LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

カルカッタからバンコクへ

1998年02月05日 | タイ日記
2月5日 (木) INDIA-THAILAND
カルカッタ-バンコク (CH2)

6時過ぎ起床。昨日旅行会社で同じチケットをもらって日本人2人と7時に待ち合わせていたのだが、こないので7時半宿に出向く。TAXIに乗りカルカッタのダムダム空港へ。インド人の隣はいやだったのでそこにいた他の日本人と一緒にチェックイン。(彼女は鼻の頭、足などの傷が痛々しく化膿していた)

10:05発の予定がこれまた当然の如く遅れ13:30ようやくインドを後にした。まずい機内食を食べてる間以外はうつらうつらし、あっという間に懐かしいバンコク、ドンムァン空港到着。タクシーに朝の3人で乗りこみカオサンロードに(80b)。

2ヶ月足らずでカオサンに戻ってきたら町がかなり変わっていた。観光客でごったがえしホテルはどこも満室。いつものSIAM ORIENTALはかなり値段を上げていたにもかかわらずほぼ満室(600Bの部屋が1つだけ空いていたがそんなに出せるか!)。以前フンザで佐藤君がいっていたカオサンから少し離れているところにいるホテルに行くと運良く1部屋だけ空いていた(120B)。

久々にカオサンを歩く。ネオンがかなり増え2ヶ月前は工事中だったところが開いてたりした。約束していた9時よりも少し早く、タクシーに乗った2人と会い夕飯。SIAM ORIENTAL前のレストランで大好きないつものポークジンジャー(30B)を食べる。これを食べるとタイに来たとつくづく思う。2人はこれからロンドンに向かうとのこと。なんとこのとき初めてわかったことなのだがなんとネパール、カトマンズの宿で挨拶したことがあるとのこと。結構無口な男たちであった。

SIAMでターミネーター2を見てから宿に戻り2回シャワーを浴びてから寝た。暑くなったり寒くなったりまた暑くなったり体温調節が大変だ。今夜は咳が止まらない。以前カンチャナブリに行ったときのローリーにも再開。今は空港までのドライバーをやっているらしい。

LUNGFUNGのアメリカンチョプシー

1998年02月04日 | パキスタン・インド日記
2月4日 (水) カルカッタ (HOTEL MARIA)

7:30AM石田君サルベーションから引越ししてくる。昨夜は12人中、一人の男がウシガエルであった。隣のベッドは韓国人女性、相撲のキョクシュウ山にそっくりだった。

午前中ジーンズ、ネルシャツを洗濯。洗剤を落とすとすぐに真っ黒い水になった。朝ご飯はいつものZURICHレストランでトースト、アイスコーヒー(23rs)。朝は晴れていたのに昼前急に風が出てきて雷雨になる。こんなに激しい雨が降ったのは今日が初めてだ。すぐに洗濯物を取り込みドミで雨が上がるのを「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を読みながら待つ。

雨は30分ほどで上がり航空券をとりにいくと「2時って言っただろ」というので「12時っていうたわボケ」と言うと「あ、雨で遅くなっている、2時ね、2時」と言われた。その後郵便局へ行き昨日書いたはがきを出した。2時に戻ると航空券が届いていた。

この後マザーハウスへ歩いていった。建物の中に入るとミサの最中、なんとなく不思議な気持ちでそれを見つめていた。去年の9月5日までマザーテレサはここにいたのだ。今はここに墓があるだけ。主人のいなくなった家族のようであった。あるおばあさんがアルミでできたペンダントとカードをくれた。ついつい4枚ももらってしまった。できればもうすこし早くここにきてマザーテレサに会ってみたかった。10分ほどで出てきたが不思議にきれいな気持ちになったようなすがすがしさがあった。インド人の行動にいちいちむかついて怒鳴りつけたりするのがとんでもなく馬鹿らしいことのように思えてきた。

