食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『やまとミュージアム』

2013年11月21日 17時16分45秒 | 回顧録

昨日、所属する炭焼きクラブの年に1度のレクリエーションがあり、呉市のやまとミュージ

アムに出かけた。集合が7時50分ということだから、私にとってはいつもよりずっと早起き

の6時半に布団から抜け出す。折角のレクなのに生憎の雨模様だが目的地の天気予報

は曇り後晴れとなっているから

、現地での行動に不自由することはなさそうだった。小雨の降りしきる中、総勢26名人で

バスに乗り込み、夏前だったか開通した松江自動車道路を走って三次東経由で呉市を

目指す。この道路、途中までは走ったことはある三次までの全線を通しては初めてのこと。

少々前のこと、妻とこの道の開通で広島空港に車で行くのに随分と楽になりそうだから、

どんなものか走ってみるかと話していた。そして今回は三次までの検証が出来るので、そ

の状況確認も兼ねていた。以前のように大回りしないで自動車道で三次に約1時間で行

けるから、これだと岡山空港に行くのとあまり変わりなくなり、私たちにとっては大幅な改善

になる。海外旅行に行くことが簡単になったが、今度は出発地の選択が広がり更に便利

になり益々、楽しみになって来た。頓原から長いトンネルに入りトンネル内で県境を渡り、

広島県側に出ると真っ白な雪景色に一同、ビックリ仰天。島根県側でその兆候があり広

島もその延長なら話は分かるが、その逆だから驚きは倍増する。

空は山陰の冬に見られるどんよりとした厚い雲、水分を含んだ重い雪がボタボタと降って

いる。暫くの間、雪景色を見ながら中国山脈を下ると、やっと山陽側の天気に戻り日差し

も差してきた。

呉には昼食を摂るタイミングで走行することになっていたらしいが、雪はあったものの余り

にも順調で、安佐PAで臨時の休憩をとり時間調整をする。食後向かったやまとミュージア

ムは日本人なら誰でも知っている、第2次世界大戦に造られた世界最大級の戦艦。機能

や規模は他国の軍艦を大きく凌ぐものを持ちながら、これを活用する戦術を展開できず、

最後は哀れな結末を迎えることになった。

戦艦大和のうんちくは別として、当時の資料や残されたものを組み合わせ戦艦の能力を

説明している。どこの国でもそうだが、軍事に関する技術開発は後々の民需品に応用さ

れることが多く、ある意味ではそうしたものの先駆けになっている。やまとの技術は現代に

引き継がれ実用に寄与しているものもたくさんあるが、同様のものを製作しようとするとコス

トがかかり過ぎて叶わない物もあるそうだ。過去のこと、現在との比較で物を考えないと、戦

艦大和は素晴らしかった。日本の技術で新しい戦艦大和を作ろう・・・・と宣伝することも可

能、一方ではこんな悲惨な経験はすべきではないとの反面教師の役割を持っているのか

しれない。

 

 

 


