古今東西 珠玉の言の葉めぐり

これまで心に響いた珠玉の言葉を写真とともに掲載します

2014年 5月6月号

2014-06-14 | 言の葉



丹後の国 田辺城の戦い
慶長5年(1600年)7月、石田三成方1万5000の大軍に攻められた細川幽齊(1534-1610)は、わずか500人程の兵で丹後の国の田辺城(現在の京都府舞鶴市)に籠城し戦った。
当時、幽齊は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授(こきんでんじゅ)を相伝されていた。 その年3月より幽齊から古今伝授を継承中であった八条宮智仁親王は、幽齊の討死と古今伝授の断絶を憂慮し、使者を遣わして開城を勧めた。 しかし、幽齊はこれを謝絶し討死の覚悟を伝え、『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。 このとき、二首の和歌が添えられた。
  「古も今もかはらぬ世の中に心のたねを残す言の葉」
  「もしほ草かき集めたる跡とめて昔に返せ和歌の浦波」
幽齊はその後も籠城を続けたので、ついに時の後陽成天皇は田辺城の東西両軍に勅使を派遣して講和を命じ、9月13日勅旨による講和がなった。 関ヶ原の前哨戦の一つとされるこの戦いで、石田三成方(西軍)1万5000は田辺城に釘付けとなり、9月15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
田辺城跡地は現在、舞鶴公園となっていて、城郭様建築の田辺城資料館や彰古館、庭園などがあります。(2014年5月撮影)
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公園内を散策していると、どこからか青鷺のような鳥が飛んできて、松の木のてっぺんにとまり、そのままとまり続けていた。 松の木のてっぺんにとまる鷺というのは、あまり見たことがないので不思議な感じであった。  もしかしたら、何かを伝えようとする幽齊さんからの使者だったのか・・。 なんちゃって。







「岩がねに流るる水も琴の音の昔おぼゆるしらべにはして」  細川幽齊
京都市伏見区日野の法界寺の近くの山中に、鴨長明の庵跡とされる場所が現在もあります。 (2008年春撮影)
ここで長明は、あの「方丈記」を書いたといわれています。(当ブログ 2010年6月号 で方丈記冒頭部分掲載)









「植へわたすふもとの早苗一方になびくとみれば山風ぞふく」 細川幽齊
(2014年6月 木津川市加茂地区で撮影)






「転寝の瞼を徹す若葉かな」 吉川五明(1731-1803)
秋田生まれ 江戸時代中期の俳人





主な参考資料
  ウィキペディア
  舞鶴市田辺城資料館パンフレット
  小学館 「日本古典文学全集」中世和歌集 衆妙集
   〃    〃       近世俳句俳文集
  岩波書店 「新日本古典文学大系」中世和歌集 玄旨百首

著作・制作 KY企画

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