goo blog サービス終了のお知らせ 

食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『回顧録、韓国旅行』

2013年02月07日 15時13分04秒 | 回顧録

折角、ムードは良くなりかけていたのに頓挫させられ、このままでは引き下がらない

と簡単に行けそうな寒い韓国にでも行こうと、元気を出す。

1~2か月以上かけて決まったのが4月、韓国に行くこと。この頃には、病気上がりで

もないし静養しなければならない状態でもなかったから、普通に出かけるトラベラー

だった。韓国へは何度か出かけており様子は分かっているから、食べ物にしても困

ることはないと思っていた。ガイドブックなどで有名な明洞餃子店でのこと。料理を

注文したものを見ると一人前なのに二人前くらいのボリューム、とても食べきれない

と話しながらつつく、やはり他の客は二人でシェアしながら食べている。テーブルに

置いてあるキムチに目がいき、いつもの調子でパクリと食べた瞬間、その辛さに耐え

きれずオエッと吐き出してしまった。幸い、他のお客さんとは離れた席だったから無

様な姿を隠せたが、キムチを食べてこんなこと初めて。術後、わさび、洋辛子の味は

変わりないが唐辛子の辛さは非常に敏感になり、殆ど受け付けない感じになってい

た。数値化はできないけど10点満点で3点くらいのパワーに落ちていた。そんなこと

になっていると気づかないでパクリとやったから、酷い仕打ちを受けてしまったのだ。

韓国はこれで3度目だから特に明洞は自分たちで何とかなる。地下鉄の利用もプリカ

を用意したので少しは遠出もできるようになり、guidebookの地図を見ながら目的地ま

で行くことも。しかし郊外への旅になると自信はガラガラ・・・・イ・サンでお馴染みの水

原へも出かけたが、これはガイドつき。4月の韓国は日本よりも少し寒い気候で厚着

が功を奏し風邪をひくようなことはなく、ゆっくりと楽しんだ。

その後、タイは6月になってから政情は元に戻り、一度は火をつけたことだからと出掛

けてみた。


『悪い木炭の売れ行き』

2013年02月07日 15時11分59秒 | 回顧録

関東地方の雪騒ぎが一段落したら、順番がこちらに回ってきたようで本来の冬模様

に戻りつつあるある。ここのところ暖冬を思わせる日が続いていたが、今朝から吹く風

は強めで、しかもしっかりとした冬風、上空に水気があれば確実に雪となる。

今年、二窯目の炭焼きの初日、皆で囲む焚火はエアコンや温風ヒーターなどの温も

りとは違う。料理でも一時流行った『直火』のものか?

