LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

アグラへ

1998年01月11日 | パキスタン・インド日記
1月11日 (日) バラナシ-アグラー (HOTEL RAJ)

時は流れ、今02:37am。列車発進。9時間以上も遅れるんじゃねー。インドはやっぱりインドだった。駅の2階の暗闇の寒い廊下で時には眠気に気を失いつつ、チャイを飲み、ウォークマンを聞き、線路を眺め、列車が入ってくる度に今度こそ、と思いつつも裏切られつづけ、9時半から10時半、11時半、12時半、1時半と次々に予定時間が変わりようやく2時過ぎ入線。自分の寝台に荷物を置いた時はなんともいえず嬉しかった。その後すぐに買いに行ったチャイとタバコもすごくおいしかった。

列車が動き出した時には銀河鉄道999の鉄朗の気分でいっぱいでゴダイゴに歌でも歌って欲しい気分だった。かるくバラナシの駅で朝を迎えそうな雰囲気だったし、覚悟も出来ていたがなにぶん心配性の所があるので、万一列車を見逃したらときが気でないので落ち着かなかった。(今下をねずみが走っていった)つい先日1月4日か5日ぐらいにバラナシで列車事故があり100名以上死亡したとのこと。何も無ければいいが。

寝袋に入っても結構寒く、少しお腹が痛い。列車は快調に走っている。朝1枚列車の写真を撮ろうとしたらカメラのシャッターがおりなくなっていた。どこかでカメラを手に入れなければならない。これからタージマハルだというのに。

途中停車する駅で買う食べ物はどれも素敵においしい。本当においしい。車窓からはのどかな田園風景、スラム、原色のサリーを着た女性、写真に撮りたかったが壊れているのでしょうがない。

6:37pmようやくようやくアグラーカント駅到着。いきなりインド列車の洗礼を受けた。昨日バラナシの宿を出てから26時間以上、本来今朝の5時ごろつくはずだったから13時間以上遅れてついたわけだ。

アグラーの客引きは特に悪質だ、と散々聞かされていたので、駅にたむろしている奴等は避けて駅から少し離れて、子供が操る馬車に乗り込んだ(20rs)。馬のスピードは旅情豊かに私たちを運んでくれた。しかし何と言う客引きのうっとうしさよ。バカが服着てただ動いているだけで、社会に何の貢献もしていない人間ばかりだ。インド人おそるべし。あれはカラスの化身だ。人間は牛に化けている。

探していたHOTEL RAJ に荷物を置き近くのJONEY‘S PLACEに晩御飯を3人で食べに行く。客は全員外国人観光客であった。目玉焼きをチャパティにいれたものと、EggVegFriedRice。久々にホットシャワーを浴びた。洗濯物はバケツにつけおき。アグラーはバラナシに比べてかなり暖かい感じである。

今夜はタイミングよく満月。満月とタージマハルの最高の組み合わせを一目見ようとわくわくしながら屋上に上がったが、全く姿見えず。結局タージマハルを今日見ることは出来なかった。いつも吸っていた韓国製のたばこ「PINE(20rs)」がアグラーに売ってなく「CLASSICS(30rs)」というアメリカ製の軽いまずいタバコを買った。宿のレストランで寝る前にコーヒーをのみに行ったらフィンランド人男と目茶苦茶可愛いイスラエル人女性のカップルがいた。

ガンガーで沐浴

1998年01月10日 | パキスタン・インド日記
1月10日 (土) バラナシ (列車)

7時半起床。少したまっていた日記を書き足す。
8時半、昨夜の残り物スープとパンの朝食。

9時半、部屋でこれからガンガーに沐浴に行くから誰か一緒に行く?とアナウンスすると市場君と言う人が行きたいと言うので、クミコにタオルを借りてガンガーに行きパンツ1枚になり聖なる川に沈む。とても冷たくまた川底はヌルヌルしていた。風邪がまだ治っていないと言うのに少し無理をしてしまったが、インド人に温かく見守られ約3分つかった。冷たかったが、ヒマラヤ・ジヌーで入った川の冷たさに比べれば可愛いものだ。当たり前だが。ヒンズー教徒はガンガーで沐浴する為にバラナシを目指すのである。とりあえず好奇心野郎は満足した。

宿に戻りすぐガンガーより冷たい水シャワーを浴び、インドに入って初めて髪を洗った。昼、バラナシに来て初めて晴れたので写真でも、とガンガー沿いを歩いていた。写真を撮ってもらおうとカメラを渡そうとした時落としてしまった。その時は取れたものの調子がおかしく宿に戻り見てみるとズームが作動しなくなっている。バッグの中でどうにか大事なフィルムを手で巻き取った。こんなところで大切なカメラ(それも弟のもの)が壊れ大ショックだった。

