群馬県館林にある今年10月オープンの新設ミュージアム。メルマガ抽選200倍の当選で招待された。14時30分館林駅集合、往復バスにて移動。
写真は、上からエントランス、ショップ、歴代の瓶、ポスター等。90分の映像放映の後、カルピスの試飲がある。炭酸かミネラルウォーターで割るのかが選べる。風呂敷、タオル等のお土産物付。
内装は木目調を採用し、床はフローリングである。照明は間接式が採用されたが、天井色を白色とすることで室内の明るさを確保している。さらに丸形の窓や真鍮製の手すり、緑色の地に模様を施された座席などでレトロムードを演出させる。客室定員は8500形8501号車では65名だったが、本形式ではロングシートを1人増やして9人掛けとし、座席22名・立席42名で合わせて1名減の64名となった。さらに、3人ごとの腰掛け仕切りを兼ねた縦型の握り棒を新設した。(Wikipedia)
素朴絵を見る前に、古い時代の素朴な表現として、埴輪や人面の描かれた土器など、立体物の素朴美から入ります。続いて6世紀の仏教の伝来とともに日本美術史を代表する本格的な美術作品が登場しますが、その仏教美術のなかにも小金銅仏などに素朴な表現が見られます。
その後、山岳仏教が盛んとなり神仏習合が進みますが、仏像の中でも一木彫像に鉈彫りのような素朴な表現が見られ、また、経塚出土の鏡像(きょうぞう)や懸仏(かけぼとけ)、神社に祀られた神像や狛犬など、日本独自の神仏観から生まれてきた庶民的な造形が多く伝世しています。
埴輪(猪を抱える猟師) 1個
古墳時代 個人蔵
銅造 誕生釈迦仏立像 1躯
白鳳時代・7~8世紀 個人蔵
鏡像 子守若宮明神像 1面
平安時代 個人蔵
展示室2では滋賀県の御上(みかみ)神社に伝わる神馬(しんめ)と馬の口を取る人形を展示します。神馬は、日本の馬の彫刻の中では優品といえますが、神馬の口を取る人物の表現は人形のようで、全体に素朴な味わいを醸し出しています。
木造 神馬・口取人形 1組
鎌倉時代・
13世紀 御上神社蔵
展示室3 素朴な異界 1
ここでは仮設ケース内に展示室5の素朴な異界に分類される大型の絵画を展示し、茶室展示ケースのガラス面には、透過光フィルムによる「ゆるキャラ」をピックアップした写真をディスプレイします。
地蔵十王六道図 21幅の内6幅
室町時代・16世紀
滋賀・宝幢院蔵
展示室4 絵巻と絵本
絵と文字を組み合わせ、物語の世界をより豊かに味わう文化は、絵巻や絵本の形で古代から連綿と描かれてきました。現代のマンガのルーツともいえますが、特に室町時代には「お伽草子」や「奈良絵本」と呼ばれる愛らしい絵を伴った物語小説が発達し、貴族から庶民に至るまで、多くの人々を魅了しました。狩野派や土佐派といった、いわゆる本流ではない、無名の絵師の手による素朴スタイルの作品です。テーマは釈迦や高僧の生涯、寺社の縁起といった宗教的なものから、動物を主人公とした寓話や恋愛譚と幅広く、素朴なタッチの絵と相まって、読む者を惹きつけます。不思議なかたちの建物や、子どもが描いたような人物など、ほのぼのとした情感と味わいがあります。
絵因果経断簡 1幅
奈良時代・8世紀 MIHO MUSEUM蔵 写真5(展示期間:8/6~9/1)
つきしま絵巻 2巻
室町時代・16世紀 日本民藝館蔵
重美 長谷寺縁起絵巻 3巻
南北朝時代・14世紀 出光美術館蔵
絵入本「かるかや」 2帖
室町時代・16世紀 サントリー美術館蔵 写真8
(展示期間:7/6~8/4)
展示室4 庶民の素朴絵 1
