古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

壱岐から奴国へ

2021-09-26 09:59:25 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」を地理学的観点から論じている『上代日支交通史の研究』の内容をご紹介しています。

今回は、壱岐を出港してからの記述です。

原文
又渡一海千餘里至末盧國 また一海を渡ること100kmあまり、末盧国に至る
(中略)
 
東南陸行五百里到伊都國 東南に陸行すること50km、伊都国に到着する
(中略)
 
東南至奴國百里 東南、奴国に至る、10km
(中略)
 
東行至不彌國百里 東に行き、不彌国に至る、10km

藤田氏は、「末盧国」を佐賀県の松浦(現在の唐津市周辺)としていますが、『帝国地名辞典』(太田為三郎:編、三省堂:1912年刊)という本によると、松浦は古事記には「末羅」(まつら)と記されているそうなので、うまく符合するようです。

ただし、仮に唐津港に到着したとすると、壱岐からの距離は約50kmとなるので、この区間の距離は不正確なもの(実測値の約2倍)となります。

さて、ここで、古代の地名が掲載されている『大日本読史地図』の「上代の西国」という地図の一部をご覧ください。

上代の西国(一部)
【上代の西国(一部)】(吉田東伍:著『大日本読史地図』より)

この地図を参考にすると、末盧国は松浦縣(まつらのあがた)に、伊都国は伊覩縣(いとのあがた=現在の糸島市周辺)に、奴国は儺縣(なのあがた=現在の博多周辺)にそれぞれ対応するようです。

ただし、地図を見ると、博多周辺は海岸線が現在よりも南にあったようなので、奴国の位置も博多駅から少し南(春日市北部か?)にずれることになります。

なお、春日市北部には、奴国の中心地とされる須玖岡本遺跡があります。

唐津からは陸上を移動したのですが、古代の経路は不明なので、JR西唐津駅から、春日市北部の最寄り駅であるJR南福岡駅までの営業距離を算出すると、約61kmとなります。

したがって、末盧国-奴国間が60kmとする魏志倭人伝の記述は、とても正確なように思われるのです。

一方、方角に関しては、末盧国から伊都国、奴国へと東南に移動したことになっているので、実際の進行方向(東)とは少し異なっています。

最後の不彌国は、地図右端中央の宇瀰に相当すると思われますが、これは現在の糟屋郡宇美町で、この町の宇美八幡宮は応神天皇の生誕地とされているそうです。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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壱岐の「い」はや行だった

2021-09-19 10:29:16 | 古代の日本語

前回から、「魏志倭人伝」を地理学的観点から論じている『上代日支交通史の研究』の内容をご紹介しています。

今回は、対馬を出港してからの記述です。

原文
又南渡一海千餘里 また南に一海を渡ること100kmあまり
名曰瀚海至一大國 (海の)名は瀚海といい、壱岐国に至る。

ここで、著者の藤田氏は、「一大國」は「一支國」の誤りで、「一支=壱岐」であるとしていますが、そうであれば、対馬の中央部から西回りに航行すると壱岐まで約100kmとなるので、ここでも距離が正確に測定されているようです。

また、ここで注目すべき点は、「一」という漢字で「い」という声音を表記していることで、これは壱岐の「い」がや行の「い」であったことを意味していると思われるのです。

というのも、このあとに「伊都國」というものが登場するのですが、この「伊」はあ行の「い」なので、壱岐の「い」を表記するのにわざわざ別の漢字を用いたのは、発音が異なっていたためだと考えられるからです。

なお、壱岐は、古事記には「伊伎」と表記されていますが、これは本ブログの第九回の記事でご紹介したように、や行の「い」が使われなくなった奈良時代初頭の発音なので、当然のことです。

一方、日本紀では、壱岐は「壹岐」(国生み神話)、および「以祇」(継体紀の歌謡)と表記されていて、「壹」は「壱」の旧字体で「一」という意味であり、「以」は『大日本国語辞典』によるとや行の「い」です。

加えて、万葉集第十五巻の3694番と3696番の歌には、壱岐が「由吉」と表記されているので、壱岐の「い」がや行の「い」であったことは間違いないと考えられるのです。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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魏志倭人伝

2021-09-12 09:46:52 | 古代の日本語

古代の日本のことを記述した文献で、日本紀よりも古いものといえば、すぐに「魏志倭人伝」が思い当たりますが、これについては、前回ご紹介した『上代日支交通史の研究』に詳しく論じられているので、今回からはその内容をご紹介していきたいと思います。

この本の著者の藤田元春氏は、『日本地理学史』(刀江書院:1942年刊)という本を書いている地理学者で、古代の測量の尺度に詳しく、地理学的観点から古代の日本の姿を明らかにしています。

ところで、「魏志倭人伝」という名前についてですが、これは正確には『三国志』(陳寿:撰述)という歴史書の「魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝」の一部に書かれた日本に関する記録のことです。

