電脳古代文化研究所2022 序(goo blog ver.)

折々の雑感、研究テーマを写真付きできままに綴るブログ

大和古寺巡礼 第3日 岡寺

2019-08-03 15:03:00 | ノンジャンル
 正式名称は、龍蓋寺。龍を封じ込めた池(写真上)に因む。 岡寺』と『龍蓋寺』
岡寺は奈良県明日香村の東にある岡山の中腹に位置しています。昔には日本の首都、飛鳥京の中心地 飛鳥板蓋宮(大化の改新が起こった場所)、現在は明日香村行政の中心地 明日香村役場の東に位置します。過去においても現在においても政(まつりごと)・行政の中心地のすぐそばに位置しております。

現在広く知られているこの『岡寺』という名ですが実は地名に因る名であり、古来正式には、別の寺名がありました。その名は

山号は 東光山(とうこうさん)
院号は 真珠院(しんじゅいん)
寺名は 龍蓋寺(りゅうがいじ)

といい、山号・院号・寺名がそれぞれあり『東光山 真珠院 龍蓋寺』となります。しかし古来より土地の名から『飛鳥の岡にある寺』=『岡寺』と親しみをこめて呼ばれており、現在では宗教法人としての名も『龍蓋寺』ではなく『岡寺』となっており、『岡寺』の名で知られております。
西国三十三所観音霊場の第七番札所として西国霊場草創1300年来、第七番の観音様として信仰を集めており、また日本最初やくよけ霊場としても知られています。現在は真言宗豊山派に属しておりますが、創建当初より江戸時代までは開山の義淵僧正が法相宗の祖であったことから法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出しており、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務しておりました。江戸時代に長谷寺第32代化主(住職)法住が岡寺に入山して中興第一世となって以来、長谷寺の末寺となり今日に至っています。同じ西国札所の興福寺・長谷寺とは昔から深いかかわり合いがあるお寺です。




大和古寺巡礼 第2日東大寺 第3日 唐招提寺

2019-08-03 09:24:00 | ノンジャンル
第2日 東大寺

奈良時代は華やかな時代であると同時に、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代であった。このような混乱の中、神亀元年(724)二月、聖武天皇が24歳で即位し、待ちのぞんでいた皇太子基親王が神亀四年(727)10月5日に誕生する。ところが、神亀五年(728)9月13日、基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折する。聖武帝は、すぐに親王の菩提を追修するため金鍾山寺を建立(同年11月)し、良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させた。

天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。

盧舎那大仏の造立
天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。

『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。もちろん、教理の研究と平行して巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い。

天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、延暦八年(789)3月の造東大寺司の廃止まで続行された。

盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる。

鋳造の場面 画像
「東大寺大仏縁起絵巻」より 鋳造の場面

大仏開眼供養の場面 画像
大仏開眼供養の場面
東大寺の創建
国家の災害・国難などを消除することを説く『金光明最勝王経』の具現が国分寺の建立となり、さらに発展して、世界に存在するあらゆるものは、それぞれの密接な相関関係の上に成り立ち、平和で秩序ある世界を形成していると説いている『華厳経』の教理の実現が、東大寺の創建につながっていったと言えよう。

東大寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と言う。当初、紫香楽宮において造仏工事が開始されるが、山火事が頻発し地震の続発などにより、平城京に還ることを決意、天平十七年(745)8月、大仏造顕の工事は金鍾山寺の寺地で再開されることになった。金鍾山寺では、先の「華厳経講説」の後、天平15年(743)正月から3月にかけて『最勝王経』の講讃が、49人の学僧を招いて行なわれるなど、当時の仏教界をリードする活発な宗教活動や研究が行なわれていた。

八宗兼学の道場
そもそも東大寺は国分寺として建立されたので、国家の安寧と国民の幸福を祈る道場であったが、同時に仏教の教理を研究し、学僧を養成する役目もあって、華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)、さらに平安時代の天台・真言も加えた各研究所が設けられ、八宗兼学の学問寺となった。

天平文化
官大寺を造顕する場合には、造寺司・造仏殿司といった官庁が設けられて造営にあたるが、東大寺の場合も、当初は金光明寺造仏所が設けられ、のちに造東大寺司になり、それまでの諸大寺に比べて遥かに規模が大きかったために、多くの支所が設けられた。奈良時代の文化、特に聖武天皇治政の時代の文化を天平文化と称し、その国際的性格を高度に具えた特色は、まさにこの造東大寺司が原動力となり、この文化が凝固し昇華したのが東大寺であったと言っても過言ではないであろう。 

 第3日  唐招提寺
南都六宗の一つである律宗の総本山。
 多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。

「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
 金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。写真は下の2枚。