『釘抜き、延期』

2013年10月11日 17時35分53秒 | 回顧録

炭小屋のティータイムは晴天なら屋外で、天気が悪いと窯の前にある狭い作業スペ

ースを会場にする。今まで、こうしてきたから不便はないが、ゆっくりとお茶を飲める休

憩室のようなものを建てたらどうかという意見があり、ならばと廃材を調達する人あり、

話がトントン拍子に決まりかけてきた。

今の窯の場所は拡張できないから近くにある会員の土地を提供なんてことにまでなり、

それではと下準備をすることになった。廃材に残っている釘抜きだ。

今朝から始めるはずだったのに、計ったように雨が降り出し、あっけなく明日に延期と

なった。昼前からはお日様が照り出し午後は快晴となり絶好の作業日和に変わってし

まった。私は釘抜きモードにSWオンになっていたから、炭小屋に出かけ少しだけど釘

抜きをしてきた。廃材は大量にあり明日は大仕事になりそう。そして仕事の後はお決

まりの慰労会、休憩室を建てるなら、この際に老朽化の激しい炭窯も一気に作り直そ

との意見もあり、釘抜きから一大事業の話に変わるかもしれない。


『雑想考、旅の思い出』

2013年09月10日 18時13分59秒 | 回顧録

そもそもの話、私は旅行が余り好きではなかった。電車に揺られて目的地まで何もす

ることはないから、しょうもない週刊誌でも買い込み、生温くなりかけたビールを飲み

ながら・・・目的地は何処かの温泉宿?、シーズンになると人は混むから風流とは程遠

くなる、料理は大体お決まりのパターン・・・・・時間をかけて行くものではなさそうだっ

た。50歳で退職し元気は残っているし時間もたっぷりあるから、旅に出ようと思い計画

をすれば、何処にでも行くことは可能になっても検討項目にさえあがらない。米子~

ソウルに就航した国際定期便の利用促進キャンペーンを知り、折角就航したものだか

ら絶やさないように少しでも協力しようと、アシアナファンクラブに入会したが、きっかけ

となり海外・国内で旅を楽しもうと言う心境の変化が出てきた。

旅に出かけると思い出作りはまず写真、ビデオとなる。こうしたものを上手く編集して残

している方が羨ましいのだが、私は撮ったはずのものがPCの中で難民になったり、整

理されず消されてしまったりで多くは残っていない。ビデオに至っては機械が変わる度

に放置され続け、気づいてコピーし直そうとしても再生不可の憂き目にあい、これも多

くがパー。結局、以前の旅の思い出を探し出すには本格的な家探しでもしなければ出

てこないだろうし、本当に残っているのかさえ危うい。物を書くのは浅才故、達者ではな

いが書くことは余り苦にならないのに、旅の事を纏めたことはない。

折角、あちこちと出歩いて来て日本にはない日常を経験したのだから、残されている資

料や記憶を頼りに思い出集でも書いてみようと思っている。


『祝ブログ訪問者累計50,000人』

2013年09月10日 17時19分59秒 | 回顧録

  『祝 ブログ訪問者累計50,000人』 

ブログの予習もなくいきなり始めて21か月経過、このブログにアクセスして頂いた訪問

者の累計が50,000人に到達した。この訪問者というのは日毎で計算したものを足し込

んだもので、同一人物(IP)が1日に何回アクセスしても1訪問者として計算される。

これに対し閲覧数(PV)は同一の人が何回もアクセスしても無条件にカウントアップされ

るから、閲覧数を上げるため私が何回もアクセスすれば増やすことも可能。今までの数

字から1訪問者/日が2回/日のアクセスという結果になっている。ブログアップ後、チェッ

クのために必ずアクセスするから50,000訪問者といっても私自身のカウントを含むから

厳密には50,000とすべきではないかもしれないが、区切りのいい数字になったとして素

直に喜びたい。

またトータルアクセス数も来月には区切りとなる100,000件に到達する見込みだ。この件

数は何でもカウントされるから参考値として受け止めているが、それにしてもどうなるのか

分からないで始めたブログにしては分不相応の件数で、こちらも嬉しいことに違いない。

ただ、こうした数字を上げることを目的にする考えはこれっぽっちもないし、アクセスの増

減があっても気にはならない。しかしアクセス数の低下はブログの中身と読み手の興味

