古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

漢字の音訳が意味するもの

2022-01-30 09:01:03 | 古代の日本語

今回からは、漢字の音訳に関する考察です。

古代の日本語について調査する過程で、『日本言語学』(松岡静雄:著、刀江書院:1926年刊)という本にとても興味深いことが書かれているのを発見しました。

それによると、日本語の特質の一つとして、母音が連続しないことが挙げられるそうです。(本文では、「複母韻が存立し得なかった」という表現を用いています。)

これをもう少し詳しく説明すると、古代の日本人が漢字を音訳する際には、次のような特徴があったそうです。

1.水(sui)を「すゐ」(suwi)、類(rui)を「るゐ」(ruwi)などと音訳したこと。

参考までに、『大日本国語辞典』の「すゐ」と「るゐ」の項目をご覧ください。


【「すゐ」と音訳された漢字】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)


【「るゐ」と音訳された漢字】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

2.拝(hai)を「hayi」と音訳したこと。

(林(はやし)という地名に拝志または拝師という字があてられていることがその理由。)

3.愛(ai)を「ayi」と音訳したこと。

(愛知(あいち)という地名に吾湯市または年魚池という字があてられていることがその理由。)

4.芭蕉(ばせう)を「ばせを」と書くこと。これは、「う」が「wu」だったことの証拠である。


【芭蕉】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

これらのことから、松岡氏は、古代の日本人が「y」または「w」という父音を加えて母音の重複を回避したのだと考えました。

しかし、本ブログで私が主張しているように、かつて、あ行には「あ」と「お」しか存在しなかったことを理解すれば、これは当然のことだと納得できます。

すなわち、古代の日本人は母音の重複を回避したのではなく、あ行の「い、う、え」が存在しなかったため、代わりにや行の「い」やわ行の「ゐ、う」を使わざるを得なかったのです。

このように、漢字の音訳に古代の五十音図の痕跡が残っていたことは大きな発見でした。

なぜなら、これによってあ行の「い、う、え」が存在しなかった時代が推定できるからです。

古事記には、第十五代応神天皇の時代に和邇吉師(わにきし)が論語十巻と千字文一巻を日本に伝えたことが記されています。

もちろん、それ以前にも漢字の読み書きができる日本人はいたでしょうが、これだけまとまった量の漢字の文献を入手したのはこれが初めてだと思われますから、この時期から漢字の音訳作業が国家事業として開始されのではないでしょうか?

これは、卑弥呼の時代よりもずっと後のことになりますから、当然ながら三世紀においても、あ行の「い、う、え」は存在しなかったという結論が得られます。

そう考えると、本ブログで、伊都国の伊をあ行の「い」と考え、三世紀にはあ行の「い」とや行の「い」が共存していたと論じましたが、実は伊都国の伊も、三世紀にはや行の「い」だったのではないかと思われるのです。

次回も漢字の音訳に関する考察です。

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【記事の訂正】 2023年9月24日

水・類の音訳については、その後の研究で「すい・るい」であったことが明らかになったそうなので、この部分の記述を削除させていただきます。

参考:「漢字の音訳に関する訂正

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卑弥呼の読みと意味

2022-01-23 10:40:37 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。

今回は、いよいよ「魏志倭人伝」の最終回です。

原文
倭女王卑彌呼 倭の女王「ひびを」
與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 狗奴国の男王「ひびきをさ」と和せず
遺倭載斯烏越等 倭の「さしあを」らを遺わし
詣郡說相攻擊狀 郡に詣り、相攻撃するの状を説く
(中略)
 
復立卑彌呼宗女壹與 また卑弥呼の宗女「とよ」を立つ
年十三爲王國中遂定 年十三にして王となり、国中遂に定まる

まず卑彌呼(新字体では卑弥呼)ですが、これを女性だから「ひみこ」である、などと考えることはできません。

なぜなら、彦(ひこ)と姫(ひめ)、男(をとこ)と女(をとめ)、息子(むすこ)と息女(むすめ)などの対比から明らかなように、末尾の「こ」が男性を表わすのが日本語の古くからの習慣であり、これは小野妹子のような人名についても同様だったからです。

また、卑彌を姫と解釈する人がいるようですが、狗奴国の男王が卑彌弓呼素であることから、この解釈には無理があると思われます。

私が思うに、卑彌という言葉の謎を解く鍵は開化天皇の和名、稚日本根子彦大日日(わかやまとねこひこおほひひ)にありそうです。

この名前は、『紀記論究建国篇 大和缺史時代』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)という本によると、稚は兄の大彦命に対する弟の意味であり、日本は大和、根子は本系の子、日日は秀胤(すぐれた血筋)という意味だそうです。