寒さから遠のくことは木炭の売れ行きにも大きく響き、例年は会員でさえお客さん優

先で手に出来ない樫炭の在庫がある。

私たちのような小口の炭焼きが気温と消費の関係を肌身で感じる、これが大手になっ

たら、それこそ1℃、2℃でとてつもない数字で跳ね返ってくることだろう。

円安に向かいつつあり経済界の一部は歓喜のこえを上げているが、ガソリンを始めと

する大半の材料、食品などを外国から輸入している日本、喜んでいてばかりでは、お

られないはず。

貿易収支がマイナスの国だから円安で入りが増え、輸入してもそれとの差益があれ

ば吉となる、しかし国内での生産、販売がこのようなデフレ状態で『吉』になったとし

て庶民にそれを感じることができるようになるかどうか。

吉を感じる前に、円安による痛手を感じるようでは・・・痛いなー。


『回顧録、抗がん剤治療退院』

2013年02月06日 18時09分32秒 | 回顧録

退院して、翌日にシンガポールから来日していたEさんが見舞いに来るというから、

出雲空港に迎えに行き、久方ぶりの再会を果たす。元々、痩せていたのにもっと痩

せたからEさんの最初の印象は弱々しく映ったのかもしれない。しかし、フォー

ゲルパークや近くの施設を案内する内に、意外と元気なので安堵していた。

帰る途中に寄ったスーパーでEさんが国際演劇祭で来ていた時、通訳のボランテ

ィアをしていた人パッタリ出会う。その人は余りにも突然の出来事で、今にも泣きそ

うな顔をしているではないか。それはそうだろう、シンガポールにいる人と松江市内

で偶然に出会うことなどあり得ないのに、ここでそれが起こっているのだから。

そして夜は、入院中にいつも眺めていた、中華料理店に出掛けた。賑やかな方が

いいだろうと、娘たちの家族も全員参加で食事会を開催する。

孫たちは英語が話せなくても何やら一緒に遊んだり、娘たちはたどたどしい英語

で会話を楽しんでいるのを横目に、私は医者に内緒でちょっぴり、ほんのちょっ

ぴりビールを飲んでみた。

苦い、焼酎のお湯割りもほんのちょっぴり、こちらの方が飲みやすい。米焼酎は

元々、味がないから飲み易いものの美味しいという感じはしない。

いずれにしても、昔の酒の味とは全然違ってしまい『術後に煙草、酒のことを考え

る』・・・はまた一歩遠くに行ったようだ。

目出度く2回目の抗がん剤治療を終え、家で療養を続けることになるが、病院は看

護師さんや色々な人のお世話になり、至れり尽くせり、おまけに室温はいつも温か

く快適だったのに、家では甘えてばかりはおられない環境だ。病院では自分の寝

床管理は自分ですることになっていたので、朝起きたら布団を片付け、寝る時に

は自分でセットする。

病院で調教された成果として退院後は自分のものは勿論、妻の分も布団の片付け

を自発的にするようになっていた。招かれざる客の訪問でその年の半分近くは、お

客の相手を余儀なくさせらたれたが、予想された難局には出会わず無事に新しい

年を迎えられた。ああ、何と有難いことか。代償として失ったものがあるにしても食

べる苦痛から解放されたことは、それだけでも大きな価値を持っている。

寒さは身体にメスを入れた者には堪えるものだから、温かいところに避寒は如何と

考える。近場で温かい所はやはり東南アジアの国になる。初めての国だからタイに

行って見るかと米子AP発のツアーを調べてみると、料金は手頃だし自分でアレンジ

できそうだからやる気満々で、旅行会社に申し込んでみる。

ところが、米子から韓国の仁川APまでのチケットは取れるが仁川AP~タイまでのチ

ケットが取れないと言う。韓国経済、中国経済が好調になり出かける人で一杯にな

り、キャンセル待ちも望みは薄い状況。

別のコースへの可能性やらやっている内に、タイ国内の政治情勢がおかしくなって

きた。赤シャツと黄シャツに分かれ首相退陣、続行でバンコックは大荒れになり、渡

航情報も段々と厳しくなり遂にはツアー会社も政情安定まで募集中止を打ち出した。


『回顧録、2回目の抗がん剤治療』

2013年02月05日 17時47分08秒 | 回顧録

退院して自宅で静養を1か月もしない11月25日、抗がん剤治療のため再入院、これ

で3度目になるから受付から何まで戸惑うことなく、サッサと古巣に戻ってきた感じだ。

前回と同じ治療だから恐らく副作用もなく、ただ頻尿との再戦になることは間違いは

なさそうだ。もし酷い副作用を経験していたとしても、術後の抗がん剤治療は頑張っ

て受けていたと思う。食道だけならしも、胃までも癌になっている所謂、多重がんだか

ら単発がんよりも危険分子がウヨウヨしていると考えられる。

副作用の酷さを知らないから、そんな軽口を叩くと思う人もいるだろうが、これは自分

のためだから多分・・・頑張って受けたと思う。

