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
のちのまたけむひとはたたみこも 命が無事であろう人は (たたみこもは枕詞) 肥人書
へくりのやまのくまかしかはをう 平群の山の熊橿の葉を頭部の飾り 肥人書
にさせそのこ 一品舍人王(花押) にせよその家の子 一品舎人親王 肥人書+漢字

これに関しては、日本紀にもよく似た歌があり、本ブログの「古事記より古い文献」にその解説をしているので、よかったらそちらも参考にしてください。

・2枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
とめのとこのヘにわかおきし 少女の床の辺に我が置きし 肥人書
つるきのたちそのたちはや 剣の太刀その太刀はや 肥人書
やまとたけるのみことのうた 一品舍人王(花押) 倭建命の歌 一品舎人親王 肥人書+漢字

今回の古代文字は、これまでご紹介した書体では解読できないので、『神字日文傳』(かむなひふみのつたへ)(平田篤胤:著、佐藤信淵・他:編、文政二年刊)に掲載されている別の書体を五十音順に並べ替えてご紹介します。

次の図が「第十文」と書かれた書体で、卜部家に伝わるとする説と、阿波国名方郡大宮神社に伝わるとする説の2つがあるそうです。

肥人書五十音図第十文
【肥人書 第十文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

なお、「第十文」の書体をよく見ると、平仮名に似た文字(わ行の「ゑ」)があるので、肥人書が平仮名の誕生に寄与したのではないかという印象を受けますが、いかがでしょうか?

さて、まず最初にこの奉納文で特に注目されるのは、この五十音図には存在しない文字が使われている点です。

それは先頭の太字の部分で、その書体はカタカナの「ノ」に似ているのですが、古事記との比較によって「い」と読むことは間違いなく、ひょっとするとあ行の「い」を表わしたものかもしれません。

もしそうであれば、8世紀にはあ行の「い」が一般的になった結果、肥人書の五十音図に修正が加えられたということのようです。

次に、古事記と異なる部分を赤字で、奉納文だけに存在する部分を青字で示しましたが、何度も言うように、これが偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致は、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

また、2枚目の奉納文に「やまとたけるのみこと」と書かれていることも、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

なぜなら、『伊勢神宮の古代文字』によると、これらの奉納文は明治初年頃、新しい紙に写されたものだそうですが、当時は本ブログの「雄略天皇の和名」でご紹介したように、「やまとたける」ではなく「やまとたけ」という呼称が一般的だったからです。

この「やまとたけ」がどれだけ古い呼称か調べたところ、『続群書類従 第拾八輯下』(塙保己一:編、続群書類従完成会:1924年刊)という本に、「春能深山路」(飛鳥井雅有:著)という鎌倉時代の日記が収録されていて、弘安三年(西暦1280年)十一月十六日に「山とたけのみこと」という記述がありました。

したがって、すでに鎌倉時代には「やまとたけ」が一般的になっていたようですから、「やまとたける」と書かれたこの奉納文が後世の偽造であるとはとても考えられないのです。

なお、1枚目の奉納文の「うつ」は、古事記との比較から「うず」のことで、この仮名遣いの間違いは、奈良時代初頭には〔zu〕と〔du〕の音韻の区別があいまいになっていたことを示していると考えられます。

また、2枚目の奉納文の1行目の「おとめ」は「をとめ」が正しく、やはり〔wo〕と〔o〕の音韻の区別があいまいになっていたことを示していると考えられます。

続く2行目の「剣の太刀」は、一般的に剣は両刃(もろは)で太刀は片刃(かたば)ですから、矛盾する表現ですが、『原色日本の美術 第21巻 甲胄と刀剣』(尾崎元春・佐藤寒山:著、小学館:1970年刊)によると、おそらく鋒両刃造(きっさきもろはづくり)の大刀のことだと思われるそうです。

次に、この奉納文が奉納された時期ですが、「一品舍人王」という署名があって、一品(いっぽん)は親王の位階を示し、「舍」は「舎」の旧字体で、舍人王は舎人親王のことだと考えられますから、舎人親王が一品となった養老二年(西暦718年)以降に奉納されたことになります。

