今夜のミーティングでは、大変深刻な問題が語られました。
しかし、これは、今日だけではなく、今までも問題にされていることでした。創る村の仕事をやれないという現状の問題です。
様々な議論をして、これが高橋さんからの問題提起から発していることも確認しました。
つまり、僕たちの議論では、一つの方向を向いていない、バラバラであるとか、どういうのが本気であるのかということと、それらを踏まえ、今までどうだったかという反省まで含め、1人1人もう一度考え直そうということです。
それで、本気さという点でなんとなくですが、一般的にやれていないと思いますし、それについては、もしかすると絶望的なのかもしれません。そうした、分離が行われているのは、どこに原因があるのでしょう。
しかし、これから生きていくとしてその人生をどう取り組むかという問題としても、捉え直すことは僕にとっては重要なことのように思えます。
ということで、真っ先に思うのは、テーマということです。動機といっても良いでしょうか。僕にはそれが人生のいたるところに存在していると思います。
そして、そのテーマというのは、やはり無機的ではなく、有機的でなければ、多分自然ではないのです。
ですからそのテーマや動機、もっと言うなれば、僕はそれがアイディアだと思うのです。それについては、先生は、こういう言い方は失礼かもしれませんが、天才的です。
僕たちは、日々そうしたアイディア=種の撒かれている場所にあり、時には、創る村とは別な場所にいる人にも撒かれ、そうした熱意=アイディア=種は、維新でも、大吉さんでも、やはり種を蒔かれていると思いますが、それに無機的にしてしまう=冷水をかける、要因があるかもしれません。だから僕は、それならば重要なのは、それを無機的ではなく有機的に結びつけることこそ必要なことだと思います。
そして展開、発展しある結果をもたらす。それは多分自分の死だと思いますが、それはなんの証明だったのか。そこに、テーマから導き出された何かを僕は願いたいと思います。
具体的なことは、僕は、最近先生の作品である中也歌曲や、日本丸の復興の楽譜における仕事をしながら気がついたことなのですが、中也は、歌謡的で親しみやすさがあり、日本丸はテーマとその発展が重厚であるという構造を持っていて、とすると、やはり先生がダイナミズムであるベートーヴェンの交響曲を演奏する意義というのは大いにあったことに気がつきました。この思いは、僕だけで独占するのではなく、やはり理解してもらいたいと今は、切実に思うところです。