古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

もう一人の内宿禰

2023-01-21 08:48:07 | 古代の日本語

日本紀には、応神天皇の九年に、天皇が武内宿禰を殺そうとしたことが書かれています。

それによると、応神天皇が武内宿禰を筑紫に派遣して庶民を視察させた際に、その留守を狙って弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に、武内宿禰が謀反を企てていると讒言したのです。

これがもう一人の内宿禰で、『大日本国語辞典』によると「うまし」には快いとか美しいといった意味がありますから、この人はイケメンだったのかもしれません。

彼の言葉を信じた天皇は、武内宿禰を殺すよう命じたため、武内宿禰は絶体絶命の危機に陥りますが、これを伝え聞いた壹伎直(いきのあたへ)の祖、真根子(まねこ)という者が武内宿禰の身代わりとなって死に、武内宿禰は難を逃れて都に戻り、無実を訴えたのです。

そこで、武内宿禰は甘美内宿禰と対決することになったのですが、議論では決着がつかなかったため、ニ人は探湯(くがたち=熱湯に手を入れて真偽を判定する占い)を命じられ、その結果、武内宿禰が勝利を収めたのだそうです。

前回ご紹介したように、内宿禰(うちのすくね)は称号で、実は「氏(うぢ)の宿禰=氏長」を意味しますが、それでは、二人の内宿禰はどの氏の長(をさ)だったのでしょうか?

まず、武内宿禰の母親は、古事記には、木国造の祖・宇豆比古(うづひこ)の妹、山下影日売(やましたかげひめ)、日本紀には、紀直(きのあたへ)の遠祖・菟道彦(うぢひこ)のむすめ、影媛(かげひめ)と書かれています。

古代の日本では、妻問い婚といって、夫婦は同居せず、生まれた子どもは母親の家で育ちましたから、武内宿禰は紀氏(きうぢ)の長だったようです。

ちなみに、『和歌山県史 原始・古代』(和歌山県史編さん委員会:編、和歌山県:1994年刊)という本によると、紀伊を代表する大氏族の紀氏には、紀直と紀朝臣(きのあそみ)の二つの系統があり、紀直は紀の川下流域に栄えた大豪族だったそうです。

ところで、『日本古語大辞典』の「キ(紀)」の項目を見ると、次のようなことが書かれています。

1.キ(紀)の国を始め、山城国紀伊(岐)郡紀伊郷、肥前国基肄郡基肄(木伊)郷や、その他諸国に木曾、喜多のごとくキを冠する地名が少なくないこと。

2.末尾がキで終わる国名としては、イキ(壱岐)、オキ(隠岐)、ハハキ(伯耆)、アキ(安芸)、サヌキ(讃岐)があること。

3.大和の旧地名にも、シキ(磯城)、アキ(秋、阿騎)、カヅラキ(葛城)、サキ(佐紀)、サヌキ(散吉)等があること。

4.木の国(現在の和歌山県)は、スサノヲの命の子と称する五十猛命、大屋津姫、抓津姫等の移住地といわれること。

5.出雲国にはイキ(伊支)と称する民衆が住み、ヒキ(日置)又はオキ(置)という氏族が棲息した形跡があり〔出雲風土記〕、その隣国をハハキ(伯耆)およびオキ(隠岐)ということ。

そのため、著者の松岡静雄氏は、上記のように分布の広い呼称はこれを族名と見る外には説明のしようがないと説き、「キは出雲族と同系に属する種族の称呼であったと推定せられる」と結論付けています。

出雲族に関しては、本ブログの「狗奴国は東海地方にあった」で考察しているように、三世紀には東海地方も彼らの支配下にあったと思われますから、この一族が日本各地に進出していたとしても不思議ではありません。

一方、甘美内宿禰の母親は、古事記によると葛城之高千那毘賣(かづらきのたかちなびめ)ですから、甘美内宿禰は葛城氏の長だったと考えられますが、葛城(金剛山地の東麓)は、第二代、第三代、第五代、第六代の各天皇が宮を置いたとされる重要な場所です。

また、松岡氏の説によれば、この氏族も出雲族と同系に属するするキ族の一派だったようです。

二人の内宿禰は異母兄弟ではありますが、大和の豪族である葛城氏の甘美内宿禰は、ひょっとすると武内宿禰が率いる紀伊の一族を田舎者と見下し、敵対する行動に出たのかもしれませんね。

そして、彼が武内宿禰に敗れたため、前回ご紹介したように、葛城氏は武内宿禰の六男が相続することになり、その娘の磐之媛命(いはのひめのみこと)が仁徳天皇の皇后となって履中・反正・允恭の三人の天皇を生んだため、葛城氏は大いに栄えることとなりました。

次回は、磐之媛命の物語をご紹介します。

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村