新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

俺たちの仕事は幸せを運ぶこと ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観て

2019年09月23日 | ヴァイオレット・エヴァーガーデン

「見つけたよ / 何を? / 永遠を
太陽を溶かしこんだ / 海だ」

 冒頭、船のデッキに立ち、海を見つめ、空を見上げる男の子に、私はこのランボーの詩を思い出した。この感想は、当たらずとも遠からずだったらしい。本作のコンセプトは「生きることに絶望していた少女が『永遠』を見つける物語」(パンフレットより)なのだから。

 いまはただ、この作品に巡り合えた喜び以上に、京アニは何という美しいものを見せてくれたのだ、あなたがたを襲った悲劇に、私は何もできなかったのに、という深い悲しみに捉えられるばかりだ。

 「愛する人へ送る、最後の手紙」という、パンフレット表3のキャッチコピーを見て、私は電車の中で不覚にも涙がこぼれそうになった。

 このコピーが、事件前から決まっていたのか、事件後に書かれたのかは、わからない。それ以上に私の心をとらえたのは、後半パートでのベネディクト・ブルーの「おれたちの仕事は、『幸せ』を運ぶことなんだろ?」というセリフだった。

 このセリフは、あんなことが起きるなんて誰も予想だにしない、事件前には収録が終わっていただろう。しかし、このセリフは、いかなる暴力にも屈せず、人びとに「幸せ」を運び続けるという、京アニの勇気ある意志の表明であると思われた。

 他者を拒絶し、深く絶望していた「イザベラ」のもとへ、自動手記人形(ドール)のヴァイオレットが家庭教師として派遣されるところから物語は始まる。二人がダンスを踊る舞踏会をクライマックスにする前半パートは、まさに私たちの期待する「京アニワールド」で、私も心ゆくまで楽しんだ。

 この前半パートだけで終わっても、アニメ史上に残る傑作になったのは間違いない。しかし、この作品を映画史上に残る「永遠の名作」にしたのは、冒頭の男の子が港に上陸するところから始まる後半パートである。

 日傘を差す淑女、風になびく草原、湖の水鏡に映る風景、ポプラ並木などに、モネやシスレーの印象派絵画へのオマージュが、そこかしこに散りばめられている。モネは、「私は鳥が歌うように、絵を描きたい」といったが、まさにモネがめざした、自然といのちの美しさと喜びに満ちた映像世界がここにある。

 3DCGアニメは、表現の自由の天国であるはずなのに、そこに自由の喜びが感じられないのは、なぜなのだろう。京アニは、画家がデッサンを重視するように、人体の構造や動き、自然の風景や街並みの建築物を丹念に精緻に描き込む。写真や動画をデジタル処理して、モデル化して終わりではない。印象派の絵画を想起させる京アニの2Dアニメにこそ、私は「もの」を作る自由の喜びと解放感を感じる。

 自由は他人に与えられた瞬間に消えてしまう。空の彼方(あなた)を見つめる、イザベラやヴァイオレットの表情とまなざしが深く心に残った。京アニの映像世界には、自由にあこがれ、みずから自由をつかもうとする力が放つ、生命の輝きがある。

 エンドロールで、悠木碧さんの名前を見つけた。観ている最中は、全く気がつかなかった。天真爛漫で明るく元気な彼女の役柄は、この映画の描く「愛」や「幸せ」や「希望」が、けして絵空事でなく、この世界にはたしかに実在していて、「きみもこの世界に存在していいんだよ」というメッセージになっている。私はあの事件の容疑者にこそ本作を観て、自分が犯した罪の意味を問い、できることなら生き直してほしいと願う(ご批判はリンク先の過去記事に)。

 9月26日までの3週間限公開だったが、好評につき、5週めまで上映続行が決まったようだ。ぜひ一度は観てほしい。私はまた観に行くつもりである。




 


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