が一致しないことを示すバロメーターとして受け止めている。私のブログは癌治療を終え、

殊勝にも同じような事で悩んでいる人のお役に立てばと始めた。5年生存率40%と説明を

受けているので取り敢えず5年クリアに向けて、過去の経験、経過を載せるようにしている。

直接的な治療を終え経過観察の様子、通院の様子を載せるから、病状に変化がなけれ

ばブログの載せるものは日常の出来事しかなくなる。それは身体が安定していることの証

になり私には喜ばしいこと。私も読んで面白くないブログは読まないから、五感をフルに

働かせできる限り興味をそそる趣向を凝らしたものにすべく努力していきたい。ともあれ、

拙いブログに愛想を尽かさずアクセスして頂いていることに深く感謝、感謝。


『蕎麦栽培日記』

2013年09月09日 18時04分36秒 | 回顧録

最初の蕎麦の実は2Kgも蒔いたのに2羽のキジバトの食堂になってしまい、鳩の食

べ残しは頑張って成長しつつあり早いものは白い花をつけ始めた。

リベンジ蕎麦は(1Kg)恵みの雨を受けて次々と発芽し、小さな苗になりかけているか

ら、ここでお日様が出てくれると、ぐんと成長してくれるのだが如何なることか。種は

ばら撒きだから先日の大雨で流され低い所に集まって、そこにはひしめき合って芽

が出ている反面、高い所は疎らになっている。発芽を終えもう鳩の攻撃はないだろう

から防鳥網を取り除かないと、網目から葉や茎が出て網が取れなくなるので、今日そ

の作業を済ませた。今の状態で大きくなれば畑一面の白い花を見ることができそうだ。


『夢追人、愛犬パピーのデビュー』

2013年07月07日 16時40分01秒 | 回顧録

 現地に到着したら、我先とばかりに犬が駆けだしあっと言う間に姿が消えた。呼んで

直ぐに帰ってくる場合は犬が未だ何の臭いも拾っていない時で、もし自分が兎の臭

いを見つけでもしたら呼んだところで帰ってはこない。めぼしをつけていた廃田の畦

で待つことにした。Yさんは下で待っている。パピーのワンともキャンともっかない鳴き

声が谷間に響き渡った。その声はどうやらこちらの方に向かっている。

段々と声が大きくなりやがて、パピーの声の間に落葉を軽く踏む音が聞こえる。出る

ぞ、多分、10メータ先の斜面からこの廃田を通過するだろうと予測した。

サッサッという音が最大になった時、姿を見せたのは兎ではなく茶褐色した山鳥で大

きな羽音と共に飛び立った。とっさのことで、一瞬途惑ったが銃口を山鳥に向け引金

を引いた。谷中の音が全て消された。

自分ではどんな風に狙いをつけたのか思い出せない。短い時間の出来事だった。

廃田の石垣のところに山鳥の長い尾が見える。5分程するとパピーは山鳥が立ったと

ころに着いた。そこで臭いが無くなっているので迷うはずだ。案の定、声がなくなりバ

タバタし始めた。呼んでも、知らん顔して臭いを探そうと必死になっている。鳥を見せ

るように何度か呼ぶと、それが判ったのかこちらに小走りでやってきた。『これは、お前

の初物だ』と犬に嚙ましてやる。犬には獲物が捕れたら今まで追ってきたものを噛ま

てやり喜び分かち合う。

山鳥は身に危険が及ぶとまず走って逃げ、尾根か開けた場所から飛び立ち、走る速

度は速く犬が追いかけても追いつけない。特にビーグルのように臭いを取りながら走

る犬には無理だ。

本日の獲物は真鴨と山鳥でこれを肴に一杯参ろうぞ。鴨の調理は羽拫をとるのが面

倒だ。上部の羽根は楽に抜けるが高級な羽毛布団やダウンジャケッ卜に使用される

ダウンは密集しておりいくら取ってもきりがない。手羽の部分も短い羽は根の部分が深

く指先が痛くなってくる。いい加減なところで、うぶ毛は焼き、腹を開けて内臓を取り出

す。手足を外し、胸の部分の肉を骨に沿って切る。

胸肉がおいしく、また量もここが一番多い。毛細血管が多いのか、赤みがかった色で、

レバーのような味がする。胸の肉は皮の下にある脂をつけたままで1センチ弱の厚さで

肉の繊維質と直角に切る。手足の部分も肉の外せるものは外し、骨の部分も肉と一緒

にしておく。昔から鴨にネギは付きものとされる。まさに、その通りである。ネギを5セン

チ程度の長さに切り肉と一緒にして深めの皿にいれ、ヒタヒタになる位、醤油をかける。

