前回は、雄略天皇が、自分に向かって突進してくる猪を弓で射止め、足で踏み殺したというエピソードをご紹介したので、今回はその際に、荒れ狂う猪を恐れて木の上に逃げ上った舎人(とねり=従者)を斬り殺そうとした天皇に対して、舎人が詠んだとされる辞世の歌をご紹介しましょう。
なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究外篇 古代歌謡 下巻』を参照しました。
原文
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読み
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意味
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野須瀰斯志 | やすみしし | (おほきみの枕詞) |
倭我飫裒枳瀰能 | わがおほきみの | 天皇の |
阿蘇磨斯志 | あそばしし | 射られた |
斯斯能 | ししの | いのししの |
宇拖枳舸斯固瀰 | うたきかしこみ | うなり声を恐れ |
倭我尼㝵能裒利志 | わがにげのぼりし | 自分が逃げ上った |
阿理嗚能宇倍能 | ありをのうへの | 下方の丘の上の |
婆利我曳陀阿西嗚 | はりがえだあせを | 榛の枝はよ |
ここで、『紀記論究』の著者の松岡氏は、赤字で示した「ありを」を「下方の丘」と訳していますが、その理由は、「あり」が韓国語の아래(アレ=下)と起源を同じくする「下」の意味の古語だからだそうです。(なお、「ありを」の「を」は、丘(をか)を意味する古語です)
そこで、松岡氏の説を検証するため、この言葉が現代に残っていないか調べたところ、蟻釣(ありつり)・蟻掛(ありかけ)という建築用語を発見しました。
参考までに、『大日本国語辞典』の蟻釣、蟻掛、および釣木の項目をご覧ください。
【蟻釣と蟻掛】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)
つまり、蟻釣は、釣木の下部を鳩の尾の形に細工したものであり、蟻掛はそれを別の木にはめて組み合わせることですから、蟻=下で間違いないと思われるのです。
また、あまり目にすることはありませんが、公家の衣装である衣冠束帯などの下部にある蟻先(ありさき)も、やはり蟻=下という意味で使われているようです。
参考までに、『服飾沿革図』(高橋健自:著、高橋健自:1923年刊)という本に載っている「束帯せる文官」の図をご覧ください。
【束帯せる文官】(高橋健自:著『服飾沿革図』より)
以上のことから、「あり」は下を意味する古語であるとする松岡氏の指摘は正しいと思われます。
そして、この「あり」を正しく理解している専門家は、私が知る限り他に見当たらないので、彼の言語学者としての見識が突出していることは明白です。
そこで次回は、この類まれな秀才・松岡静雄氏についてご紹介させていただきます。