仁徳天皇の皇后となった磐之媛命(いはのひめのみこと)は、非常に嫉妬(しっと)深かったとされ、例えば古事記には次のように書かれています。
1.女官たちは宮中をのぞくこともできず、少しでも普段と異なる様子があれば、皇后はじだんだを踏んで嫉妬した。
2.天皇が黒日売(くろひめ)という美女を吉備から呼び寄せたが、彼女も皇后の嫉妬を恐れて本国に逃げ帰った。
3.その際、天皇が黒日売を慕う歌を詠んだことを聞いて、皇后は大いに怒り、人を遣わして黒日売を船から追い下ろし、歩いて帰ることを強要した。
また、日本紀には、仁徳天皇が、玖賀媛(くがひめ)という宮中の女官を愛したいが、皇后の嫉妬が強くてそれができないと語る場面が出てきます。
さらに、同じく日本紀には、天皇が矢田皇女(やたのひめみこ)という女性を皇居に住まわせることを皇后に提案しますが、拒否されてしまう様子が詳しく描かれています。
したがって、これらを額面通り受け取ると、磐之媛命が嫉妬深かったことに疑いの余地はないのですが、松岡静雄氏はこれについて疑問を呈しています。
そこで、松岡氏の見解をご紹介したいと思うのですが、古代の人は優雅に歌を詠んで自分の気持ちを伝えているので、その様子も併せてご紹介しましょう。
まずは、仁徳天皇が矢田皇女を皇居に住まわせることを提案した際の歌ですが、これは本ブログの「古代歌謡の分析3」に登場しているので、ここではその読みと意味を簡単にご紹介します。
【歌の読み】うまひとの たつることだて うさゆづる たゆまつがむに ならべてもがも
【歌の解釈】長老の意見によれば、切れた部分を継ぐためには予備の弦を必要とする。(それと同様に、皇居の空いた寝室をみたすために、妃をもう一人いれて)並べてみたいものである。
これに対して、磐之媛命は次のような歌を返したそうです。なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究外篇 古代歌謡 上巻』を参照しました。
原文
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読み
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意味
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虛呂望虛曽 | ころもこそ | 衣こそ |
赴多弊茂豫耆 | ふたへもよき | 二重もよいが |
瑳用廼虗烏 | さよどこを | 夜床(寝床)を |
那羅陪務耆瀰破 | ならべむきみは | 並べようとなさる君は |
箇辭古耆呂箇茂 | かしこきろかも | 怖ろしいお方であるよ |
なお、最後の「かしこき」は、いかめしいという意味の「しこ」に、「か弱い」、「か細い」などのような顕著を意味する接頭語「か」を付加した言葉で、畏敬の念を意味し、「ろかも」は「あるかも」から転生した感動的語尾だそうです。
【歌の解釈】衣裳は二つ重ねてもよいが、寝床を二つ並べようとなさる君は怖ろしいお方であるよ
つまり、矢田皇女と同居することを断固拒否する姿勢を明確に示しています。
しかし、仁徳天皇は皇后の留守中に矢田皇女を皇居に迎え入れてしまい、そのことを旅先で知った皇后は、二度と天皇の元には戻らなかったそうです。
これについて、松岡静雄氏は、上代においてはたとえ天皇であっても、女性を皇居に引き入れるようなことはなかったことを指摘しています。
これは、前回も述べたように、当時の結婚形態は妻問い婚ですから、夫婦は同居せず、夫が妻の家を訪問する習慣だったためで、皇后が天皇の元に戻らなかったのも、妻が夫の愛人と同居することなど考えられなかったということです。
松岡氏の推測によれば、仁徳天皇は初めて難波に遷都したことで大和との往来を不便に感じ、皇居のかたわらに一殿を建造して磐之媛命をそこに住まわせたため、皇后はこれを私邸と見なして独占することを希望し、天皇は他の妃もこれに収容しようとした結果、二人が対立することになってしまったと思われるそうです。
そして、古事記や日本紀の編集者は、こういった事情を理解することができなかったため、嫉妬深いという汚名を皇后に負わせてしまったというのが松岡氏の見解です。
ところで、万葉集には、第二巻の巻頭に磐之媛命の歌が4首収録されています。(『日本古語大辞典〔続〕訓詁』(松岡静雄:著、刀江書院:1929年刊)を参照)
【85番】君が行(ゆき) けながくなりぬ 山たづね 迎ひか行かむ 待ちにか待たむ
【86番】かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の いは根しまきて(=岩を枕にして) 死なましものを
【87番】ありつつも 君をば待たむ 打なびく 吾が黒髪に 霜のおくまで
【88番】秋の田の 穂の上(へ)にきら(霧)ふ 朝霞 いつ方(へ)のかたに 我が恋やまむ
これらを読むと、皇后が天皇を恋い慕う強い思いが伝わってきますから、磐之媛命がとても愛情深い女性だったことは間違いないようです。
次回は、た行の発音について解説します。