鉄板を、熱したら肉とネギを交互に並べて焼く、肉に火が通ったら、ひっくり返し焼き

過ぎない内に食べる。肉に醤油味がつきネギとミックスした美味な料理の出来上がり。

子供も喜んで食べる。お狩場焼きと名付けられており猟師ならではの贅沢な料理だ。

鴨には陸鴨と海鴨の二種類あり前者は餌を穀物にしており、稲の二番穂に着くシイ

ラ米みたいなものや草の実を食べ、潜りは頭だけを水に入れ逆立ちの格好しかでき

ない、真鴨、カル鴨、尾長鴨等。後者は海や湖に潜り小魚や貝を捕って食べる、キン

ク口ハジ口、アカガシラ等。

食べ物の差は肉質の差になるのか、陸鴨はおいしいが海鴨は、はっきり言ってまずい。


『夢追人、射撃教習と試験Ⅱ』

2013年07月04日 17時58分22秒 | 回顧録

例え、猟期であっても今の私の銃所持の目的は『射撃』だけの為、狩猟免許を取り

猟期が来ないと狩猟は出来ない。仮に狩猟免許が何年も取れないとなると所持目

的の『射撃』の実績がないと、目的とは違う理由で銃を所持していることになり、場

合によっては所持許可の取り消しになってしまう。つまり、射場に行って射撃をした

り、射撃大会に出場するなど実際に射撃をしたなど証明する必要がある。それでは

数年に一度の射撃の場合、銃所持目的の『射撃』に該当するのか、1年に1回ならど

うかなど具体的なことがどのようになっているのか、よく分からない。

狩猟の為に射撃の練習をしておかなければならないので、撃場に通った。海潮温泉

(うしお)のある大東町に山王寺(さんのじ)という射場があり、Tさん、Yさんとでかけた。

Tさんは射撃が上手く 25発中、大体20枚以上は当てていた、Yさんは波があり20いく

こともあれば14~5ということもあった。私は、多くて17枚くらいで、やはり14~5のあた

りをウロウロしていた。射撃に使用する銃は狩猟用とは異なる。トラップかスキートによ

っても異なり値段はピンからキリまである。私はスキート用に近い狩猟用の銃で彼らは

射撃用のトラップ銃を持っていた。

散弾は号数によって一粒の大きさが異なり号数が大きくなるに従って粒が小さくなるの

で弹数は多くなる。普通、兎猟で使用する五号は三百〜四百粒はある。雪の降った日、

新聞紙数枚を山肌に貼り30~40mくらい離れて鉄砲を撃ってみた。新聞紙には散弾

が50cm位の広さに散らばって当たっていた。真ん丸ではなくいびつな楕円のような形、

。だから実際に、射場で撃っても当たらないことは、ここでの実験結果が示していた。

標的を狙い照準が標的を越したら発射するのが理屈である。実際はこれに弹の飛ぶ

速度、標的の飛ぶ速度があり交叉しなければ当たらないことになる。しかし、照準が皿

を追い越したなどと認識出来はしないから、ここの鍛錬の円熟度が射撃の腕前の差と

なっているのだ。

トラップで大本、3ラウンドから4ラウンドやって1万円ちょっとかかるので随分高い遊びに

つく。ゴルフに出かけプレーして帰って来るのと大体同じくらいの費用だから、家庭の経

済状況を考えると月1回か多くて2回しか行くことはできなかったが、射撃の時はスカッと

した。


『震災鎮魂の旅、原発立県』

2013年06月17日 18時35分21秒 | 回顧録

6/9松江を出発し福井市で宿泊する行程が第一日目。松江市から鳥取県中部ま

では自動車道があるのでいつもスイスイと動けるが、鳥取市手前から少々込み合

い下手をするとこの付近で時間をロスすることが多い。鳥取市を抜けてしまうと福

知山まで国道9号線というスーパーローカルな道を、途中にある道の駅で道草を

食いながらマイペースで行くことが出来る。

福知山から終点の小浜までの自動車道に乗り、小浜から再び地道を走るが、途

中々で原発関係の案内看板が目に付く。同じ日本海側に住みながら大凡の位置

関係しか知らなかったが、こうして旅をすると昔からよく知っていたような気になる。

松江市にも原発は2基、新設未稼働1基の計3基もあり、私自身は嘆いているのだ

が、福井県には何基あるのだろうかと疑問になり、帰ってから調べてみたら13基も

あった。自動車道を縦断したり、永平寺の方をウロウロしただけだから、恐竜の化

石が有名な案内以外は全くと言っていいほど知らない。政治の力関係なのか、過

