最近、ハイキングの話ばかりですが、たまには別の話題でも。
teacupのサービス終了に伴い、gooブログへの引っ越しのごあいさつをしたのが昨年2022年の5月8日でした。
1周年……といいながら、1週間過ぎちゃいましたね。
gooブログのアカウントを取得したのが5月6日、データ移行作業を終えたのが5月7日。久しぶりに街に出かけたのが5月8日、いわゆるGWの最終日の日曜でした。移行直後は、蕪村に関するエントリばかりですが、これはこの日、新世界の更科総本家の帰りに逸翁美術館の蕪村展の中吊り広告を見たのがきっかけです。
蕪村の『晩秋遊鹿図』、蕪村の最期の句を見事に視覚化した弟子の呉春の『白梅図』は、いずれも逸翁美術館のシンボルといっていい名宝であり、近世絵画の最高傑作です。交通費も入館料もかかるけれど、この二つの名品を所蔵する美術館にいつでもアクセスできるというのは、大きな喜びです。残念ながら同館は両作を常設展示はしてはおらず、展示会ごとにこまめに出展作をチェックする必要はあるわけですが。
最終的に雨天のため中止になりましたが、労組で摩耶山ハイキングを企画しました。私も若い人の足手まといにならないよう、3月から山登りを始めました。
六甲山、大文字山、六個山、五月山といろいろな山に登りました。
地方都市の郊外を転々としてきた私ですが、鶯の「ホーホケキョ」を初めて聞いたのは、10年以上前、能勢が実家の組合員のご父君の葬儀に参列した、今頃の季節でした。
しかし、山を歩いていると、普通に鶯のさえずりが聞けるのですね。感動しました。
昨年の初夏、丹波の農園の小屋に泊まったときは、窓から迷い込んだ蛍の光を見ながら眠りに落ち、鹿の鳴き声、そして鶯のさえずりに目を覚めさせられたものでした。一昨年は同じ時期、1キロも離れていない宿に泊まったのですが、鶯も蛍も見かけませんでした。たった1キロで、これだけ生物相が異なるのか。発見でした。
どの山も大好きですが、毎週通い続けているのが4月1日に初めて登った摩耶山です。
5月13日にも登り、すでに七周目です。
摩耶山ハイキングが中止になってしまって本当に残念、無念です。
あかちゃんの頃から知ってるKくんジュニア、神戸のクライアントから絶大な信頼を得るTさん、来月末で退社を決めたAさん、新たに仲間に加わったYさん、大株主から出向のOさん、青年部のTさんをはじめ、みなさんとの会話を楽しみたかったのですが。
摩耶山ハイキングのリーダーは経験豊富なハイキング部部長にお願いしたとはいえ、労組主催イベントである以上、自分でもコースを把握し、トラブルがあればみんなをサポートできる程度には体力をアップしておきたいというのが、毎週ハイキングに出かけた理由でした。特に心肺機能のアップは必須課題でした。組合員さんとのコミュニケーションが目的なのに、ゼエゼエ息切れしていては会話になりませんからね。
秋にはリベンジしたいなあ。摩耶山の掬星台のカフェのテラスでは、持ち込みOKでBBQが楽しめるんですよ!
とはいえ、さすがに食材やビールをかついで山に登るのはしんどいです。食材調達係は、クラーボックスをかついでケーブル&ロープウェイかな? しかし最寄り駅の王子公園駅からケーブル駅までの坂道が、すでに限界に挑戦なのですよ?
これは脱線ですが……。
若い頃は、「西行のアホは、花の下で死にたいとか甘ったれたことをいいやがって」と思っていました。
しかし、20代後半に吉野の西行庵と奥千本を訪ねたとき、息も絶え絶えになってしまい、
「西行、おめえ、全然、悟ってねー。精力絶倫すぎだよ、あんたは。道理で煩悩にまみれすぎだぜ」
と、つくづく考えた次第です。
摩耶山もしんどいです。
登山口に近い神戸高校に通っていた村上春樹を尊敬してしまいましたよ。あんな通学路、グータラをこよなく愛する私なら、登校拒否になりますなあ。
登山口の摩耶ケーブル駅までが、すでに最初の難関。駅からタクシー代、せめてバス代を出さないと、誰も手伝ってくれないかもしれないなあ。
そして……。
他のエントリで書いたように、「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村の句は、摩耶詣の帰りに詠まれた句だそうです。
昨年、逸翁美術館の企画展で、すっかり蕪村にハマってしまいました。今は毎週、蕪村と同じ道を歩いていることほど楽しいことはありません。
『白梅図』を見たれんちゃんが蕪村最後の旅に想いを馳せ、はらはら涙を流している一方で、「ぉ父さん」は蕪村の書を鉛筆で臨書していたそうです。
蕪村が歩いた道は、上野道か青谷道か天狗道か旧摩耶道かわかりません。しかし、旧仁王門から旧天上寺(現在史跡公園)までの石段を歩いたことだけは確実です。蕪村を再評価した子規も、子規が句に詠んだ摩耶詣祭りの灘のお馬さんたちも、この石段を歩いたでしょう。
お父さんは、蕪村や子規やお馬さんたちと同じ道を歩いているこのこと自体がうれしいのです。
シュルレアリスム書道を自称していたお父さんは、「砂の上に滅びぬ文字を書け」のプルドン/エリュアールのことば(『処女懐胎』)にマジレスして、砂をヤマト糊で溶いて、作品にしたことがありました。書の世界では異端の師匠の助言でした。1万円近い筆がこの一回で潰れ、使用不可になりました。
しかし、前衛書道でも、普段の練習は古典の臨書なんですよ。筆順は守るというルールは厳守しないといけません。
以下は、私が愛してやまない『とめはねっ!』で、ツンデレ天才書道少女・大槻さんが、修学旅行で京都に訪ねた望月さんにいうセリフ。
「あのなぁ…。『かなの書』は文字が連綿(れんめん)でつながってるやろ? 連綿の筆跡を極限まで本物そっくりに書こうと思たら…
1000年前にこの『書』を書いた作者と、まったく同じ動きをせんと書けへんの。
そう考えたら、『かな』の古筆は、和歌だけを記録してるんやない。
1000年前の平安びとの動きも記録してんのよ」
これはわかるし、若い人にも忘れてほしくないなあ。
私は結局、蕪村の境地に達しないまま人生を終えそうですが、少なくとも摩耶山では、同じような足の動きはしているはずなんですよね。
蕪村の句境、詩境には到底追いつきませんが、同じ道を同じように歩いていることが、とてもうれしく、喜ばしいのです。
……ふむ。
最初に書こうと思った床屋難民の話は、あまり書けませんでしたね。
昨年3月末に20年通った床屋さんが閉店して以降の床屋難民の話は、またいずれ……。1000円カット(値上げして、消費税込み1200円になりましたが)など、いろいろなお店をさすらっています…はぃ。この話はまた改めて。
このぉ茶畑は、摩耶山の上野道下山口に近い、静香園茶園です…。
ここでいただくお茶は、本当においしいお茶です…はぃ!