『日本上代史の一研究』を参考にしながら倭の五王に関する年表を作成していて、今回は安康天皇と雄略天皇の時代です。
なお、年表の★印は、著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。
また、年表に登場する百済新撰は、日本紀のなかで引用されている、失われた百済の歴史書です。
統治者
|
干支
|
西暦
|
特記事項
|
---|---|---|---|
安康天皇 | 辛丑 | 461年 | 安康天皇が即位(仮定) ★百済の蓋鹵王が弟の昆支を倭に遣わす(百済新撰) |
壬寅 | 462年 | ★大明六年 済死し、世子興遣使して貢献す(宋書倭国伝) | |
癸卯 | 463年 | 安康天皇が暗殺される(安康紀3年) | |
雄略天皇 | 甲辰 | 464年 | 雄略天皇が即位(仮定) |
乙巳 | 465年 | ||
丙午 | 466年 | ||
丁未 | 467年 | ||
戊申 | 468年 | ||
己酉 | 469年 | ||
庚戌 | 470年 | ||
辛亥 | 471年 | ||
壬子 | 472年 | ||
癸丑 | 473年 | ||
甲寅 | 474年 | ||
乙卯 | 475年 | ★高句麗が百済を破り蓋鹵王を殺す(三国史記) | |
丙辰 | 476年 | ★高句麗が百済の朝貢を妨害する(三国史記) | |
丁巳 | 477年 | ★昇明元年 倭国遣使して方物を献ず(宋書順帝紀) | |
戊午 | 478年 | ★昇明二年 倭国王武、遣使して方物を献ず、武をもって安東大将軍となす(宋書順帝紀) | |
己未 | 479年 | ★宋が滅び、斉(南斉)が建国される ★建元元年 倭王武を鎮東大将軍となす(南斉書東南夷伝倭国条) |
|
庚申 | 480年 | ||
辛酉 | 481年 | ||
壬戌 | 482年 | ||
癸亥 | 483年 | ||
甲子 | 484年 | ||
乙丑 | 485年 | ||
丙寅 | 486年 | 雄略天皇の没年(雄略紀23年) |
ここで、安康天皇の即位は、倭の五王「興」に関する中国の記録の1年前と考えて、西暦461年と仮定しました。
また、安康天皇は即位から3年目に暗殺されているので、雄略天皇の即位は西暦464年と仮定しました。
そして、雄略天皇の没年は、雄略紀に即位から23年目と書かれているので、西暦486年と仮定しました。
なお、雄略天皇が西暦464年に即位したのであれば、その翌年までには朝貢があったはずですが、それが中国の歴史書に記録されていないのは、朝鮮半島の情勢が関係していたのかもしれません。
というのも、高句麗は、西暦476年に百済の朝貢を妨害しており、倭に対しても同様の妨害工作を行なった可能性が考えられるからです。
さて、雄略天皇は、西暦478年に安東大将軍の称号を、翌年に鎮東大将軍の称号を得ますが、これらが外交上どのような影響力を発揮したかはまったく不明です。
ただし、日本紀によると、この天皇は、自分に向かって突進してくる猪を弓で射止め、足で踏み殺した猛者だったそうですから、こういった称号とは無関係に、存在感のある人物だったようです。
もっともそれは、英雄としてではなく、恐怖すべき対象としての存在感だったようで、彼は二人の兄弟を切り殺し、皇位継承予定者の市邊押磐皇子(いちのへのおしはのみこ=履中天皇の皇子)をも射殺しています。
また、彼が誤って多くの人々を殺したため、民衆からは「太悪天皇」(いたくさがなきすめらみこと)と非難されたそうです。
実は、このような悪名高い天皇は他にもいて、第二十五代武烈天皇は、「造諸悪、不修一善」(もろもろのあしきことをなして、ひとつのよきことをもおさめたまわず)という人物だったそうです。
天皇家の歴史は権力争いの歴史であり、皇族間で殺し合うことが珍しくなかったため、こういった暴君が出現したことは不思議ではないのかもしれませんね。
以上で倭の五王の年表が完成し、私自身、これで四世紀後半から五世紀末頃までの日本と朝鮮半島の状況がすっきりと理解できるようになりました。
次回からは、本題の「古代の日本語」に戻りたいと思います。