疎や財政難で受け入れたのか事情は全く知らないが、こんなに原発があり、不安

ではないのかと関係ない私が思う。

地元に雇用を生む、周辺部に新たな経済効果を生む、人の流入も増える、自治体

は何よりも『お金』が入って来るから原発様々だろうか。立地を推進した政治家はそ

うした人たちから『ジャンヌダルク』のようにもて囃されたのだろうか。国も関電も『中

身のない空虚な万全の安全対策』を強調し福井県を承知させたのか、望んで招致

したのか。福島で起こるはずのないシビア事故が発生した。今も、これからも、数10

年か小100年か誰にも分からないほど福島県の大熊町、浪江町、双葉町などは苦

み続けなければならない。

だから福島県は被害のなかった福島第2原発さえも廃炉を要求している。何故あの

ような事故になったのか、たったこれだけの疑問の答えさえ誰にも正確に答えるこ

は出来ないのに、再稼働の要望がある。

つまり、福島は福島のこととして『何か新しそうな対策をしておけば新しい安全が確

保できる』これを新安全基準と名付けて『新安全な原発』を稼働させると言うことに

他ならない。

福井県はこんなに電気は要らないはずなのに・・・・

福井県の政治家か自治体の人が言った。『電気の消費地の人は原発立地県にもっ

と敬意を示すべきだ。そうしたことを私たちが理解できれば再稼働もやぶさかではな

い』私に言わせれば屁理屈だ。民はそんなくだらない敬意よりも安全な暮らしが大切

だし、電気消費地の人がそんな敬意なんか持つはずはない。

私の棲家も原発から20Kmくらいしか離れていない所にあるから、もしシビア事故があ

ればスタコラサッサと原発のない所に逃げて行き、2度と帰るつもりはない。

原発の欲しい県に共通するのは貧弱な自主財源、一言で言えば原発のお金に釣ら

れてしまったという表現が正しいのではなかろうか。国や電力会社の安全対策説明

が正しければ、東京湾の埋め立て地に原発を造ればいい。そうすると発電所から電

気を消費する都内までの送電路でロスする電気は殆どないから、最高の効率で稼働

できる。何も東北の福島から延々と電気を送ることはなくなる。

東京は何かあると困るから、余り困らないローカルな県を♪『すてごま』♪にするのか。


『夢追人、魚の観賞 Ⅰ』

2013年06月15日 18時06分08秒 | 回顧録

魚の観賞、飼育も面白い。最初は熱帯魚の淡水編から出発してみた。言わば、入

門編であり器具さえ揃えば手頃に楽しめると気軽に始める。種類はグッピー、ネオ

ンテトラ、エンゼルフィッシュが一般的で値段も手頃。熱帯魚は種類が多く何から飼

っていいのか迷う。タキシードを着たようなタキシードグッピーは尾、ヒレが派手で綺

麗な色をしているしネオンテトラはグッビーよりも小型だが光があたるとブルーが冴え

わたる。しかし群れになる位居ないと水槽の中はガランとして寂しいが、そうするには

お足がついて回る。

底ものにはドジョウとかナマズの種類を入れておく。上で食べ残した餌が底で腐敗し

水質を落さないようにする為だ。ナマズ類が始末をしてくれる。水槽の中にミニ自然界

を作る。しかし、夏の水温管理が難しい。水温を上げるにはヒーターがあり一本で足ら

なければ二本入れればいいが、水温を下げるのは氷を入れる意外に手がない。水温

が上がると雑菌が発生し易くちょっとした傷口から感染し次々と魚に汚染が広がる。

尾腐れ病もあっという間に広がってしまう。初期の治療として赤チンを入れてもいいが

市販の薬で治療してやる。グッピーに子供が生まれた。二ミリあるかないかの小さなも

のだが一人前に水槽の中を泳ぎ回っている。幾日かして見ると数が減っている。死ん

だのかと思っていたら親が餌にしてしまうと本にある。慌てて魚を買ったとこに行き聞く

と隔離するケースに入れて飼うのだという。汚れた水の中で生まれた子供は段々と減

り、隔離ケ—スの中の住民は不在になってしまった。

どうも淡水魚は冴えない。海水魚の方が色も綺麗だしそっちにしょうと心変わりした。

人工塩で簡単に海水を作ることができる。今度の魚はコバルトスズメだ。ブルーの絵に

描いたような魚で見ていて飽きがこない。底には珊瑚を砕いた砂状のものを敷きその

白と魚の青がマッチしている。

飼っては絶え、飼っては絶えの連続ですっかり興味を失い一時中断してしまった。


