『日本古語大辞典』によると、武内宿禰(たけうちのすくね)は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕えたとされる人物ですが、名前の下三文字(内宿禰)は称号で、「氏(うぢ)の宿禰=氏長」を意味し、内宿禰が二人いたため、武勇を意味する「たけ」を冠して区別したのだそうです。
そして、古事記や日本紀によると、彼は忍熊王(おしくまのみこ)が反乱を起こした際に、神功皇后や応神天皇の命を守った英雄であり、日本の恩人と言っても過言ではない存在です。
前回、武内宿禰が常識外れの長寿だったとお伝えしましたが、それでは彼がどのくらい生きたかというと、300歳を超えていたとする本が多数あり、世界の長寿者を列挙している『学説実験 若返り健康法』(佐藤寿:著、日本書院:1921年刊)という本には280歳と書かれています。
また、『国史大辞典』(八代国治・他:編、吉川弘文館:1926年刊)という本によると、武内宿禰は「官にあること244年」だったそうです。
ただし、これらは日本紀等の記述から算出された値で、実際にはこれまで見てきたように天皇の在位期間は不自然に延長されており、その部分を修正してやる必要があります。
まず、本ブログの「卑弥呼の後継者」でご紹介したように、古事記に記された第十代崇神天皇の没年、戊寅(つちのえとら)は西暦318年と考えられます。
次に、本ブログの「年代推定 神功皇后」でご紹介したように、古事記に記された第十四代仲哀天皇の没年、壬戌(みずのえいぬ)は西暦362年と考えられます。
以上のことから、第十一代から第十四代までの四代の天皇の統治期間は合計44年で、一代平均11年となります。
そして、武内宿禰は第十二代景行天皇の時代に生まれたとされるので、仮に第十一代垂仁天皇の在位期間を11年とすると、彼の誕生は西暦330年以降だと考えられます。
また、日本紀において武内宿禰が登場する最後の記録は仁徳天皇の五十年ですが、前回ご紹介したように仁徳天皇の在位期間は20年程度だったと思われますから、仁徳紀五十年の記事は捏造されたものだと判断できます。
そして、その直前に武内宿禰が登場するのは応神天皇の九年で、応神天皇は西暦390年に即位したと考えられますから、結局、彼は西暦398年頃までは生きていたということになります。
これだと、彼が西暦330年に生まれたと仮定しても68歳ですし、もし彼が、仁徳天皇が即位したと思われる西暦412年まで生きていたとしても82歳ですから、実は武内宿禰は普通の寿命の人物だったと思われるのです。
さて、ここからは余談ですが、武内宿禰は初めて大臣(おほおみ、おほまちきみ、おほまへつきみ)に任命された人物で、大臣は大連(おほむらじ)と並んで最高の役職でした。
そして、彼の子孫は大いに繁栄し、次のように多くの有力な氏族が派生しました。(続柄は古事記による)
【武内宿禰の子孫】
続柄
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氏名
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解説
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長男 | 波多八代宿禰 はたのやしろのすくね |
波多臣(はたのおみ)の祖 |
二男 | 許勢小柄宿禰 こせのをからのすくね |
許勢(巨勢)臣の祖 大臣:男人(をひと) |
三男 | 蘇賀石河宿禰 そがのいしかはのすくね |
蘇我臣の祖、蘇我氏は天皇の妃を多数輩出 大臣:稲目、馬子、蝦夷、入鹿 |
四男 | 平群都久宿禰 へぐりのつくのすくね |
平群臣の祖 大臣:真鳥(まとり) |
五男 | 木角宿禰 きのつぬのすくね |
木(紀)臣の祖 前回登場した紀角宿禰のこと |
六男 | 葛城長江曽都毘古 かづらきのながえのそつひこ |
葛城臣の祖、彼の娘は仁徳皇后 大臣:円(つぶら)、円の娘は清寧天皇の母 |
このうち、蘇賀石河宿禰の子孫である蘇我馬子は第三十二代崇峻天皇を暗殺しており、忠臣として名を残した武内宿禰の顔に泥を塗る結果となってしまったのは残念なことでした。
次回は、もう一人の内宿禰についてご紹介します。