今回も暇つぶしグッズを準備してきた。全長70cmの戦艦ヤマトのプラモデル、それ用

の塗料一式、2000ピースのジグソーパズルを事前に購入していたから、入院と同時

に製作の開始。

ジグソーパズルは始めると大体同じ姿勢でやるから、腰が痛くなり30分毎に延べ延べ

をしてまた睨めっこを始める。図柄の色分けがはっきりしているものは組み易い。時間

はたっぷりあるからと難易度を上げた『淡墨桜』の2000ピースには手を焼かされ、挙句

の果てに半分もできずギブアップさせられ、今でも押し入れで出番を待っている。

兎に角、動けるから点滴一式を引き連れて院内を徘徊するか、部屋でせっせとこの作

業をするかの繰り返しで、5日ほどで終了する点滴が終われば、なお自由になり多動

度合は増加の一方。

【導眠剤】

自分では出来る限り身体を動かし疲れさせて、夜に快眠を願うのに、夕方ころ非常に

眠くなり睡魔と壮烈な闘いをしていた。もし少しでも寝ると夜中になっても目はギンギン

で寝るどころの話ではなくなってしまう。そんな苦労をしながら消灯9時を迎えるが、こ

んなに早く寝られるはずはない。消灯後の規制は緩やかだったから遅くまでTVを観た

り音楽を聞いたりして眠気を待つが音沙汰なし。看護師さんに相談したら、導眠剤を

手配してくれた。最初は1錠飲んでみたが一寸寝たと思ったら目が覚め、効きめは思

ったほどではない。2錠にして何とかなるものの2~3時間すると目が覚めて、それから

うつらうつらする程度で効果としては△印くらい。こんなものをやっていても、らちが空

かないし身体にいいはずはないと思い止めてしまった。

寝つきや睡眠の質は改善されなかったが、眠たくなれば寝ればいいと開き直り、それ

に慣れるようにしている。以前は酒を呑んで寝ていたのに、今は一滴も飲まなくても何

とか寝られるから、段々と慣れてきたのだと思う。寝つきはソコソコ、質もソコソコだから

文句は言うまい、昼間に寝不足で困ることもないのだから。


『回顧録、逆流』

2013年02月04日 17時50分11秒 | 回顧録

入院中も、家に帰ってからも昼寝の習慣はないから、朝起きたら寝るまで横になる

ことはなく、食後の逆流への気遣いは無用だった。病院ではベッドに傾斜をつけて

頭を高くできるが、家では枕の高さでしか調整できないから、タオルを何枚も敷い

て自分のいい高さに調整した。気を付けていた心算でも、この方法でも逆流を防ぐ

ことは出来ず、夜中にあの苦い液が酷い時は鼻まで戻ったことがある。喉、鼻、耳奥

にその液はへばり付き、水を飲んでもうがいをしても流し消すことはできず、ただた

だ痛みを我慢して和らぐのを待つだけしかない。私の場合は楽な方だが、これが気

管に入ったりしたら大変なことになるらしい。

逆流も長期的にみれば、自分の身体が自然に学んでいくようで、段々と減って来る

し喉にへばり付き長い時間、苦々しい思いをすることは殆どなくなる。逆流も個人差

が大きく、軽微な逆流が殆どの私のようなケース、夜中に逆流を起こし朝まで寝るこ

とが出来なくなることが度々ある人など様々。

胃の吻門部を摘出しているから食べた物が戻らないように口を絞る機能はなくなって

いる。食後、横になったりしなくても、例えば草取りのようなことをすると、食べた物が

そのまま戻ることはないが、感じとして戻りそうになる。だから指導を受けた通り、食後

に寝るなんてことは大罪を犯すようなもので、直ぐに罰を受ける。

3年経った今でも軽いものはあるが、それによって寝ることを妨げられたり、別の症状

を引き起こしたりすることはなく落ち着いていると思う。


『回顧録、退院』

2013年02月03日 18時28分47秒 | 回顧録

10月31日、26日間の手術入院を終え無事に退院することになった。病院では喉の

保湿のための吸入をしていたが、家にそのようなものはないので家電店に寄り、加

湿器を買いその補助とした。この頃から声が出にくくなり、最初はかすれ声程度だ

ったが徐々に酷くなっていき、最悪の時は絞り出さないと声にならないほどになっ

た。手術で声帯を司る神経に影響が出るもので食道手術の典型的な後遺症だが、

時が治癒してくれる代物らしく、先生も声が変でも様子を聞こうともしなかった。電

話で話をするのが一番辛く、妻には声が出ないからと断らせていた。

こうした後遺症の説明は詳しくされており、自分では理解しているつもりでも、ふと

『私の場合、こうした例と違うものではなかろか?』と心配が頭をもたげることもあっ

た。徐々に悪くなっていくのはよく分かっていたが、徐々に回復の方向に向う兆候

は何一つとしてなく、最悪の状態になってから、症状はフラットを保ったままだった。

1か月ほどしたある日、喉でえへん虫が『エヘン』と言わせたら急に、ややかすれ声

