テアトル梅田が9月30日に閉館するらしい。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/07/19/kiji/20220719s00041000487000c.html
テアトル梅田には、地階に階段で降りる。梅田ロフトのエレベーターには、B1の表示があるのだが、直接はアクセスできない感じである。閉鎖するなら、一度エレベーターで地階に降りてみよう。怒られるかなあ。
昨年の夏は、シネ・リーブル梅田、十三の第七芸術劇場、最後はテアトル梅田と映画のハシゴをした。梅田には、TOHOシネマズ、松竹系のステーションシネマ、東映系のブルク7もある。一日中映画のハシゴをして過ごすのが、私のささやかな贅沢だった。テアトル梅田で映画を観るときは、MARUZEN & ジュンク堂に寄り、かっぱ横丁で古本を漁って、どこかで一杯引っ掛けて帰るのが楽しみだった。
しかしかっぱ横丁の古本街も三番街に移ってからは、アンティーク屋さんめいたお店ばかりになってしまった。テアトル梅田が閉館するともなれば、茶屋町に足を向ける機会も少なくなってしまうだろう。残念で仕方ない。
いま、テアトル梅田の歴史が30年と聞いて、その歴史の短さに、少し驚いている。テアトル梅田が入居する梅田ロフトのオープンが1990年なのだから、当然か。
テアトル梅田で初めて映画を観たのは、オープンから6年が経った、1998年日本公開の『ムトゥ 踊るマハラジャ』だった……ような気がするのだが、記憶がはっきりしない。
同年夏に公開された北朝鮮の怪獣映画『プルガサリ~伝説の大怪獣~』を職場の人たちと観に行ったのは、よく覚えている。
職場で『ムトゥ 踊るマハラジャ』を観た人たちの間で話が盛り上がり、そのうち一人が、「こんな映画もある」とチラシを見せてくれたのが、この映画を観に行くことになったきっかけだったように記憶する。
私が大阪に移り住んだのは、阪神淡路大震災のあった1995年だった。
当時私は大阪に移ってまだ3年だったが、テアトル梅田もオープンまだ6年で、大阪歴(?)は私とそう変わらなかったわけだ。
さて、『プルガサリ』のあらすじである。
高麗王朝末期、苛斂誅求による飢饉で民衆は苦しんでいた。あまつさえ王朝は、農民たちの農具をとりあげ、鍛冶屋のタクセに武器を作らせようとする。これに抗議した鍛冶屋タクセは捕らえられ獄死する。しかし獄中でタクセは無念の思いを込めながら飯を練って小さな怪獣「プルガサリ」の像を作っていた。娘のアミは父の遺品として針箱にプルガサリをしまっておくが、ある日裁縫中に指先を傷つける。アミの血を受けたプルガサリには命が宿り、針などの金属を食べることで成長していく。
『シン・ゴジラ』風にいえば、第一形態といったところだろうか。このミニガサリがチョコマカするオープニングは、ひたすらかわいらしく、民話的でおもしろかった。
私はこのイントロを見て、「力太郎」(垢太郎)の物語を思い出したり、山田風太郎の忍法帖の精液団子の殺人雛人形を思い出したりしていた。
民話の「力太郎」では、生命を持つのは米粒ではなく垢をこねた人形である。しかしプルガサリは金属を食べて育ち、力太郎は百貫目(375キロ)の金棒を与えられる。いまWikipediaをみると、朝鮮半島にも、グリム童話にも、力太郎と同型の物語があるという。プルガサリの物語も、力太郎の物語も、製鉄に生きた人びとの物語ではなかったのか。
『プルガサリ』の監督の申相玉(シン・サンオク)は、北朝鮮のプロパガンダ映画を作るため、元妻の崔銀姫(チェ・ウニ)とともに、この映画をつくるために映画マニアの金正日によって拉致されたという、いわくつきの映画である(拉致中に二人は再婚)。本作の特撮には『ゴジラ』の東宝の特撮チームが招聘され、スーツアクターは薩摩剣八郎氏が務めた。かなり本格的な特撮映画になるはずの作品だった。
東宝チームいわく、予算は使いたい放題だったそうです。しかしそれは、一企業の東宝と北朝鮮が同程度の経済規模で、たんに独裁者の金正日のほうが金払いがよかったということにすぎなかったのではないか。
特に特撮ファンでない私にも、本作が『ゴジラ』『七人の侍』『大魔神』などの日本映画へのオマージュ作品であるらしいことはわかった。宮廷のセット、政府軍と革命軍のエキストラシーンは、本当に迫力があった。
しかしいくら名監督がいて、東宝の特撮チームが入ったところで、北朝鮮映画の基礎技術の低さはカバーしようがなかった。
北朝鮮の先軍政治の自己パロディにしか見えないシーンも多々あった。その一つが、飢えた農民軍が木の皮を剥ぎ木の根を掘り起こして煮詰め、馬を屠るシーンである。黒澤の『影武者』で馬が斃れていくシーンは麻酔を使ったそうだけれど、この作品では、実際に馬を殺している。切り裂いた腹から勢いよくはらわたが飛び出してきて、この映画でいちばんインパクトがあるシーンであった。
映画的に未熟な点も含め、北プロパガンダ映画として、いろいろ見るべきものがあったのだけれど、監督の申相玉夫妻の亡命(帰国)により、1985年作品のこの映画は「政治的事情」でお蔵入りしてしまった。
1998年になってこの映画が日本で公開されたのも、当時、南北朝鮮は雪解けに向かっている時期だったことも、大いに関係しているだろうと思う。
2年後、2000年のハノーヴァー万博で、南北共催のコリアン館を訪ねた。コリアン館では、一切ナレーションはないが、引き裂かれた民族が、戦乱の憎しみを経て、大いなる和解と協調へと至ろうとするコンセプトムービーが流されていた。
部落生まれのヤンキーで、在日とケンカばかりしていたことが自慢だった同行の人は、このムービーに圧倒され、言葉を失い、感動の涙を流していた。私も危うく南北統一を夢見たほど、それはすばらしい映像作品だった。コリアン館を出るとき、スタッフの方々が見送ってくれた。
「See You Again」。私はその一人ひとりと握手をしながら、拙い英語でそう声をかけた。北も南も、関係なかった。私の手を力強く握り返す彼ら彼女らの眼も涙ぐんでいた。あの方々は、いま、何をしているだろう。
2001年9・11で世界情勢も半島情勢も別世界のように激変した。
私の身辺も慌ただしくなり、『ブルガサリ』を観たことも、コリアン館でムービーを観たことも忘れていった。
テアトル梅田に再び訪ねたのは、このブログの記録を見る限り、なんと十数年後のことだった。
次は機会を改めて、テアトル梅田で観た映画たちの思い出について語りたい。
ふむ? プルガサリちゃん、いつの間に美少女キャラになっていたの?
映画より先に、プルガサリの民話があるので、あの映画とは関係ないかも。「プルガサリ」は漢字で書くと「不可殺」だそうで、最凶最悪のキャラ。