感動は命の肥し

曇りなき眼で、物事を見つめるなら必ずや真実を見極めることができる。覚醒の時を生きた記録として。

マンハッタンの縫製工場での仕事

2012-02-11 | 遠い昔の記憶

30歳になる寸前にアメリカに来て、人の紹介でアメリカで初めてした仕事、
それが、縫製工場でのミシンを使った仕事でした。

場所は、マンハッタンの42丁目を少し南下した8番街にたつビルの5階にある工場。
こんなところに、縫製工場がと最初は驚きました。
工場の主人は、ブラジル育ちの韓国人のご夫婦、お二人ともスペイン語が大変上手で
工場にかかってる有線?放送もスペイン語の曲ばかり。
というのも、そこで働いてる人の大部分が南アメリカなどからの移民者で
スペイン語を使う人が多かったのです。

50台以上でしょうか、ミシンが並びそれぞれに女性が座って朝の7時から夜の6時まで
30分の休憩を2回取る以外は、ミシンを踏みっぱなしでした。
多分、その中にはアメリカの身分証明のない不法滞在でいる人もかなりいたのだろうと思います。給与は週ごとに現金での支給でした。

縫いあがった服にアイロンを掛ける男性達も10人ほどでしょうか、いました。

アジア人は韓国のおばあさんが二人だけ。ミシンの前列に座っていて
彼女らが一番難しい襟の部分専門で働いてました。
私は、器用なほうでしたから、彼女達の後ろの席をもらい、ジャケットの前の部分を担当しました。

その当時は、そのあたりにかなりの数の縫製工場があったようです。
42丁目のバスターミナルを使って、ブルックリンや、クイーンズから皆働きに来ていました。
工場には、どこか別の場所で裁断された生地が毎日たくさん届き、それを縫い合わせてアイロンまで掛け、問屋に卸すところまでがこの工場の仕事です。

毎日早く起きて工場のあるビルに行き、手動で動かすエレベーターの係りの男性に
「シンコ!(5の意味)」と言って5階まで上げてもらい、
床にほこりとゴミが散らばる中を歩いて自分の席に座り、
若い女性達(10代の人も多かった)に混ざって
ミシンの音とスペイン語が飛び交い、スペイン語の歌が一日中流れる工場で仕事をする毎日が私は好きでした。

私の席にいつも縫い合わせるための生地を持ってきてくれるのは、可愛い小柄なローザ。
工場の主人の話では、彼女は頭がいいんだ、だから、全体を把握しながら皆に生地を配分し仕事を仕切る役を任せてるんだとのことでした。金髪の長い髪をいつもきれいに結って、おしゃれな服を着てました。二十歳前だと思われる面立ちで、いつも面白おかしく自分の親ほどの年齢のおばさんたちと話しながら仕事をしている様子が見てとれました。
何を話してるのか全くわからないけど、そんな雰囲気の中で楽しく仕事をさせてもらったのを
思い出します。

(スタジオアパートの西の窓からいつもながめた、ビルの間から見える夕暮れ時のハドソン川と夕焼け)

工場には、定期的にはさみ砥ぎ師(こんな職業もあったのです)のおじさんが回ってきてて
新顔の私が日本人である事を知ると、長くこの道で働いてるが、日本人に会ったのは初めてだと大変驚かれたこともありました。
(日本のような住みよい国を離れてここに来てしかも縫製工場でミシンを踏む)日本人の私を見て「何でここで働いてるの?」というわけです。

生まれた国も、境遇も違う者たちが、生きるために一生懸命働いている、仕事ができる事を喜んでいる、そんな職場でした。
その後、日本に一時帰国することになり、私がそこで働いたのは3ヶ月だけでしたが、今思ってみても、大変貴重な経験だったと思います。

縫製工場のあったビルのあった一角は、今ではきれいに改装されたビルが並び、その昔この場所に移民者が溢れる縫製工場があったなどと、みじんも感じられません。

たまにマンハッタンに行く事があって、縫製工場があった場所を通る事があると、あの頃、一緒に働いてたスパニッシュの人達は今どうしてるのかな?
アメリカン・ドリームでちゃんと生き抜いてるかななどと、今も懐かしく思い出すのです。

(90年代初めのマンハッタンチャイナタウンで撮った写真に写る今はない世界貿易センタービル)


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