「乾」では歌謡曲の例を挙げたのだけれど、新しい作品の中に古い作品を「引用」する、と言っても様々なレベルがある。
作品名も内容も判る形で、一字一句同じ、と言うことは案外少ない。
むしろ、それとほのめかすことが多いのだけれど、判って貰えなければ効果は半減するし、あからさまなのは野暮だ。
「転校生」には、はっきりとそれと判る形で“引いて用いる”材料がある。
一番判りやすい引用は、紅林が『風の又三郎』の解説に“ちゃちゃ”を入れるところの「雨ニモマケズ」だろう。
小学生でも知っているから、みんなが笑える。
「引用」の一番愉しく親しみやすい扱い方だと思う。
ただし、これは原戯曲にはない。
原戯曲の中の引用で、“書名”が判るのは、課題図書として生徒達が選んだ『変身』『風の又三郎』『車輪の下』『人間失格』『それから』『カラマーゾフの兄弟』。『デミアン』もかな。
それから冒頭の、多分かなりグロらしい漫画。そしていくつかのネット記事、動画、音楽。
このうちで、『風の又三郎』と『変身』は、内容についてもやりとりがあるから解りやすい。“転校生”であり、“朝起きたら”なのだ。
当然のことだけれど、これは戯曲の中にある仕掛であって、偶然ではない。
それらを読みかじっている生徒達の間に、「ある朝突然転校生がやってくる」から、この話は動き出すし、生徒達は、勝手にその“物語”の終わりを内面に予想しながら話している。
ところで、例えば『車輪の下』は、どこかに響いてはいないだろうか。
『人間失格』は? 『それから』は? ……??
知らなければ鑑賞の愉しみはない、と言うことではない。
しかし、ブンガク研究の現場で、例えば論文を書く、授業で話す、と言うことになれば、この辺を一つ一つおさえる必要があるのは当然。
そこから、目指す作品の新しい側面が顕れてくる。
さて、問題なのは、こういう、顕示された引用ではないものたち。
私は全く知らなかったのだけれど、最後の“「せーの」+ジャンプ”には典拠がある。
映画『自殺サークル』(2002年園子温監督)。
このことは既にブログなどでも指摘されていて、飴屋氏御自身も認めている。
このことを知っていた人の中には、最後の最後、みんながダイブしてしまうのではないかと恐れた人もいたらしい。
また逆に、「集団自殺」という1回きりのジャンプに対して、ここでの「せーの」「ドン」の繰り返しに、生命を感じた人もいる。
ただ、ここでも、「元ネタ」を知らなくても、そういう“解釈”をした人もいる。
享受者の側は、全部知っている必要はない。
ただ、知っていると、更に面白くなる、というのは確か。
こういう事が一つ判ると、この作品の中には、もっともっと、たくさんの引用やいろんな仕掛けがあるんじゃないか、と言う気がしてくる。
時報や装置の使い方も、映像の引用も、まだ、色々考える余地がある。
実際、佐野・大野・紅林、そして岡本さんには、演出上いろんな対応関係があるらしい、とか。
観客は愉しめばいい。
勿論。
しかし、表現者は、もっともっと愉しんでいるし、苦しんでもいる。
そこに近づくことで、多分、こっちも本当に豊かな世界に触れることが出来る。
古典文学研究の中で研ぎ澄まされてきた「模倣・引用」の研究は、実はまだまだこれからの可能性を秘めている。
“盗作”“剽窃”と言われた時代、そういう物は、忌み嫌われていた。
しかし、今は、全ての表現は、多かれ少なかれ引用と模倣によって成り立っているのだ、と言うことを前提にして考える必要があるし、その方がずっと豊なのだと言うことも見えてきている。
なんだか“啓蒙的”な言い方になってしまったし、そもそも話題が逸れた。
でもまぁいいや。
文学研究の方法というのは、実は国学の時代からそんなに変わっていない。
テクノロジーは進化したので、コンピュータを使って細かい比較が素早くできる、と言うことはあるけれど。
表現方法はどんどん変わっていくから、研究もどんどん進化しなければならないのは確かなんだけれど、それでも基本というのはきっちりあるのだよね。
だから、こういう記事を読んで、なんだか豆知識が増えたぞ、と言うのではなくて、自分にとっての「いま・ここ」を生きることとの関係を考えてくれたらいいな、と思う。
なんだろね。
最近半ば意識的に我田引水。
んー。
卒業研究の成果がただの感想文にならないようにね、と言う話、かな。
作品名も内容も判る形で、一字一句同じ、と言うことは案外少ない。
むしろ、それとほのめかすことが多いのだけれど、判って貰えなければ効果は半減するし、あからさまなのは野暮だ。
「転校生」には、はっきりとそれと判る形で“引いて用いる”材料がある。
一番判りやすい引用は、紅林が『風の又三郎』の解説に“ちゃちゃ”を入れるところの「雨ニモマケズ」だろう。
小学生でも知っているから、みんなが笑える。
「引用」の一番愉しく親しみやすい扱い方だと思う。
ただし、これは原戯曲にはない。
原戯曲の中の引用で、“書名”が判るのは、課題図書として生徒達が選んだ『変身』『風の又三郎』『車輪の下』『人間失格』『それから』『カラマーゾフの兄弟』。『デミアン』もかな。
それから冒頭の、多分かなりグロらしい漫画。そしていくつかのネット記事、動画、音楽。
このうちで、『風の又三郎』と『変身』は、内容についてもやりとりがあるから解りやすい。“転校生”であり、“朝起きたら”なのだ。
当然のことだけれど、これは戯曲の中にある仕掛であって、偶然ではない。
それらを読みかじっている生徒達の間に、「ある朝突然転校生がやってくる」から、この話は動き出すし、生徒達は、勝手にその“物語”の終わりを内面に予想しながら話している。
ところで、例えば『車輪の下』は、どこかに響いてはいないだろうか。
『人間失格』は? 『それから』は? ……??