『福島、宮城、中越震災鎮魂の旅』

2013年06月15日 17時57分54秒 | 回顧録

6/9の日曜日から東北、信越方面に鎮魂と称して自家用車で回り、先ほど無事

に自宅に到着した。走行距離2,783Kmを癌から復帰しようとしている爺さんが運転

した。近年、多少ながら自動車道を利用するようになり、以前ほど高速道、自動車

道の恐怖感はなくなっている上、事前にJCTやICなどの情報を調査していること、

それとナビを妻がチェックすることで円滑なドライブが出来ている。

2年3ケ月前に発生した東日本大震災、福島原発災害が余りにも早く忘れ去られよ

うとしている事に憂い、犠牲者の鎮魂、今なお東電のために故郷を追われている人

たちの心情を、より深く理解するため現地に行き、自分の目で見て、それを覚えて

おくことを目的にした。ただ、そうした方々の所や特定の施設などに出向くのではな

いから、正しく言えば、その目的を果たすことはできないかもしれない。しかしその

後、人に伝える、語るなどで風化を少しでも防ぎたい。

今更、そんなことをしても世の中が変わらないことなど知っている。私はドン・キホー

テと言われてもいいから、努力するつもりだ。

帰宅し新聞受けにあった新聞の一面に『中国電力、安全対策完了前に原発再稼

働の申請』と大きく掲載されていた。彼らの頭の中に『福島原発の惨状と現状』は既

に消え去っているらしい。現地に行き話を聞くと、ブログなどには書けない悲惨な事

や辛い事は沢山ある。私が自分で見たものは極々一部でしかないが、追々紹介さ

せて頂く。


『これからのブログ』

2013年02月12日 18時03分47秒 | 回顧録

予てから気がかりだった回顧録をきちんと纏めておく作業を一応終え、その掲載は

昨日、終了した。何度も言っているように定められた路線のあるブログではないが、

病気を発症しその治療経過や心境を、同じような病気になった人や、悩んでおられ

る人にお伝えし、少しでも参考にして頂ければ幸いである。

私の体験してきたことの殆どは、これらの中に網羅しているので、新たに沢山のネタ

を提供できることはないと思う。ただ、時折何かの拍子で切り口の違った物の見方で

過去を語ることはあるかもしれない。

自分でも、よく分からないが今後は、経過観察という過程で経験することをアップする

ことが、ブログテーマに沿った唯一のものになるかも知れない。日々の暮らしの中に

いる『多重がんで手術をした自分』の暮らしぶりが他の人の参考になるとは思えない

が、ひょっとして何かの励みになればいいと思う。

もし、私がこのような病気の経験をしていなかったら、日記形式のブログを開設するこ

とは絶対になかったと確信している。ある思いを持って始めたものだから、暫くか、当

分か、長らくか分からないにしても、『癌』を引きずったブログを続けてみようと思って

いる。


『回顧録、おわりに』

2013年02月11日 17時20分01秒 | 回顧録

自覚症状の現われから、治療入院、通院などで一年の月日はあっという間に過ぎて

いった。癌の場合、治療したから完治とは成りえず、一応の目安5年を過ぎれば

『寛解』となるらしい。願わくば癌因子どもを全部叩き潰してしまいたいが、残念ながら

今のところ叶うことではないから、取あえず5年生存率の枠内に潜り込むことが最大の

目標となる。私の場合、5年生存率は40%くらいと告げられていたから、あまり安心でき

る数値ではなが他人事のような顔をして、深刻に考えたことはない。心の奥底を覗

いてみると『絶対40%以内に入っている』このようなものが見えるのではないかと思う。

治療を終えても退治できない場合、癌因子どもなのか癌細胞なのかは別として、そい

らと共生しながら黙らせたまま暮らせばいい訳だ。

誰かの言葉『癌をいい子にさせておいて寿命までいけば俺の勝ちだ』

身体と相談しながら、色々なことに興味を持ち没頭していくこともいいかもしれない、

か知らない所に出掛けて新しいものを見るのもいいだろう、新しい友人ができる

ことも・・・等々と楽しそうなことを連想すれば、そいつらを静かにさせられるかもしれな

い。暑い日は暑いなりに、寒い日は寒さに負けないよう、春・秋の穏やかさを満喫しな

がら自然の中で爺は『空元気』で頑張っていく。

 