にまで戻り、それからは直ぐに回復してしまった。結局、何の治療もなし。

退院して久しぶりの我が家は格別だった。病院と大きな違いは洋式生活から一挙

に和式生活に戻ったことで、季節的には晩秋だから朝晩は少し冷える。手術を受

けた身体にはこの程度の寒さでも堪えるもので、温風ヒーターのお世話になり、火

の気のない炬燵に足を突っ込んでいた。あばら骨は相変わらず痛いままで、寒さ

は痛さを増大させ、特に朝の内は疼(うずく)ような痛みを伴った。この頃に、やっと開

胸手術のことが分かったのである。

妻に『この辺りが痛い』と見て貰ったら、『手術の痕のようなものが・・・』

先生は何度も説明されたであろう、同意書にも署名捺印されているのに、当の本

人たちは結果として全くではないが、理解していないとは・・・・

これから後に、開胸手術はあばら骨の間にジャッキのような物で云々・・・について

も知ることになり、やっと治療の全貌を理解。それにしても程の悪さは、どう言い訳を

してもし切れないほどだ。私は方法論や納得性を求めてはいなかったし、一刻も早

く癌を取り除いて貰えばそれで良かった。そうすれば食べることの苦しみから確実

に解放されると信じていた。温めるといいことは分かっていたので、朝風呂を沸かし

て貰っていたが、自分でも自由に動けるから町内の温泉施設に出かけるようにした。

ゆっくりと身体を温めると嘘のように痛みが引いていく。自宅の風呂と温泉の利用で

徐々に痛みがとれて和らいでいったが寒い間の痛みは引かず、春になり温かくなっ

て本格的な回復となった。


『回顧録、感謝』

2013年02月02日 18時53分46秒 | 回顧録

術後、これと言った不具合や心配事は皆無、しかも手術による外科的な痛みはあば

ら骨だけで、鳩尾から下腹部に向かう傷、あばら骨に沿った手術痕の痛みは一度も

感じたことがない。傷口はきれいにスーッと流れるようになっており、抜糸跡など何も

ないように見える。写真でよく紹介されている、ケロイド状の手術痕だと痛々しいが、

私のは見事の一言に尽きる。先生があれほど案じておられた煙草による肺機能の低

下が、手術に重篤な影響を与えるリスクも回避できた。また肝臓のγgtpの異常値は

手術のゴーサインを躊躇させるものでもあったことを考えると、先生はよく決心して手

術して下さったと今更ながら、言い尽くせる感謝の言葉は見当たらない。

肝臓の機能低下は万が一、大量輸血や他の合併症などに関連してくるから、単にア

ルコールによる云々だけでは済まないシビアな問題だった。そんな劣等生が無事に

大手術を受け何事も無かったかのように元気になった。勿論、患者と一族郎党にとっ

て喜ばしいに違いないが、執刀医の先生も安堵とともに喜んで下さったと思う。

手術後には各担当医が集まり手術後の患者に関するブリーフィングを開くそうだ。そこ

で私の経過報告をしたら、その回復の順調さに各先生方も驚いておられたと主治医

の先生から聞いた。『もし』、この言葉は沢山の意味と分岐を示唆する。もし、胃がんが

大きく予定よりも多く摘出しなければならなくなっていたら、血行の悪い大腸を切除して

食道と残胃を接続する。この際、食道、胃、大腸の一部とはいえ3つ臓器が機能低下に

なってしまう。また後遺症、QOLも今よりも難儀なことになっていたろう。

それに血行の悪いとされるものを代用にしたことで生じる症状、後遺症も併せ考えると、

尻の穴がしぼむくらいぞっとする。もしを悪い方に考えるのではなく、こうならなかったこ

とに感謝するプラスの方向に持っていかねばならない。

入院することにより私のために尽くして下さった方を思い出してみるものの、余りにも範囲

が広すぎて、言い尽くせるだろうか。受付、各検査科での先生、研修医、看護師、病理検

査員、食事、掃除、設備の運用員などなど、この他に私が知らない方も沢山おられるであ

ろう。患者から見れば病状と直接関わる医師や看護師に目が行きがちだが、直接的には

見えない裏方なくしては、私の病気と闘うことは出来ない、つまり病院が一つのチームとな

りそれを可能にする。このような入院をしたことがないから、知らなかったことを知り、普段

はあり得ないことを経験し、考えなかったことを考え、そして自分以外の方から沢山助けて

貰いながら生きてきたこと、生きていることを知らされる。

弱々しく訪れた初診の8月19日から始まった癌とのバトル、手術により最悪の症状はなく

なり、これから体力の回復を図り、癌と新たな闘いが始まる。こうした気分を持てるようにし

て下さった多くの方々に

『大変お世話になり、有難うございました』と感謝の言葉を贈ります。


『回顧録、管理栄養士のレクチャー』

2013年02月01日 18時24分51秒 | 回顧録

