電脳古代文化研究所2022 序(goo blog ver.)

折々の雑感、研究テーマを写真付きできままに綴るブログ

大和古寺巡礼 第2日東大寺 第3日 唐招提寺

2019-08-03 09:24:00 | ノンジャンル
第2日 東大寺

奈良時代は華やかな時代であると同時に、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代であった。このような混乱の中、神亀元年(724)二月、聖武天皇が24歳で即位し、待ちのぞんでいた皇太子基親王が神亀四年(727)10月5日に誕生する。ところが、神亀五年(728)9月13日、基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折する。聖武帝は、すぐに親王の菩提を追修するため金鍾山寺を建立(同年11月)し、良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させた。

天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。

盧舎那大仏の造立
天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。

『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。もちろん、教理の研究と平行して巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い。

天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、延暦八年(789)3月の造東大寺司の廃止まで続行された。

盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる。

鋳造の場面 画像
「東大寺大仏縁起絵巻」より 鋳造の場面

大仏開眼供養の場面 画像
大仏開眼供養の場面
東大寺の創建
国家の災害・国難などを消除することを説く『金光明最勝王経』の具現が国分寺の建立となり、さらに発展して、世界に存在するあらゆるものは、それぞれの密接な相関関係の上に成り立ち、平和で秩序ある世界を形成していると説いている『華厳経』の教理の実現が、東大寺の創建につながっていったと言えよう。

東大寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と言う。当初、紫香楽宮において造仏工事が開始されるが、山火事が頻発し地震の続発などにより、平城京に還ることを決意、天平十七年(745)8月、大仏造顕の工事は金鍾山寺の寺地で再開されることになった。金鍾山寺では、先の「華厳経講説」の後、天平15年(743)正月から3月にかけて『最勝王経』の講讃が、49人の学僧を招いて行なわれるなど、当時の仏教界をリードする活発な宗教活動や研究が行なわれていた。

八宗兼学の道場
そもそも東大寺は国分寺として建立されたので、国家の安寧と国民の幸福を祈る道場であったが、同時に仏教の教理を研究し、学僧を養成する役目もあって、華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)、さらに平安時代の天台・真言も加えた各研究所が設けられ、八宗兼学の学問寺となった。

天平文化
官大寺を造顕する場合には、造寺司・造仏殿司といった官庁が設けられて造営にあたるが、東大寺の場合も、当初は金光明寺造仏所が設けられ、のちに造東大寺司になり、それまでの諸大寺に比べて遥かに規模が大きかったために、多くの支所が設けられた。奈良時代の文化、特に聖武天皇治政の時代の文化を天平文化と称し、その国際的性格を高度に具えた特色は、まさにこの造東大寺司が原動力となり、この文化が凝固し昇華したのが東大寺であったと言っても過言ではないであろう。 

 第3日  唐招提寺
南都六宗の一つである律宗の総本山。
 多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。

「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
 金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。写真は下の2枚。








大和古寺巡礼 安倍文殊院

2019-08-02 16:57:00 | ノンジャンル
 大化元年(645)に創建された日本最古に属する寺院。華厳宗東大寺の別格本山としてその格式も高く、御本尊は「三人寄れば文殊の智恵」のことわざでも有名な文殊菩薩で、日本最大(約7m)・快慶作の国宝である。
 孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺」(安倍寺)です。
 大化元年(645)安倍倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西約300mの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄えていました。(東大寺要録末寺章)
 鎌倉時代に現在の安倍文殊院の土地に移転後も、興福寺官務牒疏によると塔頭寺院二十八坊の存在が記されているように大和十五大寺の一つとして栄えていました。
 永禄六年(1563)松永弾正の兵火を受け一山ほとんどが火災で焼失、約100年後の寛文五年(1665)に現在の本堂(文殊堂)が再建されました。本堂は人母屋造りの七間四面の建物で前に礼堂(能楽舞台)を従えています。

 日本最大約7mと伝わる文殊菩薩(国宝)を御本尊とする安倍文殊院は、創建以来すでに1300年以上の時を経ていますが、現在も常に人々の信仰を集める祈祷寺としてその法灯が守られています。
 また、日本三文殊の第一霊場「奈良県・大和安倍の文殊」(京都府・天橋立切戸の文殊、山形県・奥州亀岡の文殊)としても知られています。
 天橋立の文殊は、来訪済み。


大和古寺巡礼 興福寺

2019-08-02 11:23:00 | ノンジャンル
 興福寺は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
 写真は、五重塔と中金堂。写真右側手前に国宝館がある。阿修羅像は、意外と小さい。
(゜д゜)



大和古社寺巡礼 春日大社

2019-08-02 10:23:00 | ノンジャンル
春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨城県鹿島から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して千葉県香取から経津主命様、また大阪府枚岡から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。
 御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。

 御創建以来当社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しいお姿で鎮まっておられます。これは、20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきたからです。これにより、清々しくも尊厳ある気が境内に満ち、神様の広大無辺なるお力や有り難さがしみじみと感じられる名社として今日に至っています。また、全国3000に及ぶ春日の御分社、奉納された3000基の燈籠は、その厚い信仰の広がりを示しています。

 そして今日も昔と変わらず、毎朝毎夕の神事の御奉仕を始め、年間2200回に及ぶお祭りが行われ、日本の国はもとより、世界の平和、万民の幸福、そして共存共栄が祈り続けられています。

 平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。