ところで、『勤皇文庫第一巻 御聖徳篇』(社会教育協会:編、社会教育協会:1940年刊)という本では、この和名の末尾の日日を「ひび」と読んでいます。

また、『大日本国語辞典』によると、彌は「み」の万葉仮名であると同時に「び」の万葉仮名でもあります。

つまり、日日は「ひび」と読むことができ、卑彌と書くことが可能だということです。

そして、呼は「を」の万葉仮名ですから、結局、卑彌呼は「ひびを」と読むのが正しいと思われますが、『日本語源』によると、「を」には「物を続けて不絶しむる物」という意味があるそうなので、「ひびを」は「すぐれた血筋を絶やさぬ存在」と解釈することができるのではないでしょうか?

卑彌呼は、大和朝廷の最後の切り札として登場した人物ですから、天皇家のすぐれた血筋を絶やさぬ存在として、「ひびを」はとてもふさわしい名前だと思われるのです。

ちなみに、女性の名前としてよく用いられる玉緒(たまを)は、魂を放さず持ち続けるという意味があるそうです。

次に卑彌弓呼素ですが、『明解漢和大字典』によると、弓の漢音は「きう」、呉音は「く」ですから、卑彌弓を「ひびき」と読むことは可能でしょう。

そこで、「ひびき」という地名や神名を調査したところ、『三重県神社誌三』(三重県神職会:編、三重県神職会:1926年刊)という本に、名賀郡上津村(現在の伊賀市)の比々岐(ひびき)神社が載っていて、主祭神は比々岐神ですが、これは少彦名神(すくなひこなのかみ)の別名とされているそうです。 

少彦名神は有名な出雲の神ですから、ひょっとすると前々回ご紹介した伊勢津彦もこの神を祀っていたかもしれませんし、伊勢津彦が東に追いやられたという伝説から、東海地方に比々岐神を崇拝する集団がいたとしても不思議はなさそうです。

また、卑彌弓呼素の素は、漢音「そ」、呉音「す」ですが、『「倭人語」の解読』には、藤堂明保氏の研究結果として、素の上古音が「sag」であることが紹介されているので、素を「さ」と読むことは可能だと思われるのです。

したがって、呼素を「をさ」と読んで長(をさ)だと考えれば、卑彌弓呼素は「ひびきをさ」、すなわち比々岐族の族長を意味する言葉だと解釈することができます。

もし、大和朝廷が狗奴国と長年対立状態にあったとすれば、狗奴国の王を、固有名詞ではなく、単に「比々岐族の族長」とよんだ可能性は十分あるのではないでしょうか?

次に載斯烏越ですが、載は漢音呉音ともに「さい」なので「さ」、斯は斯馬国の「し」、烏は烏奴国の「あ」、越は「を」の万葉仮名なので、結局「さしあを」と読めそうです。

最後に壹與ですが、『読史叢録』には、梁書および北史に臺與と書かれていることなどを根拠に、壹は臺の誤りであると書かれているので、臺與(新字体では台与)を正解とします。

その場合、本ブログの「奴国から邪馬台国へ」という記事でご紹介したように、邪馬臺を「やまと」と読んでいることに加え、『漢音呉音の研究』にも、後漢の長衡の東京賦を引用して、臺は「と」であると書かれています。

そして、與は「よ」の万葉仮名なので、結局、臺與は「とよ」と読むのが正しいと思われます。

次回は漢字の音訳に関する考察です。

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使者の名前

2022-01-16 11:03:51 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。

今回は、卑弥呼が魏に送った使者に関する記述について、私の解釈をご紹介します。

原文
帶方太守劉夏遣使 帯方(郡)の太守劉夏、使いを遣わし
送汝大夫難升米次使都市牛利・・・ 汝の大夫「なつめ」、次使「としごり」を送り・・・
(中略)
 
其四年 正始四年(西暦243年)
倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人 倭王また大夫「いせきややこ」ら八人を遣使す

ここでは、使者の名前として、難升米、都市牛利、伊聲耆掖邪狗の三名が登場します。

このうち、難升米については、本ブログの「彌馬升は孝昭天皇か?」という記事でご紹介したように、升が斗の誤字である可能性があり、その場合は斗が「つ」と読めるので、『大日本国語辞典』に難が「な」の万葉仮名、米が「め」の万葉仮名であると書かれていることとあわせて、「なつめ」という日本語を音写したと考えることができそうです。

都市牛利については、都は伊都国の「と」、市は漢音「し」、牛は『漢音呉音の研究』によると古音は「ご」で、今も牛頭(ごづ)や牛蒡(ごぼう)の「ご」として用いられていることが書かれていて、利は「り」の万葉仮名なので、「としごり」と読むことができそうです。