古代~中世を代表する日本絵画の多くは、政治的権力や宗教的権威のもとで、権力者や宗教家の偉大さを誇示し荘厳する造形芸術として制作されたものでした。しかし、そのような流れとは別に、庶民への布教のために庶民の間で描かれた素朴な絵画が存在しました。それが社寺参詣曼荼羅や社寺縁起絵などです。各地の社寺霊場が描かれていますが、これらは、戦国乱世とともに社寺の経済的基盤が揺らぎ、その打開策として聖(ひじり)や比丘尼(びくに)が諸国を巡って寄進や参詣を勧める勧進(かんじん)活動が行われ、その絵解きのツールとして制作されたものです。また、大型の絵画として伝わる高僧の絵伝や著名な物語、地獄絵なども、絵解きのために制作されたものと思われます。
県文 富士浅間曼荼羅図 1幅
室町時代・16世紀
富士山本宮浅間大社蔵
(展示期間:8/6~9/1)
伊勢参詣曼荼羅 2幅
江戸時代・17世紀
三井文庫蔵
(展示期間:7/6~8/4)
仏伝図 鈴木猪兵衛筆 6幅
江戸時代・文政13年(1830)
愛知・観音院蔵
(展示期間:8/6~9/1)
展示室5
庶民の素朴絵 2
近世になると社寺の周辺では参詣者をターゲットに土産物として描かれた素朴な絵画が生まれてきます。その代表が大津絵でしょう。庶民の素朴絵は、中世の信仰的なものから近世の娯楽的なものへと変わって行くようです。
大津絵 外法の梯子剃り 1幅
江戸時代 町田市立博物館蔵
(展示期間:7/6~7/2)
大津絵 猫と鼠 1幅
江戸時代 町田市立博物館蔵
(展示期間:8/14~9/1)
展示室5 素朴な異界 2
地獄や極楽、妖怪や仙界など、異界への畏怖や憧憬は、様々に造形化されてきましたが、素朴な表現による造形は、深刻さを和らげ、かわいらしさすら感じられます。死後の裁きの様子をあらわした十王図や、付喪神たちの活躍をコミカルに描いた絵巻など、絵師たちが想像力をはたらかせ、「この世ならぬもの」を魅力的に表現しています。
また江戸時代には、全国で「奇獣」・「幻獣」が出現したという記録が多数残されています。奇獣のすがたは「脱力系」と評するべき素朴なものです。
漂流記集 2冊の内1冊
江戸時代
西尾市岩瀬文庫蔵
十王図屏風 8曲1隻
江戸時代・17世紀
日本民藝館蔵
展示室6 知識人の素朴絵 1
素朴絵は大きく二つに分けることができます。すなわち描き手が意識しない素朴絵と、意識的な素朴絵の二種です。本展が取り上げるのは前者の意識的でない素朴絵がほとんどですが、展示室6と7で取り上げる素朴絵は、描き手が素朴であることに自覚的であった点で、それ以前の素朴絵と大きく性格が異なっています。現代では飲食店の壁などに素朴絵があふれていますが、多くは意識的なものです。その出発点は、江戸時代中期の知識人の素朴絵にありました。
展示室6では、アマチュアの知識人による素朴絵のうち、茶人、俳人、商人の作品を展示します。
鬼図 如心斎(表千家7代)筆
1幅
江戸時代・18世紀
三井記念美術館蔵
三輪鳥居図 其角筆
1巻のうち1紙
江戸時代・17~18世紀
三井記念美術館
展示室7
知識人の素朴絵 2
意識的な知識人の素朴絵を、本展では僧侶によるもの、アマチュアによるもの、プロによるものの三つに分類しています。禅僧の素朴絵(禅画)は人々にメッセージを発し、作画を生活の糧としないアマチュアの素朴絵は描き手の心の内を映し出し(展示室6)、プロによる素朴絵は豊かなデザイン性で人々を魅了しました。江戸時代半ばにこれら知識人によるものが登場したことにより、素朴絵の世界は格段に豊かさを増したのです。
大黒天図 白隠慧鶴筆 1幅
江戸時代・18世紀 個人蔵
大黒と福禄寿の相撲図
耳鳥斎筆 1幅
江戸時代・18世紀 個人蔵
曲馬図(人間万事) 仙?義梵筆 1幅
江戸時代・19世紀 個人蔵 (展示期間:7/6~8/4)
竹虎図 尾形光琳筆 1幅
江戸時代・18世紀
京都国立博物館蔵
(展示期間:7/6~7/25)
紅葉図 尾形乾山筆 1幅
江戸時代・18世紀
MIHO MUSEUM蔵
(展示期間:7/6~8/4)
