『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。
今回は、弓削道鏡の奉納文ですが、実は彼の奉納文だけは日本の古代文字ではなく漢字で書かれていて、2枚奉納されていますが、それらをまとめて「12」という番号が割り当てられています。
【弓削道鏡の奉納文】
番号
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順番
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内容
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12
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1枚目 | 天平神護元年 道鏡法師 |
三月 | ||
2枚目 | 應神天皇(姿絵) | |
天平神護元年三月 大政大臣道鏡法師 |
なお、この時代のことは『続日本紀』(しょくにほんぎ)という歴史書に詳しく書かれているので、『訓読続日本紀』(藤原継縄・他:撰、今泉忠義:訳、臨川書店:1986年刊)という本を参考にして説明を進めていきます。
また、奉納文の「應」は「応」の旧字体であり、天平神護元年は西暦765年で、その前年の十月九日に第四十六代孝謙天皇が重祚(ちょうそ)して、第四十八代称徳天皇となっています。
孝謙天皇は、第四十五代聖武天皇の第一皇女で、彼女は西暦758年に第四十七代淳仁天皇に譲位して上皇となるのですが、結局西暦764年に淳仁天皇を退位させて重祚したわけで、当時の最高実力者だったようです。
また、孝謙上皇は称徳天皇となってからも弓削道鏡を寵愛したことは有名で、前年九月に大臣禅師(おほおみぜんじ)の位を道鏡に授け、天平神護元年閏(うるう)十月には太政大臣禅師(おほまつりごとおほおみぜんじ)に昇進させ、文武百官に道鏡を拝賀させています。
次に当時の時代背景ですが、宇佐神宮では御託宣が頻繁に下されており、東大寺の大仏建立(西暦752年完成)の際にも、この事業が成功することを神が請け負うことや、必要な黄金が国内から産出することを予言する御託宣が下されていたそうです。
なお、宇佐神宮とは、八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)を祀る全国四万余りの八幡宮の本宮で、現在の大分県宇佐市にあり、八幡神とは、応神天皇、神功皇后、比売大神の三柱の神を合わせたものだそうです。
したがって、道鏡が応神天皇の姿絵を奉納したのは、彼の八幡神に対する信仰心の表明だったのかもしれません。
そういった状況において、神護景雲三年(西暦769年)九月に、「道鏡を皇位につければ天下太平になるだろう」という宇佐神宮の御託宣が朝廷にもたらされ、道鏡は深く喜びます。
このとき、称徳天皇は和気清麻呂を宇佐神宮に派遣し、改めて御託宣を持ち帰るように命じ、この際、道鏡は清麻呂に昇進を約束したのですが、新たな御託宣は、
「我が国家(くに)開闢(はじめ)より以来(このかた)君臣定りぬ。臣を以て君と為すこと、未だ之れあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃(はら)ひ除くべし」
【原文】我國家開闢以來、君臣定矣、以臣爲君、未之有也、天之日嗣必立皇緒、無道之人宜早掃除。
という内容で、道鏡を皇位につけてはならないことが明白でした。
このため、これに怒った道鏡は清麻呂を大隅に配流したのですが、称徳天皇の死後、結局道鏡は失脚したというのが『続日本紀』の記録です。
これに対して、『日本史研究(369)』(日本史研究会:1993年5月刊)という雑誌に、「『続日本紀』と道鏡事件」(中西康裕:著)という論文が掲載されていて、『続日本紀』の記述をそのまま信用することはできないということが論じられています。
これを簡単に説明すると、
1.もし称徳天皇が道鏡を天皇にするつもりだったのなら、わざわざ和気清麻呂を宇佐神宮に派遣する必要がないこと。
2.道鏡失脚後、和気清麻呂は以前の地位に戻されたが、道鏡の野望を阻止した最大の功労者としては処遇が不十分であること。
3.称徳天皇の死後、道鏡は下野国薬師寺を造る別当(長官)に左遷されたが、皇位を狙ったものに対する罰としては処分が軽すぎること。
といった点を指摘して、道鏡事件そのものが『続日本紀』編集者の創作であるという結論を導いています。
確かに、もし道鏡が本当に皇位を狙ったのであれば、いわゆる逆賊(反逆者)ですから、伊勢神宮にこのような奉納文が残されたまま放置されているというのもおかしな話です。
そう考えると、この奉納文も、歴史的な事実を検証する上で非常に貴重な資料であると言うことができるのではないでしょうか。
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