胃と食道の摘出手術による身体の変調と食事方法について管理栄養士からレクチ

ャーするので、妻と二人で受けるように言われた。ダンピングや逆流の症状や具体

的な食事内容を事細かく教えてもらえた。胆嚢、胃の機能はないに等しいから、淡

泊で消化のいいものを更に良く噛んで食べることだそうだ。歯抜けの早飯食い爺さ

んに、こんな説明しても無駄とは言わぬが、多分、味の濃いものを食べると言い出す

に違いないから、やはり無駄な事か。胃の噴門部は食べたものが逆流しないように口

を塞ぎ、幽門部は食べた物が消化されるまで腸に行かないよう閉じる役目をしている。

噴門部を取ると口が無くなるから食べた後すぐ横になったりすると逆流してゲロのよう

になる。だから夜、寝る時には頭を高くしないと逆流が起きる。この場合、胃酸も一緒

に上がって来ると喉にへばり付きそれは苦しい思いをする。一度へばり付いた胃酸は

最低15分くらいしないと痛みから解放されない。

胃酸を取るためにと水を飲んでも全く効果はない。人間の胃袋はとてつもなく恐ろしい

ものだと思う。白魚の踊り食いは生きたままのものを酢醤油に一寸つけて食べる。あん

なか細い魚だから食道の辺りで意識が遠のき胃袋に到達した頃には意識はなくなっ

ているだろが、強烈な胃酸で意識が戻った途端、酸にやられる、こんな風だろう。白魚

ならまだ可愛いものだ。サラリーマン時代、先輩から教えられちょこちょこ出かけていた

店は、通好みの食材で趣向を凝らした料理が得意だった。ここでは泥鰌の踊り食いが

出る。それは白魚の何倍もある大物も交じっており、本当にこれを生きたまま食べる

の?と聞きたくなる。『頭を少し噛んでからつるっと食べる』

本当は頭を噛んで弱らせなくても、胃袋に到達した時には動かなくなっているから大丈

夫だ。つまり、生きたまま胃の中で暴れるなんてことは不可能なほど人の胃は恐ろしい

のだ。そんな胃酸に対して喉や口の中は防備する術を持たないから、自分の体のも

ので自分の身体を痛めるという不思議な現象が起こるものだ。

入院中には逆流もダンピングの兆候もなく折角、説明を受けても実感がないから、他人

事のように聞こえており、自分にも起こりうるのか疑問視していた。さりとて、いい加減に

聞いていたのではなかったから、後日その説明の有難さに気づかされた。


『回顧録、面会拒否』

2013年01月31日 18時01分30秒 | 回顧録

誰にも知らせないこと、見舞客は全て断ることをコンセプトに気儘入院ライフを貫くつ

もりで、大方のところ成功しかけていたが、娘の嫁ぎ先だけは断り切れずお見舞い

を受けることになった。個室だから他の部屋のお見舞客がどのようなものだったのか

知らないが、休日には食堂に沢山の見舞客らしき人と患者さんが一緒に話したりお

茶を飲んだりしていたから、一般的には見舞客を断ることは余りなく少数派だろう。

間の悪いことに高校時代から仲の良かった友人が八王子から帰省して家に電話をし

てきたので入院していることを知らせたと言う。『元気だから見舞いに来なくてもいい。

退院して健康になったら会おう』と言って聞かないから見舞いには来ないで欲しいと

友人に伝え、見舞いを断念させた。

退院後にはがきを出し近況報告と見舞いを断った欠礼について謝っておいた。

自分ではそれほど強い気持ちで、気儘な入院ライフを貫くつもりでいた。親兄弟でさ

え手術のことも黙っていようと思っていたから、見舞に来て貰うなど考えられないこと

だ。だから、結果として来られた見舞客は1組という成績に終わった。

病気が癌だからと人に隠す必要はないし、他の病気だったとしても同じ行動をとって

いたと明言できる。

見舞客が来ないから全ての時間は自由気ままに使えるし、変に気を使うこともないか

ら療養の観点からみれば最高の環境と言えるのではなかろうか。


『回顧録、術後の説明』

2013年01月30日 17時56分09秒 | 回顧録

先生とは毎日、回診で顔を合わせているが術後の説明と今後について話があるか

ら、妻と二人で聞くように指示された。妻は術後すぐに手術内容の説明を受けてい

るが私は今回が初めてだった。PCの画面に映し出された摘出の食道と胃の写真を

見せられたたが、頭の中に残っている食道の『これぞ正しく癌』のようなものではなく、

安物のホルモンのようで、説明を受けたものの素人受けしないものだった。

病理検査の結果、食道と胃の癌は別物でリンパ節への転移はなかったが念のため

に32個のリンパ節郭清と胆嚢の摘出を行った。CT検査での結果から縫合した部分

に異常なしで順調に回復ししているとのこと。退院後、体力回復した後、念には念を

いれるため抗がん剤治療を行うことが望ましいが、私自身どういう考えかを問われた