重文 奥之細道図巻 巻上
与謝蕪村筆 2巻の内1巻
江戸時代・
安永7年(1778)
京都国立博物館蔵
(展示期間:7/6~7/25)
立体に見る素朴 2 木彫像
展示室1で見たように、彫刻にも素朴な表現がありますが、江戸時代の彫刻では、円空(1632~1695)と木喰明満(もくじきみょうまん)(1718~1810)の鉈彫り像が、円空仏・木喰仏の名でよく知られています。ここではその一部を展示します。
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特別史跡 キトラ古墳
高松塚古墳に次ぐ我が国2例目の壁画古墳で、1983年の調査で石室内に描かれた極彩色壁画が発見されました。キトラ古墳は、藤原京の南に広がる古代の皇族・貴族などの墓域に所在する小さな円墳で、7世紀末~8世紀初頭頃に造られたと考えられます。東西にのびる丘陵の南斜面に位置し、墳丘は2段築成で、下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mに復元できます。
墳丘の中央には、凝灰岩の切石を組み上げた石室があります。石室には18個の直方体の切石が使われており、石材は古墳から北西に約14キロ離れた二上山から運ばれたものです。石室内部の広さは奥行2.4m、幅1.0m、高さ1.2mで、天井・側壁・床面の全面に漆喰が塗られています。その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれています。
キトラ古墳の現在の墳丘は、発掘調査の成果をもとに、上段・下段とも築造時の大きさに復元しています。墳丘面には全体に保護盛土を施し、南海地震などの被害で大きく崩落していた墳丘の南から南西側も盛土を施し、古代の地形に近づけています。墳丘の前面には、解説板と古代の古墳の姿を体感できる地形模型を設置しています。また、古墳の南西には、四神や天文図、十二支を原寸大で浮き彫りにした金属製の壁画プレート(乾拓板)があり、壁画を写し取る乾拓体験ができます。
岡寺は奈良県明日香村の東にある岡山の中腹に位置しています。昔には日本の首都、飛鳥京の中心地 飛鳥板蓋宮(大化の改新が起こった場所)、現在は明日香村行政の中心地 明日香村役場の東に位置します。過去においても現在においても政(まつりごと)・行政の中心地のすぐそばに位置しております。
現在広く知られているこの『岡寺』という名ですが実は地名に因る名であり、古来正式には、別の寺名がありました。その名は
山号は 東光山(とうこうさん)
院号は 真珠院(しんじゅいん)
寺名は 龍蓋寺(りゅうがいじ)
といい、山号・院号・寺名がそれぞれあり『東光山 真珠院 龍蓋寺』となります。しかし古来より土地の名から『飛鳥の岡にある寺』=『岡寺』と親しみをこめて呼ばれており、現在では宗教法人としての名も『龍蓋寺』ではなく『岡寺』となっており、『岡寺』の名で知られております。
西国三十三所観音霊場の第七番札所として西国霊場草創1300年来、第七番の観音様として信仰を集めており、また日本最初やくよけ霊場としても知られています。現在は真言宗豊山派に属しておりますが、創建当初より江戸時代までは開山の義淵僧正が法相宗の祖であったことから法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出しており、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務しておりました。江戸時代に長谷寺第32代化主(住職)法住が岡寺に入山して中興第一世となって以来、長谷寺の末寺となり今日に至っています。同じ西国札所の興福寺・長谷寺とは昔から深いかかわり合いがあるお寺です。