撰述者の陳寿は、元康七年(西暦297年)に没したそうなので、彼が三世紀後半に『三国志』を書いたことは間違いなく、景初二年(西暦238年)に魏に使いを送った「卑弥呼」に関する記述は、その数十年前の出来事ですから、とても正確に記録されていると思われるのです。

さて、藤田氏は、その当時の「里」は現在の約四十分の一であると主張しているので、この縮尺で「魏志倭人伝」の最初の部分を訳すと次のようになります。

原文
從郡至倭 (帯方)郡より倭に至るには
循海岸水行 海岸にしたがい水行し
歷韓國 韓国を経て
乍南乍東 南へ行ったり東へ行ったりして
到其北岸狗邪韓國 そ(倭)の北岸、狗邪韓国に到着すること
七千餘里 700kmあまり
始度一海千餘里 はじめて一海を渡ること100kmあまりで
至對馬國 対馬国に至る

なお、「狗邪韓国」は、『大日本読史地図』(吉田東伍:著、蘆田伊人:修補、富山房:1935年刊)という本によると、現在の釜山の西側の地域だったようです。

狗邪韓國
【狗邪韓国と対馬の位置関係】(吉田東伍:著『大日本読史地図』より)

帯方郡は、現在のソウルのあたりにあったと考えられますから、ソウルから釜山まで海路で700kmあまりというのは、1700年以上前の測量であるにもかかわらず、とても正確だと言えそうです。(「キョリ測」というサイトで測定すると、ほぼ同じ値になります。)

また、釜山の西側の地域から対馬の中央部までを測定すると100km強となりますから、100kmあまりという記述も正確なものだと思われるのです。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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能登半島は島だった

2021-09-05 10:23:57 | 古代の日本語

前回、日本紀には古事記よりも古い記録が収集されているとお伝えしましたが、今回はその証拠の一つをご紹介しましょう。

日本人は、自国のことを古来より大八洲(おおやしま)とよんでいましたが、八つの島の具体的な名前について、古事記には次のように書かれています。

 
古事記
淡路島 四国 隠岐 九州 壱岐 対馬 佐渡 本州

一方、日本紀には、「一書曰」(あるふみにいわく)という書き出しで、次のように本文以外にも多くの説を収集しています。(なお、「おのごろ島」、「淡洲」(あわしま)の所在は不明です。)

日本紀
母胎
本文
淡路島 本州 四国 九州 隠岐 佐渡 能登 周防大島 吉備の児島
説2
本州 淡路島 四国 九州 隠岐 佐渡 能登 吉備の児島
説3
淡路島 本州 四国 九州 隠岐 佐渡 能登 周防大島 吉備の児島
説4
淡路島 本州 四国 隠岐 佐渡 九州 壱岐 対馬
説5
おのごろ島 淡路島 本州 四国 九州 吉備の児島 隠岐 佐渡 能登
説6
淡路島 本州 淡洲 四国 隠岐 佐渡 九州 吉備の児島 周防大島

これを見ると、日本紀の諸説において、登場する島々が古事記と一致するのは「説4」だけであり、それ以外には「壱岐」と「対馬」が登場しません。

これについて、『上代日支交通史の研究』(藤田元春:著、刀江書院:1943年刊)という本には、古代には日本海航路が最初に発見され、次に瀬戸内航路が発見され、最後に九州から朝鮮半島に渡る航路が重要視される時代がやってきたことが書かれています。

つまり、航路上の重要な八つの島が「大八洲」であり、それらが日本紀において一定しないのは、時代とともに使われる航路が変化したためであり、結局、古事記の記述が最も新しく、日本紀にはより古い所伝が記されているのだそうです。

さて、ここからは余談ですが、日本紀の表で「能登」と書いた部分は、正確には「越洲」(こしのしま)と表記されていて、これを「越」(こし=越前+越中+越後)のことだと考える人もいます。

しかし、日本紀に記載された大八洲が古代の航路上の重要な島だったとするなら、「越洲」は能登半島のことだと思われるのです。

というのも、能登半島は古代には島だったからで、現在JR七尾線が走る邑知潟(おちがた)平野が海峡だったことが、『山水小記』(田山花袋:著、富田文陽堂:1917年刊)という本に次のように書かれています。

「昔は海潮がこの平野を貫いて流れた。宝達(ほうだつ)、石動(いするぎ)、二山の麓には北海の波が凄まじく打ち寄せた。」

参考までに、「国立研究開発法人 産業技術総合研究所 / 地質調査総合センター」の「地質図Navi」の画像をご覧ください。

能登半島
【能登半島の地質図】(出典:産総研地質調査総合センターウェブサイト

これを見ると、邑知潟平野が堆積層(淡い水色の部分)であることからも、この部分はかつて海底であり、能登半島が大きな島だったことは明らかです。

吉備の児島(岡山県児島半島)も、現在は半島ですが、『児島湾開墾史』(井土経重:著、金尾文淵堂書店:1902年刊)という本によると、これが陸続きとなったのは寛文(かんぶん=1661年から1673年)以降のことだそうですから、こちらは360年前にはまだ島だったようです。

次回からは、日本紀以外の古い資料について検証していく予定です。

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