サルサバンドLATIN FACTORYのブログ
EL WEBLOG DE LATIN FACTORY
憧憬
手元に一冊のボロボロになった鉄道雑誌がある。発行が昭和46年1月1日とあるから、38年前に発行されたモノである。親からこの雑誌を買い与えられた頃、世の中はやがて消えゆく蒸気機関車への関心が高まっていた。いわゆるSLブームである。折しも、この雑誌の後半に掲載されているのは、昭和45年10月のダイヤ改正で首都圏から蒸気機関車が消えた事に関する記事などである。しかしながら、生まれてから首都圏で育ったCABEZÓNには、現役時代の蒸気機関車の記憶は無い。当時、雑誌などが唯一の情報源であったが為に、必然的にこの内容は幼い子どもの頃のCABEZÓNの頭脳に刻み込まれて行く事となる。その中でも、上記写真の見開きで「木曾路」と書かれた記事には大きな影響を受けたと思う。それこそ、文章の作りなど本ブログの構成要素までが似ている様に・・・。
時は流れて1986年(昭和61年)の夏、学生生活を謳歌し始めたCABEZÓNは、当時の友人3人と連れだって木曽路を訪れた。宮脇俊三氏の「鉄道廃線跡を歩く」が1995年に刊行され、一躍廃線跡が脚光を浴びる様になる10年程前の事である。当時は廃線跡というモノを訪ねる物好きは自分以外には居ないと信じ込んでいたし、良くもそんな状況で、鉄道そのものにも関心がない友人をこんな場所まで引っ張り出したものである。
どの様な旅程で上松駅に降り立ったのかは定かではない。貧乏学生の旅だったので、恐らく青春18切符等を利用したのだと思う。インターネットなど無い時代だから、事前に手にした資料は上記の雑誌のみ。しかし、当時であっても足を使う事だけに関しては自信があったらしく、さっさと町役場を訪れて地図を入手したのを覚えている。そして、その後に訪れた上松駅の貯木場。廃止後11年経ったその場内には、当時の軌道敷きなどは残っていなかったが、ある建物からわずかに姿を出していた一条の軌道に興奮した記憶がある。
そして、場内の片隅には機関車が数両留置されたままになっていた。残念な事に、写真は数枚しか残っていない。というよりも、数枚しか撮影しなかったのである。当時持ち合わせたのは、恐らく使い捨てカメラで、予算的に残り枚数も限られていたのであろう。現在であれば、さんざん撮りまくってから剪定できるのであるが、当時の状況となればこれも致し方のない事なのか・・・。
季節は夏の真っ盛り、かなりの暑さであったと思われるが、記憶には微塵も残っておらず、木曽川を渡った所から王滝森林鉄道本線をひたすら木曽ダムの方面に向かったのである。既に、廃線跡の路盤は生活路として地元の住民に使われていたが、橋梁を始めほとんど全ての遺構がそのまま残されていた。途中、二股に分かれる道があり迷いそうになった場合であっても、鉄道の特性を示唆しつつ自信満々で先頭に立って進んで行った様だ。そして、ひたすら進んだ先で現れたもの・・・
当時これ以降の路盤は地元住民でも近寄らない場所であった。若気の至りと言えようか、住民でさえも嫌がるこの隧道を通り抜け藪をかき分けた。そして、気がついたら橋梁の上、下は落ちたらただごとでは済まない高さだった記憶がある。
ここに行きたかった・・・
Editor CABEZÓN