知らなければ鑑賞の愉しみはない、と言うことではない。
しかし、ブンガク研究の現場で、例えば論文を書く、授業で話す、と言うことになれば、この辺を一つ一つおさえる必要があるのは当然。
そこから、目指す作品の新しい側面が顕れてくる。
さて、問題なのは、こういう、顕示された引用ではないものたち。
私は全く知らなかったのだけれど、最後の“「せーの」+ジャンプ”には典拠がある。
映画『自殺サークル』(2002年園子温監督)。
このことは既にブログなどでも指摘されていて、飴屋氏御自身も認めている。
このことを知っていた人の中には、最後の最後、みんながダイブしてしまうのではないかと恐れた人もいたらしい。
また逆に、「集団自殺」という1回きりのジャンプに対して、ここでの「せーの」「ドン」の繰り返しに、生命を感じた人もいる。
ただ、ここでも、「元ネタ」を知らなくても、そういう“解釈”をした人もいる。
享受者の側は、全部知っている必要はない。
ただ、知っていると、更に面白くなる、というのは確か。
こういう事が一つ判ると、この作品の中には、もっともっと、たくさんの引用やいろんな仕掛けがあるんじゃないか、と言う気がしてくる。
時報や装置の使い方も、映像の引用も、まだ、色々考える余地がある。
実際、佐野・大野・紅林、そして岡本さんには、演出上いろんな対応関係があるらしい、とか。
観客は愉しめばいい。
勿論。
しかし、表現者は、もっともっと愉しんでいるし、苦しんでもいる。
そこに近づくことで、多分、こっちも本当に豊かな世界に触れることが出来る。
古典文学研究の中で研ぎ澄まされてきた「模倣・引用」の研究は、実はまだまだこれからの可能性を秘めている。
“盗作”“剽窃”と言われた時代、そういう物は、忌み嫌われていた。
しかし、今は、全ての表現は、多かれ少なかれ引用と模倣によって成り立っているのだ、と言うことを前提にして考える必要があるし、その方がずっと豊なのだと言うことも見えてきている。
なんだか“啓蒙的”な言い方になってしまったし、そもそも話題が逸れた。
でもまぁいいや。
文学研究の方法というのは、実は国学の時代からそんなに変わっていない。
テクノロジーは進化したので、コンピュータを使って細かい比較が素早くできる、と言うことはあるけれど。
表現方法はどんどん変わっていくから、研究もどんどん進化しなければならないのは確かなんだけれど、それでも基本というのはきっちりあるのだよね。
だから、こういう記事を読んで、なんだか豆知識が増えたぞ、と言うのではなくて、自分にとっての「いま・ここ」を生きることとの関係を考えてくれたらいいな、と思う。
なんだろね。
最近半ば意識的に我田引水。
んー。
卒業研究の成果がただの感想文にならないようにね、と言う話、かな。
と思って作品を見ていて、
表現者に話を聞いて、ない?!と思えてしまったショックはかなりのものでした。
某劇団の話で恐縮ですが(苦笑)。
ここ最近の記事を一気にまとめ読みしました。
世界の地域と文化の宿題の2って、そのまま卒論でやったことだ!と嬉しくなりました。
研究をやめない先生のゼミだから、できたこと。
公演と卒論がなければ、こんなに芝居に向き合わなかった。
それは今に繋がっているように思います。
読み応えありますねー、先生のブログ。
面白い。
でも、「ちゃんと形にしよう」って言うのが「気持ち」だけじゃなくなったかな。
「転校生」は、なんだか引っ張りすぎてテンションが微妙になってしまったよ。
そう。
「ないない」っていうこともあるんだよねぇ。
深読みしすぎ。
人生なんてそんなもんだ。