舎人親王は、日本紀作成の総責任者としてその完成に尽力した人物ですから、ひょっとすると西暦720年に日本紀が完成したことを神に感謝するため、彼はこの年にこれらの奉納文を奉納したのかもしれませんね。

なお、『伊勢神宮の古代文字』には、奉納文が古い順に配置されているのですが、今回の奉納文は稗田阿礼の奉納文より新しいので、配置する順番を間違えてしまったということだと思われます。

最後に、親王と王の違いについて説明すると、親王は皇太子以外の皇族男子のことで、親王宣下が行なわれるまでは、皇族男子は王と呼称されていたようです。(次図参照)

親王と王
【親王と王】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

ただし、この記事によると、親王宣下は第四十七代淳仁天皇の時代になってから行なわれたようですから、淳仁天皇の父親である舎人親王は、実は「舎人王」とよばれていたのかもしれません。

そう考えると、「一品舍人王」という署名も、この奉納文が本物である証拠だと思われるのです。

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稗田阿礼の奉納文 その2

2024-10-06 08:43:54 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は前回の続きで、稗田阿礼の2枚目の奉納文をご紹介します。

【稗田阿礼の2枚目の奉納文】

番号
読み
古代文字の種類
11
うみかゆけはこしなつむおほかはらのうゑくさ 阿比留文字
うみかはいさよふ 阿比留文字
はまつちとりはまよゆかすいつたふ 阿比留文字
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと 肥人書
つちのさる和銅元(記号) 稗田阿礼(花押) 肥人書+漢字

この奉納文の1行目から3行目は、前回の歌の続きですが、やはり古事記とは異なる部分があるので、『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)の原文をご紹介します。なお、意味は『紀記論究外篇 古代歌謡 上巻』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)を参考にしました。

【上記奉納文に対応する古事記の原文と意味】

(后たちや御子たちが)海潮(うしほ)に入り、難渋しながら進んだときに詠んだ歌。

原文
読み
意味
宇美賀由氣婆 うみがゆけば 海を行けば (「が」は場所を意味する)
許斯那豆牟 こしなづむ (波が腰にまつわりついて)行きなやむ
意富迦婆良能 おほかはらの 大河原の
宇惠具佐 うゑぐさ 水辺の草(が波に漂うように)
宇美賀波伊佐用布 うみがはいさよふ 海は進もうとしても進めない

また、(八尋白智鳥が)飛んで、磯にいるときに詠んだ歌。

原文
読み
意味
波麻都知登理 はまつちとり 浜千鳥 (八尋白智鳥にいいかけたか?)
波麻用由迦受 はまよゆかず 浜を行かず (「よ」は「を」と相通じる)
伊蘇豆多布 づたふ 磯づたいに行くよ

両者の異なる部分を赤字で、奉納文だけに存在する部分を青字で示しましたが、前回と同様に、この奉納文は古事記より古いので、稗田阿礼の奉納文が間違っていて、その間違いを太安萬侶が古事記で校正したということだと思われます。

前回も言いましたが、これが偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致は、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

なお、「うゑぐさ」は、松岡静雄氏の見解によると、莞(おほゐ)という水辺に自生する草で、蓆(むしろ)を織るのに使われたそうです。

莞は、『大日本国語辞典』では「ふとゐ」という読みを採用していて(次図参照)、カヤツリグサ科アブラガヤ属の植物で、多くの別名があり、「おほゐ」もその一つです。

莞(ふとゐ)
【莞(ふとゐ)】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

また、「いさよふ」は、進もうとしても進めないという意味です。(次図参照)

いさよふ
【いさよふ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

以上の検討結果をまとめると、全体の意味は次のようになると思われます。

【前半の意味】海を行けば(波が腰にまつわりついて)行きなやむ。大河原の水辺の草が波に漂うように、海は進もうとしても進めない。

【後半の意味】浜千鳥が(その名にそむいて)浜を行かず、磯づたいに行くよ。

なお、4行目と5行目に関しては、1枚目の奉納文とまったく同一なので、前回の解説をご覧ください。

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稗田阿礼の奉納文

2024-09-01 08:31:39 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

この本の順番にしたがうと、次は舎人親王の番なのですが、前回との関係を重視して、今回は、太安萬侶とともに古事記の完成に尽力した稗田阿礼の奉納文をご紹介します。

なお、「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」というサイトにこの奉納文の画像が掲載されていますので、よかったらご覧ください。

