電脳古代文化研究所2022 序(goo blog ver.)

折々の雑感、研究テーマを写真付きできままに綴るブログ

大和古寺巡礼 安倍文殊院

2019-08-02 16:57:00 | ノンジャンル
 大化元年(645)に創建された日本最古に属する寺院。華厳宗東大寺の別格本山としてその格式も高く、御本尊は「三人寄れば文殊の智恵」のことわざでも有名な文殊菩薩で、日本最大(約7m)・快慶作の国宝である。
 孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺」(安倍寺)です。
 大化元年(645)安倍倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西約300mの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄えていました。(東大寺要録末寺章)
 鎌倉時代に現在の安倍文殊院の土地に移転後も、興福寺官務牒疏によると塔頭寺院二十八坊の存在が記されているように大和十五大寺の一つとして栄えていました。
 永禄六年(1563)松永弾正の兵火を受け一山ほとんどが火災で焼失、約100年後の寛文五年(1665)に現在の本堂(文殊堂)が再建されました。本堂は人母屋造りの七間四面の建物で前に礼堂(能楽舞台)を従えています。

 日本最大約7mと伝わる文殊菩薩(国宝)を御本尊とする安倍文殊院は、創建以来すでに1300年以上の時を経ていますが、現在も常に人々の信仰を集める祈祷寺としてその法灯が守られています。
 また、日本三文殊の第一霊場「奈良県・大和安倍の文殊」(京都府・天橋立切戸の文殊、山形県・奥州亀岡の文殊)としても知られています。
 天橋立の文殊は、来訪済み。


大和古寺巡礼 興福寺

2019-08-02 11:23:00 | ノンジャンル
 興福寺は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
 写真は、五重塔と中金堂。写真右側手前に国宝館がある。阿修羅像は、意外と小さい。
(゜д゜)



大和古社寺巡礼 春日大社

2019-08-02 10:23:00 | ノンジャンル
春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨城県鹿島から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して千葉県香取から経津主命様、また大阪府枚岡から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。
 御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。

 御創建以来当社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しいお姿で鎮まっておられます。これは、20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきたからです。これにより、清々しくも尊厳ある気が境内に満ち、神様の広大無辺なるお力や有り難さがしみじみと感じられる名社として今日に至っています。また、全国3000に及ぶ春日の御分社、奉納された3000基の燈籠は、その厚い信仰の広がりを示しています。

 そして今日も昔と変わらず、毎朝毎夕の神事の御奉仕を始め、年間2200回に及ぶお祭りが行われ、日本の国はもとより、世界の平和、万民の幸福、そして共存共栄が祈り続けられています。

 平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。





大和古寺巡礼第2日 若草山

2019-08-02 09:18:00 | ノンジャンル
若草山の鹿群。鹿の子斑に雪は降りけり。
 頂上に鶯塚古墳がある。 山焼きで有名な若草山(標高342メートル)の頂上に築かれた全長103メートルの前方後円墳。『枕草子』に 「みささぎはうぐひすのみささぎ、かしはぎのみささぎ、あめのみささぎ」の「うぐいすの陵」と伝えられてきたのが、この鶯塚古墳である。
 1733年(享保13年)に墳丘上に「鶯陵」の顕彰碑が建てられているが、当時は仁徳天皇皇后磐之姫命の陵との考えもなされていたようである。明治になって八木奘三郎によって前方後円墳であることが発表され、浜田耕作によって埴輪が採集されている。こうして、古墳としての認識が広がり、外形実測などが行なわれ、1936年(昭和11年)には国の史跡に指定されている。実測によると全長は103メートル、前方部幅約50メートル、後円部径61メートルの二段築成の前方後円墳である。外部施設として、葺石と埴輪をめぐらしている。太平洋戦争後、墳丘に柵が設けられた時に前方部から?製内行花文鏡が出土している。また別の時に滑石製舟形石製品や船形埴輪、家形埴輪(復原すれば大形の切妻屋根家屋となる)が採集されている。山頂の地形を利用した古墳は古墳時代の前期のものと考えられたこともあったが、滑石製品の採集で、この古墳については5世紀初頭まで時期が降るのではないかと考えられている。