古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

藤原不比等の奉納文

2024-07-07 08:46:03 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は藤原不比等の2枚の奉納文です。現代では、この人物は「ふじわらのふひと」とよばれていますが、実はこれが間違いであることがこの奉納文から明らかになります。

【藤原不比等の奉納文】

・1枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
あまてらすおほみかみ 天照大御神 肥人書
ふしはらふひら 藤原不比等 肥人書

・2枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
つくよみおほかみ 月読大神 肥人書
ふしはらふひら 藤原不比等 肥人書

1枚目の「あまてらすおほみかみ」、および2枚目の「つくよみおほかみ」は、古来より有名な神様で、古事記には、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国を脱出して、汚れた体を洗い清めた際に、左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)がそれぞれ誕生したという神話が伝えられています。

各奉納文の2行目は奉納者の署名で、「ふしはらふひら」に相当する人物は、藤原不比等と考えられますから、不比等は「ふひら」と読むのが正しく、また、氏名に「の」を挿入することもなかったということです。

藤原不比等は、大化の改新(西暦645年)の功労者である藤原鎌足の第二子で、大宝律令や養老律令の撰定に功があり、また、藤原四家の始祖としても有名です。

さらに、娘の宮子は文武天皇の夫人にして聖武天皇の母、光明子は聖武天皇の皇后にして孝謙天皇の母となるなど、藤原氏繁栄の基礎を築いた人物です。

そこで、『藤原不比等』(上田正昭:著、朝日新聞社:1978年刊)という本を参考にして、不比等について詳しくご紹介すると、彼は西暦659年に誕生し、日本紀には、持統天皇の三年(西暦689年)に「藤原朝臣史」という氏姓名で初めて登場しています。

『尊卑分脈』という本には、史は不比等の幼少期の育ての親である田辺史大隅の姓(かばね=家格の尊卑を分かつ称号)とされています。

これをもう少し詳しく説明すると、田辺史大隅の田辺は氏(うぢ)、史は姓(かばね)、大隅は名で、史の訓は『藤原不比等』では「ふひと」となっていますが、調べてみると、姓としての訓には「ふみ」あるいは「ふみひと」を採用している本もありました。

そして、『八尾市史』(八尾市史編纂委員会:編、大阪府八尾市:1958年刊)という本によると、史という姓は文書記録を司どる長上に授与されるものだそうです。

ここで、当時の時代背景を説明すると、中国では西暦618年に唐が隋を滅ぼし、7世紀後半には遣唐使が次々と派遣され、唐の文化が盛んに輸入された結果、公式文書は漢文で書かれるようになっていたそうです。(『講座日本文化史 第二巻』(日本史研究会:編、三一書房:1962年刊)より)

また、『藤原不比等』には、田辺史が渡来系の氏族であると書かれていますから、当然のことながら、彼らは漢文に習熟していたと思われます。

したがって、不比等は、漢文の読み書きができる知識人のもとで、漢文や唐の文化に関する英才教育を受けた人物だったようです。

彼が次に日本紀に登場するのは、持統天皇の十年(西暦696年)で、「藤原朝臣不比等」と表記されているので、この時点までに史から「ふひら」に改名していたということのようです。

なお、『大日本国語辞典』によると、等という漢字は「ら」の万葉仮名であると同時に「と」の万葉仮名でもあるので(次図参照)、わざわざこの漢字を選んだのは、彼のユーモアだったのかもしれません。

「と」と「ら」の万葉仮名
【「と」と「ら」の万葉仮名】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

そして、この奉納文が書かれた理由を推測すると、彼が「ふひら」に改名したことを日本の神々に報告することが目的だったのかもしれません。

彼は西暦720年に亡くなりますが、死後、正一位太政大臣を贈られており、それまでは太政大臣になれるのは皇族だけだったことから、彼がいかに皇室から信頼されていたかが分かります。

それにしても、古代日本の律令制度を築き上げた不比等が、実は「ふひら」であったということは歴史的な大発見ですから、この奉納文にははかりしれない価値があると判断できます。

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