【稗田阿礼の奉納文】

番号
読み
古代文字の種類
10
つきのたのいなからにいなからにはひもとほろふ 阿比留文字
ろつら 阿比留文字
あさしぬはらこしなつむそらはゆかすあしよゆくな 阿比留文字
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと 肥人書
つちのさる和銅元(記号) 稗田阿礼(花押) 肥人書+記号+漢字

古事記によると、倭建命(やまとたけるのみこと)は伊吹山で雹(ひょう)に降られて病気になり、能煩野(のぼの=現在の三重県亀山市付近)で亡くなってしまうのですが、この訃報を聞いて彼の后(きさき)たちや御子(みこ)たちが駆け付け、御陵(みはか)を作って倭建命を弔(とむら)ったそうです。

この奉納文の1行目から3行目は、その際に詠まれた歌とされますが、古事記とは少し異なる部分があるので、『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)の原文をご紹介します。なお、意味は『紀記論究外篇 古代歌謡 上巻』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)という本を参考にしました。

【上記奉納文に対応する古事記の原文と意味】

(后たちや御子たちが)御陵に隣接する田をはいまわり、哭(な)きながら詠んだ歌。

原文
読み
意味
那豆岐能多能 づきのたの (御陵に)隣接する田の
伊那賀良迩 いながらに 稲の茎に
伊那賀良尒 いながらに 稲の茎に
波比母登富呂布 はひもとほろふ はいまわる
登許呂豆良 ろづら トコロ(ヤマノイモ科の植物)の蔓(つる)よ

このとき、(倭建命の魂が)八尋白智鳥(やひろしろちとり=大きな白色の霊鳥)になって、浜に向かって飛び去ったので、后たちや御子たちは、小竹の切り株に足が傷つく痛みも忘れて、哭きながら追いかけて詠んだ歌。

原文
読み
意味
阿佐士怒波良 あさしぬはら 笹原を (「あさ」は似て非なるもの、「しぬ」は小竹(篠)のこと)
許斯那豆牟 こしなづむ (笹が腰にまつわりついて)行きなやむ
蘇良波由賀受 そらはゆかず 空を飛ばず
阿斯用由久那 あしよゆくな 徒歩で行くこと(のもどかしさ)よ (「な」は感動詞)

両者の異なる部分を赤字で示しましたが、上記奉納文は古事記より古いので、稗田阿礼の奉納文が間違っていて、この間違いを太安萬侶が古事記で校正したということなのかもしれません。

これがもし偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致も、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

なお、見慣れない単語として「はひもとほろふ」がありますが、これは『大日本国語辞典』によると「はいまわる」という意味です。(次図参照)

はひもとほろふ
【はひもとほろふ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

また、「ところ」、「なづく」、および「なづむ」という言葉が『大日本国語辞典』に載っていたので、こちらも参考にしてください。

ところ・なづく・なづむ
【ところ・なづく・なづむ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

以上の検討結果をまとめると、全体の意味は次のようになると思われます。

【前半の意味】隣接する田の稲の茎にはいまわるトコロの蔓よ。(この蔓のように、私たちも田をはいまわる)

【後半の意味】笹原を行きなやむ。空を飛ばず、徒歩で行くこと(のもどかしさ)よ。

松岡静雄氏によると、これらの歌は、大葬において演奏するためにある時代に作製されたもので、前後にある古事記の記述は、むしろこれらの歌によって案出されたものと見るべきなのだそうです。

また、『大喪儀記録』(大阪朝日新聞社:編、朝日新聞合資会社:1912年刊)という本によると、明治天皇の葬儀の際に、これらの歌が楽曲として歌われたそうです。

4行目は、この時代の天皇の御名で、前回の太安萬侶の奉納文とまったく同じなので、これは第四十三代元明天皇のことだと考えられます。

5行目は、この奉納文が書かれた日付と署名で、「つちのへ」は仮名遣いに間違いがあり、前回指摘したように「つちのえ」と書くべきですから、やはりこの間違いは当時の仮名遣いの乱れを知る貴重な資料で、8世紀初頭には「え」、「ゑ」、「へ」の区別があいまいになっていたと考えられます。