朝倉さん、市場君との3人で昼飯(ターリー)を食べ、列車の中での寒さを恐れ毛布をもう1枚買った(130rs)。4時過ぎ居心地の良かったクミコハウスを離れオートリクシャーでバラナシ駅へ。この時狭い路地なんかを通られるとどこに連れて行くつもりだ、などとちょっと心配してしまうのはまだまだ慣れていない証拠だ。

初めてのインド列車。5時前について後20分で出発だと思っていたらいきなり遅れているとの情報。何と夜9時半になるとか。外人旅行者が集まっている駅建物2階の廊下に腰を下ろし待つことに。あまりにも長いので1度石田君と外に出て晩御飯を食べに行くことにした。とても辛いカレー味フライドライス、いい味付けの煎り卵。

在9:07pm一体いつになったら来るのやら。

夜はいつもの大富豪大会

1998年01月09日 | パキスタン・インド日記
1月9日 (金) バラナシ (KUMIKO HOUSE)

昼12時前朝倉さん、石田君とようやく宿を出る。今夜列車でデリーに向かう11日に日本に帰国する田場さんという人(建築士でインドの建物を見てまわっている)にフィルム、ふくろうの置物を日本から実家へ送ってもらうよう頼んだ。いつ盗難に遭うかわかったものじゃないので10ドル払って頼んだのだ。

昼はおととい到着した時食べた所で。その後リキシャに乗りバラナシカント駅にアグラーへの切符(2等寝台186rs)を買いに行った。リキシャマンとの値段交渉は本当に疲れる。3人で10rsと言うことで念を押して乗っても、下りる時には1人10rsだと言い出す。インド人の頭の中はどうなっているのか見てみたい。本当にむかつく。もちろん払わなかったけれども。

切符はすんなりと買えた。帰りはオートリクシャーで。夕食はおでん風お汁、ポテト、葉っぱ。8時前日本に電話(実家、彼女339rs)。親は新居浜に行っていていなかった。

メンバーはかなり入れ替わっていたが、ケンタッキーから来ていたクリスチャンも連日参加の5人での大富豪大会。お金もかけた。夜、停電が起こったのをきっかけに寝袋に入った。

KUMIKO HOUSE

1998年01月08日 | パキスタン・インド日記
1月8日 (木) バラナシ (KUMIKO HOUSE)

朝7時過ぎ、クミコおばさんの「船乗る人ー」という声で目を覚まし寝袋から抜け出しスパッツを下にはいて聖なる川ガンガーを約1時間(20rs)。川の上から見る対岸の町、建物は霧の中に聳え立ちなんとも不思議な感じだ。宿でパン、卵の朝食。

11時ごろまでドミでうだうだしてから、外に散歩に出る。どうやら風邪を引いたらしい。昨日の極寒のバスで風邪をひかないほうがおかしい。目と特に鼻に来て苦しい。トイレットペーパーが離せない。昼歩くバラナシの街は想像以上に人が溢れていた。火葬場(ガート)では何体もの死体が荼毘にふされていた。ゆっくり見ていたかったが、体の調子が悪くその場所をすぐ後にした。宿に戻り休憩。これからネパールにいくと言う日本人に残っていたネパールルピー240rsを140インドrsに変えてあげた。

昨日のバスから一緒にいた朝倉さんという人が郵便局に手紙を取りにいきたいと言うので御一緒する。インド人に道を尋ねながら行ったがどいつもこいつもいい加減なことばかり言ってる感じでいらいらした。かなり時間がかかったがどうにかGPOに着きアエログラムを2通買ってきた(6.5rs x 2)。

宿の夕ご飯のメニューはお好み焼き、オクラ、ソーメン、ポテトと最高だった。タップリ食べた後、6,7人で大富豪をして大いに盛り上がった。ここには麻原をはじめとするオウムの連中が泊まっていたことがあるらしく(1992)、またインドを旅する奴等の性格もあってオウム、大川リュウホウなどの宗教関係の本がたくさんある。が、私は猿岩石の本を読んでいる。パブロンもらって飲んだ。

バラナシへ

1998年01月07日 | パキスタン・インド日記
NEPAL-INDIA
1月7日 (水) スノウリ-バラナシ (KUMIKO HOUSE)