ここで石田君と別れ地下鉄に乗りチャドニーチョークのインディアンエアーラインの空港行きバス乗り場を調べに行った。うとりあえずチケットを確認してもらったらリファレンス番号があっていないなどと言われちょっとあせる。バスはここから出ていないとのこと。地下鉄ですぐ戻った。日本の感覚では地下鉄はすぐ来るものというイメージがあるが、もちろんここはそうではなく10分以上待たされた。バスにしておけばよかった。

午後6時30分頃、石田君とインド最後のご飯にでかける。いつものLUNGFUNGでいつものじじいにいつものアメリカンチョプシーを頼む。今夜は最後なので調子に乗ってモモ、VEG FRIED RICEも注文。モモはおいしかったがチャーハンは魚くさくていただけず。じじいがおつり1rsを店に黙ってくすねていた。でも愛嬌のある憎めないいいじじいで最後なので一緒に記念撮影もした。

明日はバンコクに飛ぶ。今考えてみるともう少し後でもよかったかな、という気がしてならない。今ではインド人にも慣れ、気にならなくなってきたところだ。(レストランが込んできて待つ人まで出てきたので追い出されるように店を出る)

屋台でチャイを飲んでいると経った今カルカッタについた日本人が宿探しに奔走していた。今はどこもいっぱいで難しいみたいだ。ついに学生どもの春休みが始まったようだ。夜11時、水シャワーを浴びる。12人のうち11人が日本人、後の一人は韓国人、なんか暗い奴が多く雰囲気が悪い。インド人もロクナノがいないが、訪れる奴らもたいしたことないのが多いようだ。石田君は俺がいなくなると孤立するとぼやいていた。

カーリー寺院

1998年02月03日 | パキスタン・インド日記
2月3日 (火) カルカッタ (HOTEL MARIA)

7:30起床。昨夜つけおきした洗濯物をすすぐ。フロントに行きドミトリーにかえてもらうとそこは日本人でいっぱいだった。9時過ぎサルベーションに行き石田君と会いドミの日本人と3人で朝食。

航空券を取ろうと昨夜訪れたスタートラベルに行くが、今日カルカッタは何らかのストライキに入っておりドゥルックエアーに通じず、パスポートコピーが必要だというので開いているほかの店を探した。その後違う旅行会社に行くと木曜日のドゥルックは一杯だ(ほんまか嘘か知らんけど)、というので機体の大きいインディアンエアー(5000rs)を頼んだ。

インド博物館にも行ってみたが、何も興味をかきたてるものも無くすぐ出てきて、地下鉄に乗り(PARK ST-カーリーガート2rs)羊の首を落とす事で有名なカーリー寺院にいく。これまた特にコメント無し。

街はストライキで昨日の活気が全く無かった。宿に戻り冷たいシャワーを浴びる。4pmいつものZURICH RESTAURANTで石田君と待ち合わせし、一度マリアに戻った後6時過ぎ夕飯を食べようともう一つの中華レストラン「香港」に行き席につくが、メニューを見たら高かったので席を立ち、昨日の食堂に行きアメリカンチョプシー(38rs)を食べた。うまい!インドNo1チョプシーの称号をここに与えよう。このあとまんま浮浪者姿の石田君、髪を切ってすっきりして

今日3回目のZURICH RESTAURANTに。チョコバナナパンケーキ(20rs)を食べる。後から同じ席に日本人2人座ってきて4人で喋る。夜軽く水シャワーを浴びたが少し暑く寝苦しく感じた。今夜は男7人、女5人。喉が少し変だ。誰か分からんがこのドミには1人ウシガエルがいる。

カルカッタ到着

1998年02月02日 | パキスタン・インド日記
2月2日 (月) -カルカッタ (HOTEL MARIA)

朝7時過ぎに目が覚めたが、寝袋に入ったまま窓からの景色を眺めていた。まだガラスは2重以上になってる上に傷つき汚れているので外の様子ははっきり見えなかった。英字新聞、アップルジュースと配られ9:10AM朝食。卵焼き、ラスク、バナナ、ケーキ、チャイ。

