1993年のこの日、成田空港問題円卓会議が開始される。
空港開港から13年がたった91年5月、村岡運輸大臣は、これまでの政府のやり方のまちがいを農民に謝罪し、「あらゆる意味で強制的手段が用いられてはならず、あくまで話し合いにより解決する。「いかなる状況においても、強制的手段はとらない」と農民にたいして確約した。また、騒音問題、移転問題、落下物問題、環境問題、電波障害などの問題について、「合意事項」が定められた。
この円卓会議から生まれたのが、空港の存在を前提に、<空港と地域の共生>を進める「成田空港地域共生委員会」である。1995年から活動をつづけている。
この円卓会議は「成田モデル」といわれ、<四半世紀にわたる不幸な歴史>の反省の上に立って、<空港と地域の共生>をめざす、住民運動の新たなモデルになるはずだった。そして共生委員会は、円卓会議で合意した内容について、点検をおこない、住民の声にもとづいて、生活環境の改善に取り組むことになっていた。
しかし、結局、新たな利権化の構造をもたらしただけではないだろうか? この共生事業を受けて設立された団体に、成田空港周辺での騒防法適用対象外の地域の騒音対策を実施している「成田空港周辺地域共生財団」がある。基本財産6億円、運用財産100億円でそれぞれ半分を空港公団、25%を県、残りを成田市など周辺市町村が拠出した。
この財団の騒音測定事業の費用負担をめぐり成田市と財団が対立している問題が表面化したことがある(2000年9月5日、読売新聞)。
運用財産のうち60億円が基金とされ、騒音対策などの財団の事業には残りの40億円しか充てられていない。そして、県の職員OBの藤沢理事長は天下りの非常勤で、名目だけで給料を取っている。このことに成田市側が不満を表明していると報じられたのだが、本音は「理事長」職を県からでなく、成田市から天下りさせたいというだけだろう。
「空港をこの地にもってきたものをにくむ」
自殺した三里塚反対同盟青年行動隊の・三ノ宮文男の遺書のことばである。
成田空港は、本当に必要だったのか?
政府が、三里塚の地に、空港を決定したのは1966年7月だった。しかし3年前の1963年には、「新東京国際空港」の建設計画は、綾部運輸大臣の浦安沖案と、河野建設大臣の木更津沖案とで対立していた。さらに茨城県霞ヶ浦案、千葉県富里案なども出されていた。それぞれ政治家たちの利権の思惑を反映したものだった。
地元出身である自民党副総裁・川島正次郎の富里案が有力になったのは、ライバルの河野一郎の急死が原因とされている。当初の富里案は、2300ヘクタール、滑走路五本の巨大なものだった。最初の富里案は、千葉県の友納知事にさえ秘密にすすめられていた。しかしこの計画は、富里、八街、山武地域の農民の猛反対を受けて、隣接する成田市三里塚と芝山町の農地に「不時着」することになった。
富里の代替案になった三里塚案は、結局、半分以下の1065ヘクタール、滑走路三本に縮小された。川島副総理が建設地を三里塚にずらしたのは、そこに経営が傾いていた「三里塚カントリー倶楽部」があったから、と言われている。このゴルフ場の経営者が、川島の友人であり、「船橋ヘルスセンター」の経営者でもあった政商・丹沢善利だった。
空港公団幹部は当時をこう振り返る。
「設計図もない、法解釈や技術論はどうでもいい。とにかく既成事実をつくることに全力をあげた」(「毎日新聞」75年6月13日)
「佐藤首相としても、7月半ばに予定されている内閣改造前にけりをつけるため、まず三里塚御料牧場に暫定的な空港を建設、これを拡張して最終的には名実備えた国際空港にする案も考慮していたようだ」と決定当時の新聞も報じている(「朝日新聞」66年6月23日)。
2002年4月、運用開始された二本目の滑走路は、「暫定滑走路」といわれているが、成田空港そのものが、計画のはじまりから、無計画に、既成事実として、暫定的に建設されたものだった。その犠牲を農民に押しつけ、あとは機動隊の暴力にまかせて建設されてきた。いわば「暫定空港」そのものだったのである。
78年3月26日、三里塚闘争の支援部隊は、「開港」を目前にしていた成田空港の管制塔を占拠した。三里塚闘争こそは、権力が無制限の力を振るうという事実そのものに対する逆転として、「無限に開かれた闘い」(フーコー)であった。78年5月、政府は成田空港を厳戒態勢のもとでその一部だけをようやく「開港」させたが、この闘争の意義は決して失われることはない。