寂しい田舎道をバスは何度か止まり、休憩しながら朝7時前ネパール-インド国境の町、スノウリに到着。カトマンズで英語を教えているオーストラリア人女性のサリーとForestry関係者のイギリス人男性と3人で朝食(40rs)。

民家の軒先でやっているようなイミグレで出国、入国の手続きをしてとうとうインドへ。国境で待っているバスに乗り込んだところでいきなりインドを感じる出来事があった。荷物はバスの天井に上げたのだがその荷物代を徴収(20rs)されたのである。見た感じ小遣い稼ぎとしか思えない。後から乗ってきた白人家族も困惑した表情で私に払ったか聞いてきた。その金を集めていたインド人の顔がこれまた悪そうな奴だった。性格は顔に出る。もうここはネパールじゃないことをいきなり教えられた。

8:45amバラナシに向けて出発。このバスがこれまた寒かった。ガラス窓の隙間から風が遠慮なく入りこんできてとにかく寒く昨日買ったショールを頭からかぶっていた。このショールが無かったらと思うとぞっとする。よく止まるバス、うるさいインド音楽、クラクション、これがインドと言うことか。

7pmバラナシ到着。リキシャに日本人4人、韓国人1人で乗り込み宿の近くまでいき、そこから歩いた。町は人でごったがえし、すごく活気に満ち溢れていた。ここがインド人の憧れ、ヒンズーの聖地バラナシだ。ガンガーに出てみると夜遅いのもあるのか、静かなもので聞く所によると夜はとても危険らしい。宿の夕飯の時間はもう終わっていたので近くの食堂で焼き飯(20rs)を食べた。久美子ハウス(80rs)の2階の部屋はゴミだめのようで布団は湿っていて、枕はゴミより汚かった。ここは日本人宿としてとても有名でジャパニでいっぱいであった。うるさいほどに。隣に寝ていた人がすごいいびき、読んでいた漫画のエコエコアザラクの本で時々しばいていびきを止めた。

インドへ向けて出発

1998年01月06日 | ネパール日記
1月6日 (火) カトマンズ-スノウリ (バス)

遅い起床。シャワーを浴びたついでに靴下などを洗濯。荷物を預けてチェックアウト。朝食はいつもの所でパンを2個かい街ぶらしながら食べた。親に土産として集めているふくろうの置物を買おうと探し歩いた。いろんなところで値段の交渉をし、買った所では300rsの言い値を150rsにねぎって手に入れた。

昼は昨日の所でモモ。ここでホテルの部屋でパスポート、現金3万円取られた日本人がいてぼやきを聞かされた。はがきなどを売って現金をつくっているらしい。俺に言わせれば取られる奴が悪い。かわいそうだけど。

ホテルに戻りビクラム君にビジットネパール98ステッカーを頼み込んでどっかからとって来てもらった。今年はビジットネパール98と題した観光年である。旅行代理店、レストランに貼ってあるのを見てずっと欲しかったのだ。もらってすぐ日記帳に張った。土産物屋にはビジットネパール98シャツが置いてあった。買わなかったけど。

今午後3時、いつも朝食を買うパン屋の2回の屋上でこれを書いている。手紙6通書いた。(ミルクコーヒー20rs)持ち歩いているウォークマンをビクラム君がやたら気に入ったらしく6時まで貸してあげることにした。只今午後4時15分、3度目のHerena‘s Restaurant。つい先ほど今夜のバスが寒かったらまた耐えられないので大判のショールを買った。(350rs)まだネパールルピーが残っているので贅沢することにし、ハンバーグステーキ&ライスをいただいた。さあ、もうすぐカトマンズとお別れである。タメルは殆ど歩き尽くした。「友達、葉っぱ葉っぱ」の声は明日からインドでもっと聞くことになるだろう。

6pm宿の従業員にティンプーをつかまえてもらってニューバスパーク(60rs)へ。バス停は郊外の寂しい所にあった。おんぼろバスはすぐに見つかった。7:30pmバスはスノウリに向けて出発。何と日本人が10名ほどのグループを含めて12,3人もいた。たぶんルートはポカラへいく道と途中まで同じであろう。以前ポカラにいく前にインドビザを取っておけば同じ道を2度も通らなくて良かったのに、と少し後悔した。

パシュパティナート

1998年01月05日 | ネパール日記
1月5日 (月) カトマンズ (HOTEL POON HILL)
崖君と8:30am待ち合わせ。昨夜は毛布2枚と寝袋で寝た。おかげで朝汗をかいていた。

