前回ご紹介した『国語学の諸問題』(小林好日:著、岩波書店:1941年刊)には、とても興味深いことが書かれています。
それは、国学者として有名な本居宣長(もとおりのりなが)が、字余りの歌は句のなかに「あ、い、う、お」の音がある場合だけであり、「え」の音がないことを指摘していることです。
これを具体的に説明するため、例として、平安時代の代表的な歌集である古今和歌集に収録された最初の歌をご紹介します。(参考文献:『古今和歌集』(藤村作:編、至文堂:1928年刊))
● 年の内に春はきにけりひとゝせをこぞとやいはむことしとやいはむ (在原元方)
解釈
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読み
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句の長さ
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年の内に | としのうちに |
六
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春は来にけり | はるはきにけり |
七
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一年を | ひととせを |
五
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去年とや言はむ | こぞとやいはむ |
七
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今年とや言はむ | ことしとやいはむ |
八
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この歌は、『古今和歌集 新古今和歌集』(平井卓郎:著、さ・え・ら書房:1963年刊)という本によると、「まだ(陰暦の)正月にもならない年内に立春になったことだ。同じ一年なのに、これを去年と呼んだものか、それとも今年と呼んだものか」という意味だそうです。
ご存じのように、和歌(短歌)の句の長さは基本的に五七五七七ですが、この歌は六七五七八となっていて、字余りとなった第一句と第五句にそれぞれ「う」と「い」が存在しています。
本居宣長は、こういったことを古今和歌集以降の歌集について調査した結果、平安時代には字余りの歌は該当する句のなかに「あ、い、う、お」の音がある場合だけであることを発見し、「え」の音がないのを不思議に思っていたそうです。
これに対し、『国語学の諸問題』の著者の小林好日(こばやしよしはる)氏は、「え」が古くから母音ではなかったと考えるとこの現象は容易に説明できると述べ、あ行の「え」が存在しなかったことを23ページにわたって論じています。
なお、平安時代には、悉曇学(しったんがく=サンスクリット語の仏教経典を読むための学問)が発達し、発音に関する知識も豊富になり、漢字の発音を借りて、次のような漢字の五十音図が作成されていたそうです。(参考文献:『音図及手習詞歌考』(大矢透:著、大日本図書:1918年刊))
【平安時代初期の漢字の五十音図】(大矢透:著『音図及手習詞歌考』より)
これを見ると、あ行の「え」に衣、や行の「え」に江という互いに異なる漢字を当てていて、一見するとあ行の「え」が古くから存在していたように思われます。
しかし、小林氏はこれについても、「エメ虫」という言葉が衣女虫と江女虫の二通りに表記されていることなどを例に挙げて、五十音図は悉曇にならって音韻を理論的に配列したものであり、実際には衣が江と同じ音、つまり〔ye〕だった可能性があることを指摘しています。
私はこのブログで、奈良時代の初頭にはあ行の「え」がなかったと主張してきましたが、今回の小林氏の考察によると、どうやらこの状態は平安時代以降も継続し、前回の最後にご紹介したように、江戸時代になってからあ行の「え」(母音の〔e〕)が誕生したということのようです。
したがって、前回ご紹介した音韻の変遷表は、次のように書き換えるのが正しいようです。
奈良時代
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その後の音韻変化
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変化した時期
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あ行
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a i u - o
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a i u e o
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江戸時代 |
や行
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ya - yu ye yo
|
ya - yu - yo
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江戸時代 |
そして、このことは、古代の五十音図のあ行には「あ」と「お」しか存在しなかったことを理解すれば、容易に受け入れることができるのではないでしょうか? (ここに阿比留文字の五十音図を再度掲載しておきます。)
次回も、『国語学の諸問題』の内容をご紹介します。