上のベッドでは賢そうな(昨日から彼女が英語を喋るのは分かっていた)インド人にサダルストリートにはどうやっていけばいいか聞いた。もちろんこちらとしては連れていってくれる事をあらかじめ頭に描いての行動だった。すると彼女は「タクシーでその向こうまで行くから一緒にどうぞ」と言ってくれた。思ったとおりだった。多分カルカッタは暑いだろうと思い、駅に着く前Tシャツに着替えた。意外にラジダニの17時間30分は早く終わった。

10:50AMほぼ定刻でカルカッタ・ハウラー駅到着。彼女はポーターに荷物を持たせ(20rsも払っていた)駅出口へ。外は夏の陽気でじっとり汗がにじんでくる。彼女はタクシーの運ちゃんと2,3言話し私を乗せてくれた。タクシーは他に2人のインド人も乗せ出発。ハウラーブリッジを通り、カルカッタ市街へ。どこを見てもすごい人、渋滞でカルカッタにたどり着いた事を強烈に感じた。サダルの前のインド博物館の前でおろしてもらうまえに彼女(政府関係の仕事をしているとのこと)とは住所交換をし今回の旅で始めてインド人女性と握手をしてサヨナラした(タダだった)。上流の人は、その他大勢のインド人とは大きく違うのであった。

インド博物館横の通りは安宿の並ぶサダルストリート。バラナシからデリーまで一緒だった石田君と再会できるかどうか分からなかったがとりあえず泊まると聞いていたサルベーションアーミーへ行き台帳を調べていると名前があった。部屋まで行くと荷物があったが奴はいなかった。部屋を出ると階段から奴が下りてきて2週間ぶりの再会。

サルベーションにはベッドが開いていなかったので宿探し。8,9軒当たってみたがどこもシングルは一杯、または高かった。結局ホテルマリアの高いシングルに泊まらざるを得なかった。180rsも取られて一体どんな部屋かと思いながら行ってびっくり、監獄のような部屋だった。

2人で街ブラ。まず屋台のようなところで焼き飯。一度宿に戻り水シャワーでさっぱりしてニューマーケットへ行ったが何にも無くすぐでた。食堂でコーラを飲んでビクトリア記念堂、カルカッタ公園、ではたくさんの人々がそれぞれ楽しく過ごしていた。夕食はガイドブックを読んでとても行ってみたかった中華レストランのHOW HUAへ。日本の味と同じという触れ込みであったが、そのとうり。酢豚、中華丼(あとコーラで96rs)とおいしくいただけた。今9pmレストランを代え、バナナラッシー、コーヒーを飲みながら書いている。

今次なる問題が起きている。それはバンコク(航空券代4600rs)へ行くか、シンガポール(7500rs)へ飛ぶかである。今夜は1月5日以来の久々のシングルルームである。

ラジダニ・エクスプレス

1998年02月01日 | パキスタン・インド日記
2月1日 (日) -ニューデリー- (夜行列車)

隣のベッドはガマガエルであった。普通では考えられないようなおおいびきで発作を起こして死ぬんじゃないかというぐらいうるさくベッドに蹴りを入れようが、チェーンを叩き付けても一向におさまらなかった。ガマガエルはこいつだけではなく、周りのいたるところからの大合唱で、またまた気が触れそうになる。ウォークマンを最大ボリュームで聞いてもクソジジイのいびきが聞こえなくなる事はなかった。それでもどうにかこうにか寝ることができ朝7時前寝袋を詰め直す。

私のすごいところは思った時間に目覚し時計をかけなくても起きられる事だ。この列車はボンベイ行きなので寝過ごすとまずいのだがうまくちょうどいい頃にはきちんと目が覚める。定刻より10分ほど遅れてニューデリー到着。この後ジャイサルメールに行くか、とっととカルカッタに向かうか迷いながらHOTEL HARERAMAへ。ここは24時間チェックアウト制なので朝はいると朝でなくてはいけない。今日デリーで一泊すべきか?ホットシャワーも浴びたい。だがシングル150rsは高すぎる。