【おまけ、タイ旅行】

2009年12月に術後の抗がん剤治療で退院、翌年6月、最初に計画していたタイに旅

行することになった。初めての岡山空港からの海外旅行でしかもここから空港へは自家

用車で行く。どのようなところに空港があるのか、どんな空港なのか気になり、天気のい

い日にドライブがてら出かけてみたりして、自分の体調の具合もチェックしてみた。

この頃は未だトイレ事情が不安定で、トイレに行く時間にある程度の規則性ができれば、

れ以上安心できることはない。国内なら大方の場所ならどこでもトイレは探せるが、初め

て行く国のトイレ事情は分からないから、出来る限り自己制御ができるようにしておきたか

った。そういう意味では4月に行った韓国は、明洞地区を中心にした移動だったからトイレ

事情はよく分かっていたので不安はなかった。今回、初めて行くタイのトイレ事情を調べ

てみると、有料の所が多いとあったから、それなら安心できると思った。つまり、それを稼ぎ

にしている人がいると言うことは、トイレの数もそこそこあると考えられるからだ。

また、市の中心地にはホテルやデパートも沢山あるから、そうした面からも心配しなくても

よかった。日本は梅雨前で多少なり冷えることもあるが、タイは南国だから僅かな滞在でも

メスを入れた身体には優しい気候だった。

この年は韓国、タイと2つの国に出掛け、翌年は2度目のアンコールワット、台湾、昨年はト

ルコとシンガポールとアクティブに動いている。動くことで元気になり、くよくよした心に喝

を入れ、更に元気になっていく、そうした一助になっていると思う。


『回顧録、手術後の身体の変化Ⅱ』

2013年02月10日 18時03分39秒 | 回顧録

【指の腫れ】

気付いた時、自覚症状はなく右手薬指の第2関節辺りが腫れているように見えた。

その内、徐々にではあるが腫れが大きくなり、その関係で曲がり難くなってきたが、

これも不便さを生むようなことはなく、ネットでかじった『リンパ浮腫』ではないかと疑

った。肩の症状が消えて暫くしてからのことだった。先生はレントゲン写真では異常

はないからMRIで調べることを提案されたので、生まれて初めてのMRI体験。

カプセルに入る前に『どのような音楽が好みですか』と聞かれたからポップ調のもの

をお願いし、ヘッドフォンを渡される。いざ、診断が始まるとドンガラ行進曲で肝心の

音楽は聞き取れない。MRIはこんなに五月蝿い診断装置だとは知らなかった。

あんな中に長らくいたら健康な人でも、どこか悪くなりそうだ。五月蝿い思いをして調

べて貰った結果は『腫瘍などの疑いはありません』

つまり、異常は見当たらないのである。その後、通院は止めたが冬には寒さのため指

が曲がり難く、ビンの蓋を開ける、小刀で細工をするなどの作業が困難になった。手を

温めたりすると曲がり難さは多少良くなるものの万全ではない。そうこうする内に、気に

ならなくなったり、またぶり返したりの繰り返しで、それは3年経った今でも同じだ。

ただ当初の症状と異なるのは,指を曲げようとすると『カッキン』という感じで曲がること

があることだ。他人に聞いたら『第2関節ならリューマチじゃないか』と言う人もいたが、

医者の見立てでは、それはないようだ。どうやら、こいつとは長い付き合いになりそうだ。


『回顧録、女の園、マンモグラフィーの恐怖』

2013年02月09日 17時59分24秒 | 回顧録

術後の抗がん剤治療を終え、あばら骨が痛いと朝風呂治療に専念している頃から、

両方の乳が少しずつ膨らみ始め、それはまるで思春期時代に身体が変化していく

様子とよく似ていた。触ると3cm位のしこりのように固くなっており、軽くつまむだけで

も痛い。手術の関係でそうなっているのだろうと、気にかけないでいたら段々と膨らみ

は大きくなり、横から見ると痩せて売れない女性モデルのような貧乳。しこりは円錐の

ような形をしており、遂には肌着が擦れる程度でも、その存在を感じるようになった。

両方の乳だから乳がんになったとは考え難いし、ネットで調べてみるものの、そんな

事例も説明も出てこない。悩んでいてもらちは明かないので先生に相談すると意外

な返事『今頃は男性の乳がんも増えていますから安心はできません。念のために乳

がんの検査をしておきましょう』と検査の手配をされ、その検査を受診することになっ

た。指定された日に出掛けてみると『マンモグラフィー検査』ではないか。乳がん検診

だから当然こうなるのは一般的なことではあるが、私はれっきとした男性だから、何か

別の検査方法でされるとばかり思っていたから完全に不意打ちを受けた形になった。

放射線科の指定された番号の部屋に行くと若い女性患者らしい人が待っていた。女

の園に迷い込んだ爺さんは困り顔をしながら、これから何が起こるのか心配顔も交じり