これは、人名としては奇妙な感じもしますが、古事記に、開化天皇の妃となった竹野比賣(たかぬひめ)の父親が由碁理(ゆごり)であると書かれているので、末尾が「ごり」で終わる名前が存在したことは間違いありません。

なお、都市牛利は、その後、都市を省略して牛利だけが3回登場するので、都市は役職名の可能性もありそうですが、その場合は意味が不明なので、「とし」は三世紀に特有の日本語だと考えるのが妥当なようです。

そう考えると、伊聲耆掖邪狗についても、その後、伊聲耆を省略して掖邪狗だけが2回登場するので、伊聲耆は掖邪狗の役職名である可能性が高そうです。

次に伊聲耆の読みですが、伊は伊都国の「い」、聲は声の旧字体で、『明解漢和大字典』によると漢音は「せい」、呉音は「しやう」、耆は漢音「き」、呉音「ぎ」ですから、「いせき」または「いせぎ」と読めそうですが、意味は不明なので、これも三世紀に特有の日本語だと考えるのが妥当なようです。

最後に、掖邪狗ですが、掖は「や」の万葉仮名、邪は邪馬台国の「や」、狗は卑狗(彦)の「こ」なので、「ややこ」と読むことができそうです。

また、掖の漢音が「えき」なので、「えやこ」という名前を音写した可能性もあるかもしれません。

なお、掖の呉音が「やく」であることから、掖を「えき」と読む場合の「え」はや行の「え」に間違いないでしょう。

次回は「魏志倭人伝」の最終回です。

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狗奴国は東海地方にあった

2022-01-09 10:27:08 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。

前回までは、邪馬台国の周辺20か国についてご紹介しましたが、今回はその直後の部分について、私の解釈をご紹介します。

原文
次有奴國此女王境界所盡 次に「ぬ」国有り、この女王の境界が尽きる所
其南有狗奴國男子爲王 その南に「くぬ」国有り、男子を王となす
其官有狗古智卑狗不屬女王 その官、「くくちひこ」有り、女王に属さず

まず、奴国が再び登場しますが、「この女王の境界が尽きる所」と但し書きがあることから、これは九州北部の奴国とは別の国だと思われます。

そこで、広く日本地図を見渡してみると、本州の最南端である熊野が目につくのですが、ここには熊野という国造が置かれていたので、ここが古くから人口の多い地域だったことは間違いないでしょう。

また、熊野の古い読みは「くまぬ」であり、近くには狭野(さぬ=現在の新宮市佐野)という地名も存在するので、三世紀にこのあたりが「ぬ」国とよばれていたのではないかと考えました。

次の狗奴は、『明解漢和大字典』に狗の漢音は「こう」、呉音は「く」と書かれているので、これを「くぬ」と読んで、天竜川と大井川に挟まれた地域(久努)に比定することができそうです。

参考までに、『大日本読史地図』の「上代の東国」という地図をご覧ください。

上代の東国(一部)
【上代の東国(一部)】(吉田東伍:著『大日本読史地図』より)

この付近では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国に遠征した際に、焼津であやうく焼き殺されそうになるという有名な事件が発生しているので、東海地方には大和朝廷に敵対する勢力が古くから存在した可能性があります。

また、『日本古語大辞典』によると、伊勢津彦という伊勢国を支配していた出雲族の神が、神武天皇の時代に東方に追いやられたという伝説が伊勢風土記に書かれていたそうですから、三世紀には東海地方が出雲族の支配下にあったと考えることは可能でしょう。

なお、奴国が熊野だとすると、「その南に狗奴国有り」という記述が成立しなくなりますが、本ブログの「壱岐から奴国へ」という記事で「東を南と書くことがある」とご紹介したように、実は「その東に狗奴国有り」だった可能性があります。

さらに、後漢書の東夷伝には、「自女王國東度海千餘里至狗奴國雖皆倭種而不屬女王」(女王国より東に海を渡ること千余里、狗奴国に至る、みな倭種といえども女王に属さず)と書かれていて、狗奴国が海を隔てて東の地にあったと明記されています。

この場合は、女王国の起点は奴国(熊野)ではなく斯馬国(志摩)と考えることが可能ですから、志摩市の的矢湾から掛川市の菊川河口まで直線距離で約110kmであることを考慮すると、千余里(100kmあまり)という記述も正確なものだと考えられます。

後漢書は「魏志倭人伝」より新しい歴史書であり、わざわざ狗奴国の情報を訂正しているということは、何か根拠のある情報を新たに入手したということなのかもしれません。

最後に、狗奴国の官、狗古智卑狗ですが、『読史叢録』には、これを「くくちひこ」と読んで、菊の古音は「くく」なので、肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)の菊池彦であると書かれています。

一方、久努の東部には城飼(きかふ)という地名が書かれていますが、ここは現在の菊川市で、市の中心部を菊川が流れています。

つまり、久努にも菊という地名が存在するので、狗古智卑狗は菊川流域を支配した菊智彦であるという解釈も成り立つのではないでしょうか?