パンをかじりながら約20分間歩いてインド大使館へ。入り口で名前等を書いて中に入り面接官に髪をもらってカウンターAへ提出。この時オーストリア、スゥェーデン辺りからきた3人のジジババがやたら遅く英語もろくに喋れずとにかく時間がかかりいらいらした。1時間ほどかかって外に出ると日本大使館から手紙を取ってきた崖君が待っていてくれた。

ティンプーに乗ってパシュパティナートへ。結構衝撃的なものを見てしまった。ガートでひとが焼かれているのだ。その時は全部で3人。一人はお金持ちらしく橋の上流で焼かれる準備がなされていた。1人は男で体に巻かれている布から足が見え、焼かれていた。もう1人は30~40歳ぐらいの女性、組んだ木の上に布に巻かれたまま置かれたあと、顔の部分の布が取られ、首の部分に火種を置いた。あと体の上にわらを積んで体を覆い隠していた。木の方にも火がつけられ人体は蒸し焼きのようになって白い煙がくすぶり始めた。時間がある程度たつと足の指が開き、水ぶくれてかかとから油が滴り落ちてきた。死体の焼けていく光景はすさまじいものがあった。死についてもいろいろ考えさせられた。しかしこうやってヒンドゥーの聖地で焼かれる人々は本当に幸せなことらしい。始めてみた人の焼かれるさまはすさまじくショックではあったがここには宗教が生活にしっかりと根ざしているな感じた。

ティンプーに乗りタメルへ戻り大きなモモを1皿の昼食。モモ屋近くの旅行代理店でバラナシへのバスチケットを買った。宿に戻り従業員のビクラム君(20歳)と日本語、ネパール語の教えあいをする。彼の要望により、女の子を誘う言葉を教えた。彼の月給は1200rs。驚くほど安い給料だが彼はそこから田舎の家族に仕送りしているそうだ。観光客から金をせしめる時に良く使われる、使い古された話しだが奴のことは信じられた。だからと言ってお金をあげたりはもちろんしなかったが。

3:30pm名古屋の研修センターであったMr.Bistaと電話がつながり久々に喋った。明日暇があったら会えるかもしれないとのこと。4時歩いてインド大使館へパスポートを取りに行く。4:30pm開館。1番乗りで受け取った。明日のバス用にセリーヌディオンのテープを買いホテルでホットシャワーを浴びる。今まで湯が出なかったのは水の方のノブをひねっていたことが判明。

6時崖君と夕食に中華を食べに行く。酢豚、野菜炒め、ご飯、まあまあの味。客はほとんどが日本人だった。周りの人が食べている豪華な食事を羨ましそうに眺めるだけであった。食後、Yak&Yeti Hotelのカジノへ。見るだけということで行ってみたが見てるとどうしてもしたくなりルーレットの椅子についた。30分ほどして1000円ほど勝ったところでやめた。崖君も100rsほど勝った。明日カトマンズを出るので宿の清算。紅茶11杯も飲んでいたらしい。6杯分(x10rs)取られた。ホテルで働く人たちを見て感じたことは上下関係以外にここにもカーストが生きているな、ということだ。へつらうことなくもくもくと言うことを聞いて働いている。

宿1泊4ドル インドビザ(トランジット15日間有効)300rs テープ80rs

エベレスト見た!

1998年01月04日 | ネパール日記
1月4日 (日) カトマンズ (HOTEL POON HILL)

6時15分起床。毛布1枚ではカトマンズは寒すぎる。凍えそうな水で頭を洗い富沢君のホテルウッツェへ。タクシーに乗り空港へ。

9AMのフライト予定であったが霧の為遅れネコンエアー3Z101便は10:50AM飛び立った。右側の座席だった為最初の25分は山見えず。順番に招き入れてもらえるコックピットからは世界最高峰8848mのエベレストが見えた。夢中でカメラのシャッターを切った。だが予想していたほどエベレストには近づいてくれず、あっという間に視界から消えた。

機体が旋回してから座席からヒマラヤの素晴らしい眺望が見え、機内でもらった小冊子で山の名前を確認しながらヒマラヤ山脈を堪能した。すげー、すげー、の55分間はあっというまに終わってしまった。

空港からティンプーに乗りダルバール広場へ。クマリの館にもいったがクマリは姿を見せてくれなかった。見たことがある奴の話しによると愛想の無いわがままそうな娘だとのこと。インドラチョークの辺りをうろうろし、昼食にカレー汁付モモ2皿(1皿12個入り12rs)。ポカラのピリ辛モモのほうがおいしい。今日はもう何もやることが無いので街ブラ。今午後3:15しばらくホテル入り口前の椅子に座ってこれを書いている。

