前回、西暦601年を基準に、その1260年前、すなわち21回前の辛酉の年である紀元前660年が大革命の年と考えて、これを神武天皇即位の年としたことをお伝えしましたが、そうなると、西暦601年も大革命の年だったことになります。
そこで、歴史を調べてみると、西暦589年に隋が中国を統一していて、その歴史書(隋書東夷伝)には西暦600年に倭国から遣隋使が派遣されていることが記録されていました。
その全文を掲載すると煩雑になるので、ここでは古代の日本語に関係する部分だけを抜き出してご紹介します。
【隋書東夷伝の倭国の記録】
原文
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翻訳
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開皇二十年俀王 | 西暦600年に倭王 |
姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌 | 姓はアメ、字(あざな)はタラシヒコ、オホキミと号す |
遣使詣闕・・・ | が使いを遣わし宮城に詣で・・・ |
(中略)
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王妻號雞彌後宮有女六七百人 | 王の妻はキミと号す、後宮に女六七百人有り |
名太子爲利歌彌多弗利 | 太子を名づけてワカミトホリとなす |
なお、原文は『朝鮮史 第一編第三巻』(朝鮮史編修会:編、朝鮮総督府:1933年刊)という本を参考にしました。
また、日本語を書き写したと思われる部分の読みについては、『文学論輯(15)』(文学研究会:編、九州大学教養部文学研究会:1968年3月刊)という雑誌の「隋書倭国伝における国語表記について 利・尼・堆などの用法」(森山隆:著)という論文を参考にさせていただきました。
この研究によると、当時の発音は、利=ラ、阿=オ、輩=ホ、多=ト、弗=ホ、などとなるそうです。
ところで、興味深いことに、日本紀にはこの年の遣隋使については記録がなく、西暦607年に初めて遣隋使を派遣したことになっています。
私が思うに、これは西暦600年の遣隋使によって大陸の文化や政治制度に関する情報が大和朝廷に伝えられた結果、あまりにも日本が遅れていることに驚き、直ちに政治改革に着手したものの、それを記録に残すと国家の威信に傷がつくので、なかったことにしたのではないでしょうか?
当時の朝廷は、推古天皇を聖徳太子が摂政として補佐していたわけですが、西暦603年には冠位十二階を、その翌年には憲法十七条をそれぞれ制定し、国家としての体裁を整えています。
こういったことは、思いついてすぐに実行できるものではないので、やはり、西暦601年が明治維新にも匹敵する大革命の年だったことの証拠ではないかと思われるのです。
最後に、隋書東夷伝の補足をします。
1.「俀王」について
これは見慣れない表記ですが、隋書東夷伝の俀国条の書き出しが「俀国在百濟新羅東南」(俀国は百済・新羅の東南にあり)となっていて、他に日本に関する記述が存在しないので、「俀国=倭国」であり、「俀王=倭王」であると判断できます。
2.「姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」について
8番目の文字「北」は「比」の誤記と判断するのが一般的で、「姓は天、字は足彦、大君と号す」と解釈して、天皇に対する一般的な呼称と考えることができるようです。
例えば、『日支交通史 上巻』(木宮泰彦:著、金刺芳流堂:1926年刊)という本では、第六代考安天皇・第十二代景行天皇・第十三代成務天皇の諱(いみな)に足彦が使われているので、足彦は天皇の異名であったと論じています。
一方、これを固有名詞とする考え方もあって、例えば『出雲神道の研究 千家尊宣先生古稀祝賀論文集』(神道学会:1968年刊)という本に掲載されている「國號「日本」成立の由来」(村尾次郎:著)という論文では、「阿毎多利思比孤」を「アマタラシヒコ」と読んで、聖徳太子の国家統治権の執行者としての名号であると主張しています。
確かに、当時の政治は聖徳太子がすべてを取り仕切っていたと思われますから、この可能性も無視することはできないのかもしれません。
この場合、聖徳太子の妻の名前は菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)なので、「王妻號雞彌」(王の妻はキミと号す)という記述とも整合することになります。
3.「利歌彌多弗利」について
古代の日本語にはラ行の音で始まる言葉は存在しなかったので、先頭の「利」は「和」の誤記と判断するのが正しいとされ、これを「わかみとほり」と読むことができます。
ところで、『大日本国語辞典』を見ると、「わかんとほり」という単語が載っていて、意味は「皇室の御血統」とされています。
【わかんとほり】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)
ここで、「わかんとほり」を「わかみとほり」の音便だと判断すると、西暦600年当時は「皇太子」を意味していたものが、時代を経て意味が変化したのではないかと推測できます。
つまり、「みとほり」(御通り)が「皇室の御血統」で、それに「わか」(若)を付加して「皇太子」を意味していたと考えられるのです。