あー、どうしよう、どうしようと思いながらとりあえず荷物はラゲージストア屋に預けた。ニューデリー駅2回の外人用予約室に行くと日曜日で閉まっていて「あかん、今日はスタックや!」と思い宿を探そうとメインバザールに戻ってくる。

前回2回いったチョプシーのうまい中華系食堂で列車時刻表をめくっているとカルカッタ・ハウラー行きの特急を発見。再度駅に戻り今度は通常の窓口へ直行。するとこの列車は既に一杯との事。しかしまだ取れる可能性は十分あるというので(44番目のキャンセル待ちらしい)金を払って(ラジダニ・エクスプレス1120rs)午後2時の確認しにこいといわれた。駅に行く前20ドル(740rs)両替しておいて良かった。行ってなかったらもう一度往復しなくては行けないところであった。

駅、メインバザールで歩いているといろんな客引きが声をかけてくる。ツーリストインフォメーション、ホテル、ハシシ、マネーチェンジ、土産屋、こいつらは本当にただのあほだ。あまりにあほすぎる。とても人間としてあつかえない。教育を受けずに成長するとこうなるといういい見本だ。1日中ツーリストに声をかける、ただそれだけの人生である。詐欺師として生きる毎日はその表情にどうしようもない卑屈さを浮かびあがらせる。

2週間ぶりにデリーに帰ってきたが暑くなってるような気がする。Tシャツ1枚で十分だ。午後1:40駅に行く。チケットが取れた。さあこれから時間をつぶすのが大変である。ハレラマの屋上のレモンティーに続いて道端のレストランでコーラ。今朝ニューデリーに着いてもう3軒目である。

ハレラマの屋上で再度時間をつぶして午後4時荷物を取りに行く。そこで鋸のようなもので鍵を無くして用の無くなったただ重いだけのチェーンを切ってもらった。まさか切るものなんて持っていないだろうと思って聞いたのだが、その鋸を目の着かないところに隠していた。まさか客の荷物に手を出してるんじゃないだろうな。

4:40pm10番プラットフォームに着くとちょうど列車が入ってきた。インドの誇るラジダニ・エキスプレスだからさぞかしご立派なのだろうと期待してたら何てことない、他の列車とまったく変わらなかった。車内もほとんど変わらない。違うのは電灯の代わりに蛍光灯が使われ明るいのと、鏡が貼られている事ぐらいだ。あともう一つの大きな違いは客層である。あまりに値段が高いために金を持っている人しか乗れないということが姿を一目見れば明白だ。

AS7号車の55番に行くともう一人のジジイが同じ番号を持っていた。今のところ2人で1つのBERTHを使っている。只今8:05pm水筒に入ったチャイ、コーヒー、スープ、お菓子のスティック、ミネラルウォーター1本がサーブされた。8:25pmジジイが他の場所に移りようやくこの場所が俺だけのものになった。なかなかうまく英語を使ういいジジイだった。

9:10pm夕食が運ばれてくる。ベジ、ノンベジから選べ、ノンベジを選んだら骨付きチキンカレーのターリーだった。とりあえず食べ終え、寝る用意をする。皆、食べ終えると追い立てられるように準備に入った。枕、シーツ、毛布は支給されたが自分の寝袋の方が清潔そうなので使わなかった。マットの一部を荷物を置くのに使っていた為足が完全に伸ばせず、窮屈な体制で寝ざるを得なかった。ウォークマンを聞きながらいつのまにか眠りに落ちていた。

今回の列車は、上のベッドに上流階級インド人女性、すぐ隣に4人の欧米人女性、他の場所にもそのグループの一部、目の前にファミリー(子供3人の女の子、ほとんど黒人、お母さん子供をよくしばく)がいて、なかなか安心できる雰囲気だ。何といっても高級列車なので貧乏くさくないのがいい。