次に、「和銅元」の下に2つの記号が書かれていて、1つ目は縦横5本ずつ計10本の線、2つ目は三日月のようなものですが、これを前回の奉納文と比較すると、「十月」という意味だと推測できます。

前回ご紹介したように、古事記の原本が古代文字で書かれていて、稗田阿礼が古代文字に習熟していた可能性がありますから、これらの記号は古代文字に由来するものなのかもしれません。

また、奉納者については、署名が漢字であるため、正しい発音は不明ですが、これまでの検討結果から、「ひえだあれ」と読むのが正しいと思われます。

なお、稗という漢字は、禾、白、ノ、十から成り立っていますが、この署名では、「白」が「日」となっており、古代の漢字の書体という観点からも、この奉納文は注目に値すると思われます。

そして、署名の最後に花押(かおう)と思われる印がありますが、実は「中臣連鎌子の奉納文」でご紹介した3枚目の奉納文にも花押らしきものが認められます。

『花押のはなし』(大森頼周:著、エス・アイ・エス系譜史料学会:1985年刊)という本によると、唐の中宗(西暦684年~704年)の頃、韋陟(いちょく)という人がいて、「陟」の字を五つの雲がたなびいているように崩して署名したのが中国における花押の起源だといわれているそうです。

また、日本では、平安時代の初期に公文書の署名が草書体となり、さらにそれを極端に崩して花押が誕生したとされるそうです。

したがって、伊勢神宮の古代文字の奉納文は、日本の花押の歴史を書き換える非常に貴重な資料だということになります。

最後に、前回は肥人書の異なる書体をご紹介しましたが、前回の太安萬侶が「第十二文」を使っていたのに対し、今回の稗田阿礼は「第二文」を使っており、同時代に別の書体が併用されていたことが分かります。

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太安萬侶の奉納文

2024-08-04 10:24:54 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は、古事記の編集者として有名な太安萬侶の奉納文です。

なお、「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」というサイトに奉納文の画像が掲載されていましたので、よかったらご覧ください。

また、以前ご紹介した「ものべおほむらじをこし」と「なかおみむらじかまこ」の奉納文も掲載されているので、あわせて参考にしてください。

【太安萬侶の奉納文】

番号
読み
解釈
古代文字の種類
またあかあしみへのまかりなしていたくつか また吾が足三重の勾(まがり)なしていたく疲 肥人書
れたりとのりたまひきかれそこをみへといふ れたりと詔り給いき故そこを三重という 肥人書
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと 日本矛天津御代豊斟成姫尊(元明天皇) 阿比留文字
つちのさる和銅元十月記 戊申 和銅元年十月記(しる)す 阿比留文字+漢字
太朝臣安麻呂   漢字

今回の古代文字は、これまでご紹介した書体では解読できないので、『神字日文傳』(かむなひふみのつたへ)(平田篤胤:著、佐藤信淵・他:編、文政二年刊)という本に掲載されている別の書体を五十音順に並べ替えてご紹介します。

まずは肥人書ですが、次の図が「第十二文」と書かれた鹿嶋神宮所蔵の書体です。

肥人書五十音図第十二文
【肥人書 第十二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

ちなみに、これまで使っていたのは、「第二文」と書かれ、「対馬国卜部阿比留中務」が伝えたとされる次のような書体です。

肥人書五十音図第二文
【肥人書 第二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

これらを見比べると、「あ、お、す、そ、た、と、の、ほ、い、ゆ、よ」は明らかに書体が異なっています。

次に阿比留文字ですが、これは父音と母音の記号を縦に並べた次のような五十音図となりますが、これも「第二文」と書かれていて、平田篤胤翁は肥人書が縦書きの阿比留文字の草書体だと考えていたようです。