ので迷うことなく『受けます』の一言。

リンパ節の郭清や疾患部の摘出はするものの、未確認のものや見落としもありうるか

ら、そうしたことを払しょくする為にも術後の抗がん剤治療は安心を増すと、そんな言

い方だった。先生としてもそうしたリスクが少しでも低くなるなら、受けて欲しいのだと

思われるが、それよりも副作用もゼロの私だから、断る理由はこれぽっちもない。

に、多少の副作用が出ていたとしても癌の再発リスクを低下させる可能性がある限り、

そちらに掛けるべきで、副作用と闘うことを選んだと思う。

退院後、1か月もすればその治療をと言われた時、以前我が家にホームステーしたこ

のあるEさんが12月の半ば前に来日するので、足を延ばして我が家まで来ると

うことを思い出した。その日は決まっていたから、先生にそれまでに治療を終えられ

るようにお願いしたところ、逆算して1か月経たない11/25から始める予定にして貰えた。

病院から直接、メールを送ることが出来ないので文章を渡して娘の家から送って貰っ

いた。こうした時、携帯電話は威力を発揮することは承知しているが、大の携帯嫌い

しかもそれでメールのやり取りなんて真っ平ごめんだから、文明の利器の恩恵に与か

ことはできない。そうとは言え、一人で山仕事をしていると危険がいっぱい、ケースバ

ケースで直ぐに連絡をとれるようにと通話のみ契約で携帯を持っている。普段は用無

だから、何処に行ったものか行方不明病にとりつかれ肝心な時は捜索してからでな

と使えない代物。


『回顧録、あれも食べたい、これも食べたい』

2013年01月29日 17時53分45秒 | 回顧録

食事の時、看護師さんがポットにお茶を入れて病室まで届けてくれていた。しかし、

それ位のパワーは十分にあるので、食事前は食堂までお茶汲みに出かけるのが習

慣になった。先生からは刺激の強いもの以外は食べても構わないと許可が出たから、

1Fのコンビニに出かけ物色するのが楽しくなっていった。

しかしコンビニにあるもので、病院食のサイドメニューになるようなものは海苔の佃煮

や、簡単な惣菜のようなものに限られた。私は惣菜を買って食べることをしないので、

実際に買うものといったら菓子パンのようなものばかりだった。

他の病室の人を観察してみると、中にはカップ麺を買い食堂の湯を使っている人もあ

り、私も一度でもいいからカップ麺を食べてみたかった。先生に許可を貰う程のことで

はないのか、とんでもないことなのか判断つかず結局あきらめ、そして羨ましく眺めて

いた。病院食は全体的に薄味で元々、塩辛いものが好きだからとても物足りない感じ

がしていた。しかし、病院食の定番かぼちゃは家ではあまり食べないのに、ここでは残

すこともなく食べ、全体的に完食で生臭い魚の時に残すことがある程度だった。

自由に動けるようになったから1Fから8Fまで階段を歩いてうろついた。8階にはレストラ

ンがあり、奥の方に図書室のようなものが開設されていた。レストランのメニューを見な

がら早くこんなのを食べてみたいと随分羨ましがっていた。

治療は毎日の喉への吸入を午前と午後に10分くらい行うこと、4~5日に1回、早朝に採

血、朝一で主治医の先生の回診だけで薬の服用もないから、本当に静養している感じ

だ。傷口はガーゼ交換が主で膿が出るとか縫合の問題などは皆無だったから思ったよ

り早く抜糸があった。この時、あばらの傷も抜糸しているから開胸手術の意味が分かりそ

うなのに、ここでもあばら骨が痛い理由について分かっていない。

外科の抜糸は背中に粉瘤が出来、摘出して貰って以来だがチカッとするだけで何でも

ない。抜糸の終了は風呂の解禁に一歩前進することになるが、管どもが居なくならない

と叶わない。

入院以来、風呂とは縁がなかったから一日でも早く湯船につかりのんびりしたかった。こ

このシステムは風呂の入口にある時間表に自分の入浴時間を記入する。空いていれば

一日に何回入浴しても構わないから、朝夕の2回を予約していた。一度に2~3人は入れ

る風呂場なのに、予約は1人単位だから、駄々広い感じがする。

湯船のお湯は一人様限りで風呂から出る時は湯船を掃除して、次の人が気持ちよく入れ

るようにしていた。最初に入った時は垢が溜まっていたろうから、ボディーソープをつけて

3度も身体を洗い流した。


『回顧録、術後初めての水』

2013年01月28日 18時15分52秒 | 回顧録

こんなに簡単に煙草を欲しがらなくなったことが不思議で仕方がない。『吸う、吸わ

ない』は意識の問題だか、今までは意識と関係なく煙草のタイムキーパーが存在し

ており、30分くらいの間隔で『煙草を吸え』の指令を受けてきた。身体も欲しがって

いたのだろうから忠実に従っていた。8/26からの禁煙で、こんなに簡単に欲しがら

