新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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労働組合運動の初歩的な段階から

2011年06月04日 | 政治・経済・労働組合
 今はなき東洋インキ青砥工場には、かつて、こんな労働組合長がいた。



『前執行部に代って』


   A もろさと強さ

 賃上要求が組合員の皆さんの納得がゆくまで押すことが出来ないままで、われわれは辞任してしまったことをお詫びしなければならない。こんどの闘争は、われわれの生活を守る闘いであると同時に「息の詰まるほど有難い」会社の家族主義的なぎまんんとわれわれ労働者の独立心とか自律性とかの闘いであった。われわれは中途で、矛をおさめることになったが、会社の家族主義が如何にかくされた脅迫と金の力で支えられているかをはっきりと知ることができた。又、われわれの強さというものも、もろさと背中あわせのものであったことを深く考えてみなければならないのではないだろうか。


   B ね返りについて

 会社が職能をとほしてやった、悪質な切くずしに乗って脱落した組合員もあった。会社のやる切くずしは全て共通で、それは「そんなことをするとおまへのためにならんぞ」ということに尽きる。しかしそれで動揺した組合員の気持は決して共通ではない。第一には、この際忠勤ぶりを示して自分だけはよくなろうという乞食根性である。第二には、本当に生活が苦しくて、自分や家族のことを考えて脅迫に心ならずも動かされた者である。第三にはかねてから組合幹部の運動方針に反感をもっていて、一石二鳥をねらった者である。われわれは第一の連中とだけは、今後とも激しい闘いをつづけなければならない。第二、第三の人たちは、今後も組合員全部で守ってやらねばならない。われわれは労働者という大きな立場にたったとき、みんな共通であり、結び合へるものなのだ。

   C 青戸細胞の批判について

 われわれが、スト決議に破れて辞任した翌々日、日本共産党青戸支部はビラを配布した。皆さんのなかには、それを見た人がいるだろう。われわれもそれを見た。そのビラに書いてあることは、大道において正しく、且つ労働者を守ろうとする熱意にあふれたものであった。皆さんもそう思うだろう。しかしその中で、われわれ前執行部が「ストだけが闘争の全てだと思った」とか「一部をみて全体をみない」とか書かれてあったが、それは誤りである。
 青戸細胞諸君は、すくなくとも、一中産業労働組合の闘争を批判しようと思うならば、単に表面的な洞察によるのではなく、雇用関係の内部構造と段階がどこにあるかという点まで追求した上で、批判する熱意が必要であろう。だが何れにせよ、われわれの組合が、友誼団体と結びついたり、外部から絶えず批判をうけたりすることは良いことである。

   D われわれの得た教訓

 われわれは今度の闘争で、上部団体、外部団体と結びつかねばならないことを肝に銘じて知られされた。われわれは社交クラブではない。真の労働組合組織と結びつくことが必要であると思う。それからわれわれは日常闘争というものがどんなに必要であるかも知らされた。地味な活動をねばりづよく続けることが大切である。そして、組合の事業と言へば、マージャンと旅行と酒宴であった昔の名残りを、徐々に克服してゆかなければならない。

 〈青戸ニュース〉第10号1954年1月


 「四季といえば思いだすのは、どんな作品ですか」と、質問されて、真っ先に思い出したのは、この政治文書だった。

 年始の旗開き、春季生活闘争、夏季一時金闘争、秋期定期組合大会、年末一時金闘争、折にふれて、繰り返し読み返してきたのだから。

 この青年組合長が、1952年に『固有時の対話』を発表し、1953年の『転位のための十篇』で荒地新人賞を受賞した若き詩人でもあったことは、今は関係ない。ただこの文書が、六全協やフルシチョフのスターリン批判、ハンガリー革命より以前に書かれていることだけは、記憶にとどめられてよい。

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