(2005年9月20日)
しかし、その後の分裂。
1984年3・8分裂以降に闘争に結集した私にとって、農地死守(北原派)か一坪共有化(熱田派)かという対立軸そのものが、すでに無意味であり、アクチュアリティを失っているようにしか見えなかった。
以下は、当時、シンパと少数の同志に配布したコピー本の三里塚闘争論である。党の指導部にたえず「弾圧」されてきた、「叛乱主義」「ブランキ主義」「プチブル急進主義」の本領発揮というべき内容だ。本書で援用したのは、イリッチの『水とHzO』(新評論)である。本書はヒスパニックとアフリカ系住民を追い立てるダラス市の人造湖の建設計画にたいして、反対運動サイドから発言を求められたイリッチの講演録である。
(2012年9月20日)
「古代のローマの軍団兵と同様、現代のブルドーザーもまた、不可視の空間を排除するのに無力である。だが、セメントは都市を固めてしまうことができる。ブルドーザーが造りあげるこの空間においては、人々は位置づけられたり、住所を与えられたりはするが、けっして居住することはできない。かれらの居住への欲求は悪夢となる」(イリッチ『水とHzO』)
この講演で、イリッチは行政当局や経済界への批判や糾弾は一切しなかった。
そのかわりに、人造湖を推進する側も反対する側も、「湖水の自然美」が市民の精神生活を向上させるという「暗黙の合意」に立っていることに疑問を投げかける。イリッチは「水」と「HzO」は別のものであると語る。
「歴史家は、ダラスの水道管をごぼごぼ流れるHzOが水ではなく、産業都市が生み出す素材であることに気づくであろう。二〇世紀は水を変質させ、原型としての水とは混ざりえない液体にしてしまったのである。建築家の集団は、土地を収用し、人々を退去させるに十分な金と広い領域にわたる権力をもっているのだから、この汚水を、かれら自身の美的水準に見合った液体の記念碑に仕立てあげることも簡単にできるだろう。しかしそのような液体の記念碑と接することで、ダラスの子供たちは夢の水と心が通わなくなってしまうのではないだろうか?」
成田空港は本当に必要だったのか? しかしそのようにして、成田空港問題の非人間性、非民主主義的性格、利権追求主義を告発・批判するだけでは、国益や地域経済のために「暫定滑走路」を許した「公民的信仰」を覆すに十分ではないのだ。成田空港推進派はもとより、反対派も含めて共有するであろう、この公民的信仰こそ撃たねばならなかったのだ。
支援セクトが反対同盟内部の対立・矛盾を揚棄することができず、農地死守-絶対反対闘争(北原派)と、一坪共有化-条件闘争(熱田派)の両極に分解していったのも不可避だった。中核派・解放派の軍事主義路線の空転も、第四インター・日向派の市民主義路線への埋没も、いずれもマルクス主義左翼党派の自己解体現象のネガとポジにすぎない。
もちろん、イリッチの産業社会批判は、エコロジシズムと同様に、そのままでは承認しがたいものである。しかし、イリッチこそは現代において甦ったユートピア社会主義者なのだ。
ざんばら髪を振り乱す、大木よねの異形性において、三里塚闘争の魂を見出さなくてはならない。「警察に護衛されたブルドーザーがやってくるとき、そこでは互いに異質の存在が対決している。居住空間から生まれた掘立小屋vs製図板の世界からきた侵入者たち。両者の間を分かつ動かしがたい異質性、根底的な相違を過小評価してはならない」とイリッチが力をこめて語るリオ・デ・ジャネイロのファベーラは、まさしく三里塚闘争が切り開いた世界なのだ。
この根底的な相違性ゆえに、ひとたび大地に根をおろしたファベーラは、ブルドーザーのシャベルくらいでは消滅することはない。数週間もすれば、あるいは、たった一晩のうちに、同じファベーラが再び息を吹き返す。古代ローマの軍団兵のように、現代のブルドーザーもまた、不可視の空間を排除するのに無力である。
三里塚闘争において生きられた、このアナーキーな、無限に開かれた、不可視のユートピアこそは厳然たる現実であった。ひとたび蜂起が行われれば、この生きられた時間はもはや排除不可能となる。革命の想像上の空間は根絶不可能なのである。
(1991年7月)
【参考文献】
『水とHzO』 イバン・イリッチ(新評論)
【参考サイト】
成田空港地域共生委員会
成田声明もくじ