創る村から ~耕の会~

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21世紀平成の志士となるべく、日々修行と葛藤のスタッフブログ

持論時論の記事へのご感想

2015年09月30日 | アーカイブ
9月25日に掲載された「持論時論」


子供の世界は、大人の世界の価値観や社会の体制をそのまま写す鏡です。その意味で、子供の世界での「今日的いじめ」は、飴屋先生がおっしゃるように大人の側に大きな原因があるのだと思います。

「また、私たちが注目しなければならないのは、純粋に建前を実行する者は異端にされていることだ。子どものたちの中で『むかつき』の対象になっているのである」という分析は、私も感じていたことです。多くの大人が、家庭の中で「純粋に建前を実行する」行為をバカにしているのではないでしょうか。インターネット上で、自らは「匿名」という安全地帯にいつつ、汚い言葉を投げつけて鬱憤を晴らす大人たちを、子供の世界がそのまま写し出しているのだと思います。
 
民主主義社会において「純粋に建前を実行する」行為はとても重要なことです。人は「公的領域」と「私的領域」を使い分けて社会生活を送っていますが、当然ながら「公人」と呼ばれる人々は「私的領域」を抑えて「公的領域」で生きなければなりません。しかし、今は最高の公人である政治家が、憲法(建前)を省みず私的領域(自らが考える正義)を拡大させ、それが多くの人々に支持されるという、極めて歪んだ状況が生まれています。私は、飴屋先生が記された「純粋に建前を実行する者は異端にされている」という文章から、今の政治状況を読み取りました。現政権は教育改革に熱心ですが、自分たちがむしろ「品格」を破壊する教育を目指していることに気づいていないのではないでしょうか。

「私たちはどんな事件の時でも、その時だけは『犯人』を一刻も早く突き止めようとする。周りの教師たちは何をしていたのとか、親たちはどうなのだろうかとか、関心はその事件の当事者たちだけに向けられ、考えは自分や自分の周りには及ばないで終わってしまう」
こうした社会を作り出したのも、飴屋先生のご指摘のように「個人の利益だけを追い続けるという卑下た教育をしてきたことにある」のだと思います。その結果生じた典型がモンスターペアレントですが、マスコミも責任を逃れることができません。社会が複雑になると、単純だった時のような「大きな差異」はなくなり、「小さな差異」が見せかけ上、大きな意味を持つようになります。その結果、メディアは「小さな差異」を必要以上に大きく報道し、場合によっては先生たちを責めあげ、それに人々が反応するという循環が生まれました。一言でいうと、社会から「大らかさ」が失われ、「個人の利益主義」が蔓延していったような気がしてなりません。

社会が変質していくのは当然ではありますが、それが子供の世界に及ぶのも当然です。そうした中で飴屋先生は、これでもか、これでもかと「私たち大人は、傲慢で怠惰な生活を早くやめ、厳然とした生き方を取り戻す以外に、いじめを減らすことも、国を再生することも不可能だ」と訴えられておられます。状況を分析することは容易でも、行動することは容易ではありません。すごいことだと思います。

どうか、これからもお元気で声を挙げ続けてください。

アルゼンチン公演をはじめ、これからもますますご活躍ください。創る村の活動がさらに広がるようお祈りします。皆さんと再会できるのを楽しみにしています。
それでは、飴屋先生によろしくお伝えください。

三岡 昭博さん

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