以上のことから、私は、21番目に登場した奴国を紀伊半島の熊野、狗奴国を天竜川と大井川に挟まれた久努に比定できると考えます。

なお、菊という植物が渡来したのは奈良時代末か平安時代のようですし、『日本古語大辞典』によると、「くく」は木木という意味なので、菊は当て字だと考えられます。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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周辺諸国の名称3

2022-01-02 10:29:16 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。

前回、前々回の解読結果から、邪馬台国周辺の20か国のうち、解読できなかった国は、4:都支国、6:好古都国、7:不呼国、8:姐奴国、9:対蘇国、11:呼邑国、12:華奴蘇奴国、14:為吾国、16:邪馬国、17:躬臣国の10か国となりました。

これらの国名については、『大日本読史地図』に該当しそうな国や縣が見当たらず、四世紀以降に名称が改変された可能性もありますから、これらを解読するには稲荷山古墳の鉄剣のような参考資料が新たに発見されるのを待つしかなさそうです。

(都支国については、郡支国と書かれた写本もありますが、それでも解読はできませんでした。)

なお、華奴蘇奴国に関しては、もしこれを「かなさな」国と読むことができるのであれば、埼玉県北部にある金鑚神社(かなさなじんじゃ)と関係がありそうです。

この「かなさな」の意味については、『原日本考』(福士幸次郎:著、白鳥書房:1942年刊)という本に、「外皮を鉄でまとった所の、果物や穀物の如き形状のもの、即ち鈴のこと」であると書かれています。

つまり、かな=金(かね)で、金属を意味し、さな=実(さね)で、かなさな=金属製の実=鈴ということになります。

鈴は、鏡とともに祭祀の道具として非常に重要視されていたようで、『日本考古学大系 漢式鏡』(後藤守一:著、雄山閣:1926年刊)という本によると、鏡のふちに鈴をつけた鈴鏡(れいきょう)が日本各地で発見されているそうです。

また、鈴鏡の分布は、関東地方から中部地方に集中していて、鈴の数については、5つの鈴をつけた五鈴鏡が最も多いようです。

次の写真は、武蔵国児玉郡青柳村大字新里(現在の埼玉県児玉郡神川町新里)で発見された五鈴鏡で、新里の南西端は金鑚神社から直線距離で1.5kmたらずのところにあります。

五鈴鏡
【祭器として用いられた五鈴鏡】(後藤守一:著『日本考古学大系 漢式鏡』より)

さらに、金鑚神社のホームページによると、近くを流れる神流川(かんながわ)周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたそうです。

以上のことから、金鑚神社を中心とする地域に、金属の製錬・加工に従事する技能者たちを集めて鈴や鈴鏡を生産した国があったとしても不思議ではないでしょう。

このことは、大和朝廷の支配が二世紀末までに関東一円に及び、已百支国や鬼奴国が東北や関東にあったとした前回の考察とも整合がとれます。

そこで、華奴蘇奴の読みについて考えてみると、以前に奴国を「な」国と読み、蘇奴国を「さな」国と読んでいるので、問題は華の発音ということになります。

『明解漢和大字典』には、華の漢音は「くわ」、呉音は「げ」と書かれています。

また、『実用支那語発音辞典』(石山福治:編、大学書林:1937年刊)という本によると、華の現代音は「hua」(ほわ)だそうです。

華の現代音
【華の現代音】(石山福治:編『実用支那語発音辞典』より)

さらに、本ブログの「雄略天皇の和名」という記事でご紹介したように、獲(くわく)は「わ+K音」の場合の「わ」を表記していました。

したがって、華は「わ」を音写した文字である可能性が高いと思われるのです。

ただし、古代の日本人の発する「か」の音が、魏の役人には「わ」と聞こえた可能性があるかもしれないと思い、方言にそういった痕跡が残されていないか調べてみました。

すると、『方言採集手帖』(東条操:著、郷土研究社:1928年刊)という本には、地方によっては語頭の「か」を「は」や「あ」に訛ることがあると書かれていました。

そうであれば、古代の日本人が語頭の「か」を「は」(kha、あるいは、kfa)と発音し、それを聞いた魏の役人が華(kwa)と書き写したのかもしれません。

他に該当しそうな国や縣が存在しないことからも、華奴蘇奴国が「かなさな」国である可能性はとても高いと思われるのです。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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