阿比留文字五十音図第二文
【阿比留文字 第二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

それでは奉納文の解説に移りますが、1行目と2行目は有名な古事記の一節で、倭建命(やまとたけるのみこと)が東国に遠征した帰りに、伊吹山で雹(ひょう)に降られて病気になり、歩くことさえ困難になった時の様子です。

古事記の序文には、和銅四年(西暦711年)九月に元明天皇が安萬侶に、稗田阿礼の誦する勅語旧辞を撰録するよう命令し、安萬侶はこれを古事記三巻にまとめ上げ、翌年の正月に天皇に献上したことが書かれています。

一方、この奉納文の日付は和銅元年十月で、古事記が完成する3年以上前に書かれていますから、一見奇妙な感じがしますが、悲劇のヒーローである倭建命の物語は有名だったはずですから、ありえないことではないでしょう。

しかも、元明天皇が安萬侶を指名したということは、彼がもともと日本の歴史に関して博識であったためだと考えられますから、倭建命の物語を奉納文に使い、のちに古事記にも収録することになったのはとても自然なことだと思われます。

ところで、『古事記の研究』(川副武胤:著、至文堂:1967年刊)という本には、次のようなことが書かれています。

「今日までの古事記研究の成果によって、阿礼の前に置かれてゐたものは一個の成書であって、その誦習とは、一旦文字にあらはされたものの口誦読習のことである、とすることにほぼ異論はない。」

これを私なりに解釈すると、安萬侶が短期間のうちに古事記を完成させることができたのは、稗田阿礼だけがスラスラと読むことができる原本があったからで、この原本が古代文字で書かれていた可能性はとても高いと思われるのです。

3行目は、この時代の天皇の御名で、これは第四十三代元明天皇のことだと考えられます。

元明天皇は、続日本紀に「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)と書かれていますから、どうやら元明天皇の御名は後代に少し改変されたということのようです。(参考文献:『国史大系 第二巻』(経済雑誌社:編、経済雑誌社:1897年刊))

なお、日本矛天津御代豊斟成姫尊という漢字表記は私が勝手に考えたものですから、その点をご了承願います。

4行目は、この奉納文が書かれた日付で、和銅元年は西暦708年にあたります。実は、この年の正月に武蔵国秩父郡から銅が発見されたため、和銅と改元され、和同開珎という銅銭が発行されています。

これは私の想像ですが、倭建命の東国遠征が成功したことが結果的に銅の発見につながったことから、倭建命の業績をたたえるためにこの奉納文が書かれたのではないでしょうか?

なお、「つちのゑ」は仮名遣いに間違いがあり、本ブログの「あ行の「え」のまとめ」でご説明したように、この言葉の意味は「土の兄」ですから「つちのえ」と書くべきですが、『仮名遣の歴史』(山田孝雄:著、宝文館:1929年刊)という本によると、奈良時代(西暦710年~794年)にはすでに仮名遣いの乱れが始まっていたそうです。

したがって、この間違いは当時の仮名遣いの乱れを知る貴重な資料と考えられます。

5行目は、奉納者の署名で、太朝臣安麻呂の太(おほ)は氏(うぢ)、朝臣(あそみ)は姓(かばね)、安麻呂(やすまろ)は名です。

署名が漢字であるため、正しい発音は不明ですが、これまでの検討結果から、「おほあそみやすまろ」と読むのが正しいと思われます。

ちなみに、古事記の署名は「太朝臣安萬侶」となっているのですが、続日本紀には霊亀元年(西暦715年)以降も「太朝臣安麻呂」と書かれているので、両方の表記が併用されていたのかもしれません。

以上のことをまとめると次のようになります。

1.肥人書の異なる書体(第十二文)が実際に使われていた。

2.阿比留文字の異なる書体(第二文)が実際に使われていた。

3.太安萬侶が古代文字で奉納文を書いたということは、古事記の原本も古代文字で書かれていた可能性が高い。

4.元明天皇の御名が続日本紀とは少し異なっていることが明らかになった。

5.「つちのゑ」という仮名遣いの乱れが確認できる。

これらの結果から、この奉納文も国宝級の価値があると判断できるのです。

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