ロビーで仕事を辞めてアジアを周っていると言う25歳の崖君という人に会い夕方いっしょに日本レストランへ。豚肉生姜焼きをたべた。米はネパール産日本米らしく本当においしかった。そこで働いている日本人の叔母様連中も皆物腰柔らかいいい人ばかりで入る時メニューを貧乏人のまなざしで見つめていたらTAX10%まけてあげるというので入ったのだ。味噌汁には紅白のおもちが入っていた。日本の新聞、雑誌がおいてあり3時間も長居させてもらった。(6~9時)

街の本屋で読売新聞衛生版を売っていた。180rsもするので買わずに立ち見。円が1ドル132円まで落ちていた。日本はますますダメだ。宿に戻り、ブラックティーを出してもらい明日インド大使館の他どこに行くのか考えた。(がまだ決まっていない)またホットシャワーが出るということだったので蛇口をひねって数分待ったものの冷たい水しか出てこないので今夜のシャワーはあきらめた。また明日の朝凍えながら髪を洗うしかない。カトマンズでの夕食はいつもいいものを食べている。これからのこともあるので自重しなくては。毛布もう1枚追加してもらった。

ティンプー(空港-ダルバール広場)90rs 豚肉生姜焼き定食200rs

ポカラからカトマンズへ

1998年01月03日 | ネパール日記
1月3日(土) ポカラ-カトマンズ (HOTEL POON HILL)

山中でずっと私の体を支えつづけてくれた竹の棒はとても捨てるには忍びなくポカラにまで持って帰ってきたのだが、カトマンズにまで持っていくわけには行かず、ホテルの従業員に次トレッキングに行く人がいたらあげてくれと伝え渡した。

朝7時半ピックアップバスがホテルの前に来た。バス停で大型バスに乗り換え。このバスがまたとてつもなく寒く黒の野球用ウィンドブレーカーまで着たもののとても暖かくなるまでいかなかった。

バスは川沿いをゆっくりと走り午後2時過ぎカトマンズ到着。以前泊まったHOTEL POON HILLへ。前回泊まった時はそうでもなかったが今回来てみると日本人でいっぱいであった。宿の親父は私に是非地球の歩き方に投稿してくれと言い出す始末。その場で書かせるつもりだったようだが、ネパールの消印じゃまずいだろ、といって断った。

外に出て明日のマウンテンフライトの予約。ネパールの物価と比べての99ドルは本当に痛い。しかし今からナムチェに向かうのは時間的に無理だし、かといってここまで来てエベレストを見ずに帰るわけにはいかない、ということで仕方の無い選択である。街ブラをした後ポカラ-カトマンズ間同時刻の違うバスに乗っていた富沢君というひとと6:30PMHerena‘sRestaurantでおちあいガーリックステーキの夕食。ちょっと前にハンバーガーを食べたばっかりだったので苦しかった。ネパールコンビを物色してホテルに戻った。

アニールモモでカレー

1998年01月02日 | ネパール日記
1月2日(金) ポカラ (HOTEL JHARNA)

8時半起床。朝から洗濯。昨夜からつけおきしておいた白のジャージはまだ汚れが全然落ちてなくもう一度つけおき洗い。他は全部洗って屋上に干した。東京から来た少々疲れた自称プログラマーの人とジャーマンベーカリーで朝食(クロワッサン)。

ホテルに戻って、スパッツ、ジャージーの洗濯。結局ジャージーの汚れはとれなかった。もう下りてきているはずのセシリアを探しにレイクサイドのヘブンズゲイトゲストハウスに。荷物はあったものの彼女はまだポカラに帰ってきてないらしく宿の人にまた夕方7時頃来ると伝えて後にした。お昼はモモ2皿をたまたまそこにいたドラッグ大好きのおじさんと食べた。

2:45pmやることが無いのでまたジャーマンベカリーにいる。ホワイトブレッド(ゴマ付フランスパン7rs)、バナナマフィン(25rs)、ミルクコーヒー(20rs)。パンにたかる蝿がうっとうしい。4~6時眠気に勝てず昼寝。

6:25PMレイクサイドに。残念ながらセシリアはまだ帰ってきてなかった。途中で左近夫妻と再会した。アニールモモでは正月企画として日本カレーを出していた。骨付きチキンカレーであったがこれまたあまりおいしくなかった。ここJHARNA HOTELは従業員のSURESH BISTA君をはじめ、いい奴ばかりで居心地よく部屋のライトも明るいいい宿であった。鈴木ヒロ君とはとうとう会えずじまいであった。梅田さんは今朝インドへ行ったはずだ。

宿100rs