前回までは、古事記にあ行の「え」が使われていなかったということを検証してきましたが、今回からは、日本紀について同様の検証を行なっていきたいと思います。
これまで説明してきたように、あ行の「え」を表わす漢字は「衣、依、愛、哀、埃、榎、得、荏」の八文字とされていますが、日本紀を調べたところ、「衣、依、榎、得、荏」の五文字は日本語の音韻を記述している部分には使われていませんでした。
ところで、日本紀では新たに「可愛」という表記が「え」を表わすものとして登場しますが、これは古事記と同様に、イザナギ・イザナミ両神が互いに声を掛け合う場面で出てきます。
「姸哉可愛少男歟」(あなにゑやえをとこを)
「姸哉可愛少女歟」(あなにゑやえをとめを)
そして、「可愛此云哀」(可愛これを「え」という)という注釈がついています。なお、漢字の表記と読み方については、『国史大系 第一巻』(経済雑誌社:編、経済雑誌社:1897年刊)という本を参照しました。
これは、「え」が訓読みであることを意味しますから、前回論じたように、この「え」があ行に属するという証拠は存在しないと思われます。
さらに、前々回論じたように、「えをとこ」の「え」がや行の「え」である十分な根拠がありますから、「可愛」も、注釈で引用された「哀」も、や行の「え」に間違いないでしょう。
ところで、「哀」はもう一か所、顕宗紀に「蘆雚」というものが登場して、これに対する注釈の部分に次のように書かれています。
「蘆雚此云哀都利」(蘆雚これを「えつり」という)
「えつり」は、『日本古語大辞典』によると、木の枝等を編んだ簀(すのこ)のようなもので、枝連(えつら)の転呼だそうです。
そこで、「枝」の語源を『日本語源』で調べてみると、枝には彌(や=いよいよ)の意味があるので、や行に属すべきものと思われると書かれており、さらに『大日本国語辞典』にも、「枝」という漢字がや行の「え」を表記すると書かれているので、結局、「哀」はや行の「え」だと考えられるのです。
さて、再び「可愛」に戻りますが、これは天孫ニニギの埋葬地に関する部分にも次のように登場します。
「天津彥彥火瓊瓊杵尊崩。因葬筑紫日向可愛之山陵。」
(あまつひこひこほのににきのみことかみあがりましぬ、よりてつくしのひむかのえのみささぎにをさめまつる。)
そして、「可愛。此云埃」(可愛。これを「え」という)という注釈がついています。
したがって、注釈で引用された「埃」もや行の「え」に間違いないと思われるのですが、「埃」はもう一か所、神武紀に次のように書かれています。
「十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。」
(しはすひのえたつのついたちみづのえうまのひ、あきのくににいたりまして、えのみやにまします。)
この「埃宮」(えのみや)は、『日本古語大辞典』によると、地形に由来する名前であり、「え」の原義は「支」(え)で、河海沼湖の水の分岐湾入を意味するそうです。
つまり、「埃宮」の「え」は、前々回ご紹介した語根語ということになりますから、やはりや行の「え」だと考えられるのです。
次回は、最後に残った「愛」という漢字について検証したいと思います。