今回は、卑弥呼の後継者、台与に関する私の推測です。
卑弥呼の宗女、台与は13歳で王となったものの、その後の消息が不明ですが、三世紀後半に日本を統治したことは間違いないと思われます。
一方、第十代崇神天皇は、古事記において没年が記されている最初の天皇ですが、没年の戊寅(つちのえとら)は西暦318年と推定でき、この数字はその後の歴史的事実とうまく整合するようです。
また、崇神天皇は、古事記に「初国知らしし天皇」(はつくにしらししすめらみこと)と書かれていて、「初国知らしし」は「初めて国を統治なさった」という意味なので、崇神天皇の代になってやっと王権が天皇家に戻されたようです。
そうなると、三世紀末には台与から崇神天皇へ権力が移譲されたと考えるのが妥当ですが、それでは、なぜ崇神天皇が王になることができたのか、その秘密が系図に関係しているのではないかと思い、日本紀を調べてみました。
すると、第八代考元天皇の皇后となった鬱色謎命(うつしこめのみこと)という、物部氏の血統の女性が、非常に重要な人物であることが分かりました。
ここで、「うつしこめ」という名前の意味は、『紀記論究建国篇 大和缺史時代』(松岡静雄:著、同文館:1931年刊)という本によると、「うつ」は完美、「しこ」は尊厳の意を有し、「め」は女だそうです。
出雲を治めた大国主命も、葦原色許男(あしはらしこを)という別名を持っていましたから、「うつしこめ」が女王にふさわしい名前であることは間違いなさそうです。
また、『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)によると、物部氏の始祖の宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)は、天津瑞(あまつしるし)を持って天下った迩藝速日命(にぎはやびのみこと)が畿内の豪族の娘・登美夜毘賣(とみやびめ)と結婚して生まれた人物なので、鬱色謎命は血統的にも申し分のない存在だったはずです。
さらに、物部氏は、軍事を担当する有力氏族であり、かつ祭祀も執り行なっていましたから、この鬱色謎命が台与である可能性は相当高いのではないでしょうか?
一方、崇神天皇の和名は「御間城入彦五十瓊殖」(みまきいりひこいにゑ)で、「御間城入彦」というのは、『紀記論究建国篇 師木宮』(松岡静雄:著、同文館:1931年刊)という本によると、妻の御間城姫の居住地「みまき」に入り婿として入籍していたことを意味するそうですから、彼は皇太子ではなかったと思われます。
これは、卑弥呼の死後の混乱を教訓にして、台与の後継者の選定には特に慎重にならざるを得なかったため、彼女が生存中は後継者が未定だったと考えればつじつまが合います。
そして、台与の死後、豪族たちが血統と人望を考慮して候補者を絞った結果、台与の孫である「御間城入彦」が後継者に選ばれたのではないでしょうか?
第二代から第九代までの天皇は、事績の記録が皆無であることから欠史八代とよばれていて、その存在を疑う人も多いようですが、これは、王として君臨したのが初代の神武天皇だけだったためでしょう。
実際、三世紀には、卑弥呼と台与の二人の女王が大和朝廷の支配者となったわけですから、第九代までの天皇家の事績に関しては、ないものは書けなかったというのが真相だと思われます。
次回も「魏志倭人伝」の続きです。