複雑な顔になっていたに違いない。その時はきたxxさんとフルネームで呼ばれた。

『はーい』と小さな声で応え、痩せた小柄な爺さんが椅子から立ち『マンモグラフィー』

の部屋に入っていくのを、その女性患者らしい人は訝しげに眺めていた。

対応の医師は男性で、プラスチックのような板がついたスタンドの前に私を立たせ、小

さく膨らんでいる乳を上下からプラスチック板で挟もうとした。これが有名なマンモグラ

フィー検査というものなのか。挟んでからレントゲン写真かなんかを撮るらしい。その医

師は自分の思う状態になっていないから『胸をもっと前に出して』とギューギュー身体を

押す。こちらは痛いから来ているのに、乳を板で挟まれおまけに後ろから押されるから、

余計に下がろうとする。せめぎ合いの結果、いい場所に収まったと思ったら、再び板の

ネジを締めて調整を始めた。痛いのに板で挟まれおまけに板のギャップはネジで狭く

なる、つまり私の乳のしこりは拷問を受けているのだ。

私がいくら抵抗しても、医師は納得のいく形で検査するのだろうからと、心底から観念し

痛みに耐えに耐える、まるで『おしん』のように。バトルを終えて部屋から出る時にも要

意だ。変な爺さんが出ていくのだから、そそくさと慌てた様子だと格好悪いから、何も

かったように堂々と出ていった。

先生の軽い『乳がん検査』に軽く『はい』はとても重い検査だった。もう二度と受けたくな

いものだ。検査結果は予想通り異常は見当たらず、原因としては手術でホルモンバラン

スに変化が生じたものだろうと言うことだった。この検査を受けた後から腫れは徐々に引

き、しこりの痛みもなくなり元の身体に戻った。先生には『この年になって、まさかオネー

になることはないでしょうね』と冗談交じりの話をして済んだが、とんでもない経験をした

ものだ。この話を女性にすると、女性は事情がよく分かっているから、そこに私が行き腰

引けで検査を受けている姿を想像してか、大盛り上がりになる。大いに受けた後、『この

話は面白いから、本にして出したら』なんて冗談が出る始末。


『回顧録、手術後の身体の変化、後遺症』

2013年02月08日 18時20分58秒 | 回顧録

明確に後遺症と呼べないものもあるかもしれないが、術前にそんな兆候や症状は

なかったことが術後に起きたもののことだ。例えば肩が上がらない、年が年だから

50肩が出たのでは・・・・となり手術とは関係ないとみる向きがある。肩に何一つとし

て問題はなかったし肩凝りすらしたことはないのに、いきなり両肩が上がらない。

はっきりと後遺症と言えるもの、術前にはなかったことが変化として現れた、そうし

たものを纏めてみた。

* 声のかすれ.反回神経麻痺

* あばら骨の痛

* 乳の脹れ

* 両肩が上がらない

* 指の腫れ

* 逆流、軽いダンピング、

* 味覚・嗜好の変化

過去に何度かブログにアップしているので、ここでは私固有と思われるものに絞っ

て記載する。

【両肩が上がらない】

昔から肩が凝るということはなくマッサージには全く縁のない暮らしをしてきた。東

南アジアに旅行するとツアーの一部に『マッサージ付』がある。私は全く興味なし、

凝ってもいない身体をマッサージされるなんて気色悪いから、いつも放棄する。妻

は『折角ツアーについているのだから・・』と言いつつ案内を受けるが、私は頑なに

『一時間ほど散歩してくる』と言い残し、ぶら歩きで時間を過ごす。折角、楽しみに

来ているのにマッサージごときに邪魔されるなんて、といつも不満たらたらだ。

そんな私の肩がしかも両肩共に上がらなくなった。上げようにも痛くて腕を水平く

らいまでが限度、その上ぶら下がろうとしても痛くてぶら下がることも出来なくなっ

た。普通、五十肩などは片方ずつなるもの?

肩が上がらないから、不便で仕方がないようなことはないにしても、手術の後遺症

かなんかで、おかしなことになってはと心配になり、先生に相談した結果、整形外

科の診察を受けることにした。レントゲン写真を撮り先生は覗き込む。『これと言っ

た異常は見当たりません。強いて言えば骨と骨の間隔が多少狭まっているように

見えます。所謂、五十肩ではないかと思われます』

整形外科は患者数が多く待ち時間は長く、待ちに待って受けた診察で何とも、素

気のない診断結果ではないか。肩凝り、湿布薬のワンパターンに突入。

それでも何回か通っている内に湿布薬が効いたのか、急速に回復し症状は嘘の

ように消滅した。それにしても、両肩が同時に上がらなくなり、それが湿布で治った

なんてあまりにも漫画チックではなかろうか。湿布で治ったなんて信じていないが、

いつの間にか、懸垂も出来るようになるし、肩の上下運動、ぐるぐる回し何でもあ

れ・・・・原因は不明のまま。


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