なくなり、あれほどニコチネルパッチを貼り続けた努力にどんな意味があったのか、

結果として大きな成果はなかったことを考え合わせると、当事者の私としましては語

るに語れないのでございます。

管も減り、水が解禁された。看護師さんたちの細かい指導がある訳でもなく『喉が乾

いたら、ゆっくりと飲んで下さい』術後1週間以上は経っていたから、嬉しくてコンビニ

の普通のお茶を買ってきて貰った。コップに入れて少しだけ飲もうと口に含むと、す

ごく濃い味でそれが苦味のように感じ咽て、とても呑み込めるようなものではなかった。

お茶が合わないのではないかと、癖のない番茶ならいいだろうと番茶を口にしてみる

も、味が濃すぎて飲めるようなものではないから、薄めて々、やっと飲める味になった。

水は抵抗なく飲めるしお茶は薄くすれば飲める。喉から食道、胃へと上手く下がって

いるようだった。お茶の味は徐々に慣れていき翌々日くらいには元のように復活を果

たした。飲めるようになると、食べることが次の目標になってくるが、縫合部位の確認

で異常なしにならないとOKは出ない。中心カテーテルと経口食との関係について、

どうだったかの記憶は定かではない。

最初の経口食は重湯、糊を舐めているようで食べる感覚には程遠く物足りないどころ

か、こんなものだったら要らないし欲しくないから先生に、もう少し何とかならないかと

懇願してみた。すると『調子がいいようでしたら、三分粥にしてみましょう』とあっさりグ

レードアップを認めてくれた。

三分粥は重湯に毛が生えたようなものだから、喉の通りは良くてもそれは術前と同じだ

から、もっと硬いものを食べて、治療効果を知りたかった。何も異常はないから日毎に

粥のグレードが上がり、柔らかいながら固形物も副食に付き、頂点の軟食に辿り着い

てしまった。術前に、これと同じような軟食を食べていたのに注意深くしても、食道狭窄

の進行で詰まったりし、ゲロすることで嫌悪感からの解放を得ていたが、憎々しい癌を

退治して貰ったから、今はもうその心配は必要ない。

物を食べて詰まらない、たったこれだけのことを取り戻すために、大変な試練を乗り越

えなければならなかったが、自覚症状から数えると僅か3か月ほどの期間内に凝縮され

ている。本当に、凝縮だと思う。


『回顧録、煙草との決別』

2013年01月27日 17時29分35秒 | 回顧録

うっとおしい管は最初に鼻の酸素が取られ、尿管などと日に日に管が減る度に、快

適さを取り戻していった。こうなるとお茶でもいいから自分の口から飲みたいし、何か

食べ物を食べてみたいとの思いが強くなっていった。特に、コーラをグビグビと言わ

せながら飲み干すなんてことが出来たら最高だろうなと強く思いをはせた。

この頃には煙草や酒の呪縛は解かれていたらしく、『退院したら、まず一服してから、

禁煙か減煙について検討しよう』は検討材料から外れて、議題にも並ばなくなってい

た。ならばグビグビと飲むものはコーラではなくビールであるはずなのに、何故かそ

れもそうではない。

『おい、どうしたんだ。煙草も酒も止めてしまう気か。それでいいのか?』

こんな悪魔の囁きさえ聞こえなくなっていた。

禁煙の最初は『アーあ、今日でXX日目か』なんて指折り数えていたのに、徐々に

『もう、XX日も経ったのか、折角ここまできたのだから・・・吸い始めるのはもったいな

いな』に変わり、遂には先述の様に変わり果てている。過去、減煙に何度か取り組み

一度もまともな成績を上げたことはない。禁煙などという崇高な目標を立てようなんて、

おこがましくて出来るはずなどなかった。

今回の騒動の前にニコチネルパッチを貼り、あわよくば禁煙に持ち込めればなんて

思い、ある程度の成果をあげたものの禁煙には程遠かった。私なりに煙草を減らす

努力をしたはずなのに、病院で何もしていないのに禁煙を可能にしてしまった。禁煙

に成功or不成功よりも『煙草を吸いたい』という欲望が全くなくなったのだ。

入院当初に思っていた『退院したら一服して・・・・』を仮に実行していたら、きっと咽て

ゴホゴホとなり、『こんなんじゃ、煙草なんか吸えないな』となっていたかもしれない。


『回顧録、手術Ⅳ』

2013年01月26日 18時06分26秒 | 回顧録

体重測定を終えナースステーション隣にある部屋に連れていかれると、個室ではな

く相部屋で先客がおられる。手術を終えてここの病棟に戻って直ぐの人が、ここで一

晩なり落ち着くまで看護師さんの目の届く部屋で過ごす。

だから患者さんは寝たままの人が殆どだから、普通の患者のように自己紹介をする機

会はない。また本人たちも身体にメスを入れた直後でもあり、自分のことで精一杯だか

ら、自分にとって快適か否か以外の他人のことなど全く関心を持てない。

