お父さん、天国へ召されて今日で一年ですね。あっという間に過ぎました。
お父さんは戦後シベリアに抑留され苦しい生活の後帰国して婿としてY家へきて
奥さんのTさんとの結婚生活も短くTさんが結核で亡くなられました。
それから私を連れたお母さんと再婚しましたが苦労の連続でしたね。
Tさんの菌が残っていたのでしょうお母さんも結核にかかりました。
高いストレプトマイシンを手に入れるために、炭焼きをして朝早くから夜遅くまで
働き蜂のように働いてくれましたね。私もわが娘のように可愛がって弟と同じように
してくれました。
私が戦死した実父の墓参りに行くと言っても、いやな顔せず送り出してくれました。
お母さんがどうにかよくなっても完全ではないので辛い仕事はさせず全部一人で
やってくれました。私たちの進学のためにと出稼ぎに行き、高校から間借りさせてくれ
半分近くが中学校から就職する時代でしたのに、短大まで出してくれ、弟は4年の私立大学
ですからどれだけ大変だったか子どもを出してみてよくわかります。
子どもの成長、孫ができると孫の来るのを楽しみにといつも休みなしの働き者でした。
仕事は丁寧できれいな仕事をしてみんな感心するほどでしたがそれを周りのものにも
求めるのでチョッと煙たかったですよフフフ・・・。
ゲートボールが大好きで地域の方と病気になるまで楽しみました。
晩年は脳梗塞に二回かかり、認知症の母をかかえていたので弟夫婦と交代で看ていましたが、
母が入院すると老人性ウツ病と診断され、苦しい思いをしました。
朝早く苦しいから来てくれとの電話に、何度も行きましたがどうしてあげることもできませんでしたね。
私を頼りにしていたのに、夫が癌になり岡山の病院へ入院したのでよけいに気分は落ち込んだようです。
こちらに帰って来る度に弱っているようで気になりましたが、食欲も落ちているのでどうすることもで
きませんでした。
「しわいよーしわいよー」の言葉が今でも耳から離れません。
最後に話したのは8月15日江水園から医療センターに入院した夜のご飯を食べさせてあげたときになりました。
その夜危篤状態になりその後は話はできず、ときどきこちらの言うことにうなずくていどでしたね。
治らないのなら苦しまずに楽にしてほしいと願うようになりました。
一ヶ月あまりしんどい思いをして逝ってしまいましたね。
お母さんと会いましたか?これからはゆっくりしてくださいね。本当にありがとう!!
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