前回お伝えしました、『謎の多い北の曲輪群編』では、武田氏の勢力拡大に伴い増設された曲輪など、館の北側の施設についてご紹介しました。
今回は、馬骨が出土した地点や、梅翁曲輪についてご紹介します!
下の写真で言うと、①馬骨が出土した地点と②梅扇曲輪の部分。それではスタート!
①馬骨が出土した地点
まずこちらが、馬骨が出土した馬埋葬跡です。
ここで出土した馬は、西曲輪ができる1551年以前に埋葬されていたと考えられます。
発掘調査によると、四肢が折り曲げ、北枕・西向きに手厚く埋葬されていたそうです。
また、歯の擦り減り具合から、柔らかい良質の餌を与えられていたことが分かったそうです!
手厚い埋葬、歯の擦り減り具合に加え、重い荷物を運んだと思われる形跡がなかったことから、上級の武士を乗せた軍馬だったのではないかと言われています。
(人間の埋葬方法と同じなので、大切にされてきたことが推測できますね。)
戦国時代の馬の全身骨格が出土したのは、全国でもここだけなんです!
全身骨格が出土したことにより、当時の馬の大きさや年齢もわかっています。
推定年齢は14歳で、体高は126cm程度。
現代の一般的なサラブレッドと比べると小さく、ポニー程度の大きさでした。
戦国時代の馬についての情報を伝えるうえでは、とても貴重ですね!
この馬骨の実物大レプリカを、信玄ミュージアムの特別展示室(有料)でご覧になることができます👀
信玄ミュージアムへお越しの際は、特別展示室もご覧ください。
※現在、新型コロナウイルス感染対策といたしまして事前予約制となっております。
詳しくは信玄ミュージアムへお問い合わせください。
次に②梅翁曲輪をご紹介します!
梅翁曲輪は、武田氏が滅んだ後、豊臣氏の時代に増設された区画です。
名前の由来は、加藤光泰の家老・井上梅雲斎(いのうえ ばいうんさい)の名前に由来するのではないかと言われています。
(加藤光泰とは、豊臣秀吉の家臣だった人です。)
井上梅雲斎とは…?
井上梅雲斎については、『甲斐国志』に「井上梅雲斎栄秀」(いのうえばいうんさいえいしゅう)と書かれています。
加藤光泰の重臣の一人だったようです。
武田氏時代から含めて、「梅翁」の名前の語源になるような人物は見当たらないので、松木堀で区画されていた曲輪に井上氏が居住していて、後世の人が言い伝えであそこに井上梅雲斎と名乗る武将がいた、ということで名づけられたのではないかと思われます。
〇〇斎と名乗るような人物は、だいたい隠居した人か仏門に入った人が多いので、年齢的には上の方だったと考えられます。翁(おきな)とあることから、それを裏付けているのかな、と思います。
梅翁曲輪を囲うように松木堀という堀があり、梅翁曲輪南側の守りを担っていました。
当時の松木堀にも、敵が侵入してきた際に木橋を外すなどして、外部からの侵入を防いでいた工夫がなされていたそうです。
昭和中期の頃からは住宅化が進み南東部は埋め立てられましたが、南西部は地元の灌漑用水のため池として使用されています。
松木堀周辺は遊歩道が整備されているので、ゆっくり散策することができます。
武田神社へお越しの際は、松木堀周辺の散策もいかがですか?
以上が馬骨出土地点と梅翁曲輪編でした。
武田神社と馬・・・
この光景で思い出す行事と言えば…?
毎年、武田信玄公の命日、4月12日に開催される武田二十四将騎馬列ですね
(※この写真は昨年開催された、武田二十四将騎馬行列の様子。左側に見えるのは武田神社の堀です。)
毎年全国各地の多くの方からご応募いただき、抽選で選ばれた参加者の皆さまが信玄公や二十四将に扮し、馬にまたがって甲府市内を練り歩きます。
そして、沿道からは行列を一目見ようと、多くの方で賑わいます
今年は新型コロナウィルス感染症の影響から開催が中止となりましたが、次回開催の際はぜひ、お越しください
信玄ミュージアムご協力のもと、全6回で紹介した<甲府市観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫るシリーズ>ですが、
今回で最終回となります。
皆さまに武田氏館跡の魅力や見どころをお伝えするとともに、私たちにもたくさんの新しい発見がありました。
武田信玄公のお膝元・甲府市は今回のシリーズでお伝えしたものの他にも、まだまだ魅力が盛りだくさん!
現在、新たなシリーズを企画中ですので、お楽しみに