相部屋で多少なりとも気を使う、自分も管攻めに慣れない、ICUと違って意識ははっき

りとしているから入院以来、最悪のコンディションだった。幸いにも一晩泊まりで元の部

屋に戻ることができ、やっと自宅に戻ってきたような、おかしげな安堵感を覚える。管攻

めの状態は変わりなく、寝返りも満足にうてない。いつもは横寝かややうつ伏せ気味が

お気に入りのスタイルなのに、仰向けばかりでも不自由はなかったようだ。しかもベッド

は少し頭の方を高くしていないと、食道や胃を摘出しているので残胃の中にあるものが

逆流する可能性もある。今も思うけど多動症の爺さんがよくあの格好で我慢していたも

のだと。私の本当の姿は、芯が強く何事にも屈することのない我慢強い人間ではない

かと思わせるほど。術後からは絶食の代わりに、中心カテーテルとやらで栄養分の補給

をされており、食事の心配は要らない。

しかも空腹感を覚えないから食欲は湧かない。食べたくて我慢するのは辛いから、こちら

の方がまだ、ましかも。ここまで耐えてきた目的は癌の摘出により、食べ物が詰まる症状と

の決別だ。それが手術により回復したのかどうかは実際に食べてみなければ分からない

ことだから、早く口から食べる日が待ち遠しい。

また、手術の後は熱が出るから湯たんぽ等で体温を上げることがよくある。私はICUでの滞

在が長かったから、もしそうしたことが必要なら無意識の中で処置されていたと思われる。

他人の話だと麻酔が覚めたら電気あんかを入れて貰ったとか、熱が出たのをよく覚えてい

ると聞く。この辺りの経過は他の患者さんと様子が異なっている。

 最初の儀式は『オナラ』を出すこと、つまり腸が以前のように整列したことの確認だ。看護師

さんとの会話のキーワードは『オナラは出ましたか?』、腹がゴロゴロと鳴ったり、張ったりの

候はなく、私は勿論の事、皆がその臭い朗報を待ち望んでいた。今となっては何時だっ

たかはっきりしないが弱々しいものが通過して行った。幸いなことに熱、血圧などにも異常

は認められていなかったから、『オナラ』のお知らせは全て順調にお墨付きを与えるものに

なった。


『回顧録、手術Ⅲ』

2013年01月25日 18時05分54秒 | 回顧録

感覚的には昨日の朝、手術室に入り手術をしてその翌日のように思っていたのに、

妻の話だと4日目に麻酔が解かれ、やっとお目覚めになったと言う。

手術は9時過ぎから始まり夕方の5時頃までかかったそうだ。術後、摘出した食道と

胃は標本のようにピンで開きにされ、先生はそれを見ながら説明された。食道と胃

はつながっており全長、約20㎝くらいの大きさの哀れなホルモン状態。

癌の部分の説明をされたものの素人目にはよく分からなかったらしい。妻たちも

『This is Cancer』と言えるもだと期待していたのに何の変哲もないホルモンを見せ

られ拍子抜けだったとか。

後日、私も写真を見せて貰ったが脳裏に残っている胃カメラで見たものとは似ても

似つかぬものに見えた。立体のものと平面べったんこの写真との違いもあろう。二つ

の癌はすぐご近所なのに氏も素性も違うことは後の病理検査で確定した。

ICUの中でのことは、それぞれの部屋に居た記憶はあるが、時系列的なものはなく

アバウトできちんとした説明はできない。痛み止めの麻酔をかけられていたのか否

かも定かではないが、手術の痛みの覚えは全くない。記憶が明確になってからも傷

の痛みは感じなかったから、麻酔で静かにさせなければならない状態ではなかった

と思われる。

ICU個室から一般病棟に戻る時、車椅子に乗せられナースステーション横へ、そこ

で体重測定をした。車椅子に乗り込むのも自分でできたし、体重測定で体重計に

乗っても平気だった。

食道と胃の1/3だから100g位を摘出されただけなのに体重は、極超スリムの38Kg

と小学生並になっていた。身は軽やかでもフラフラすることもないし、管さえなけれ

ば散歩でも行ける感じだ。

私の性分からすると、たくさんの管で繋がれ不自由な身体なれど、痛くはないし管

を動けるように纏めてくれたら,チョロチョロくらい出来そう。ベッドでじっとしているな

んぞは苦痛では済まないはずなのに、とんでもない目に遭ったという記憶もゼロだ

った。

この管どもは酸素吸入、中心カテーテル、腹の中に溜まる血液や汁を吸いだすも

の、尿管、などが腕、腹などからニョロニョロと出ており、動く時も管が交差して絡ま

ったりしないよう、一定のルールに従わないとナースコールのお世話になる。

この頃の仕事は、動けないから音楽を聞き、テレビを観て、点滴の終了のナースコ

ールくらいしかないし、昼寝をすることはないから暇をもて遊んでいたと思うが、そん

な苦痛を味わった記憶はない。


リンク