変わらないもの


新旧の橋梁、方や当時の日本の技術を結集しての文化遺産級の遺構、しかる一方は現代の技術により建設された住民の足である。鬼淵橋(左側の橋梁)は、地元の実力者の理解を得られずに、未だに文化遺産としての指定を受けていない。近い将来、その方々の理解が進み、文化遺産としての指定を受けられれば、この橋の将来も安泰である。



橋梁を背にして、今度は反対方向に歩き始めてみる。こちらは小川森林鉄道の廃線跡、先の王滝森林鉄道本線と比べて、比較的小規模の道路建設にとどまっており、車の交通量も少ない。



実際に歩いた事もない場所であるので、今ひとつ実感が沸かないが、恐らくは比較的当時の面影を残しているのであろう。このあたりまで来ると、先程のクマさんではなく、別の道路御用達動物が姿を現し始める。それは・・・









おさるさん


とはいっても、実際にはこんな数がいた訳ではない。この写真は数年前、たまたま義父と車で通りかかった時に撮影した写真、今回対面したのは子ザル一匹のみである。そう、実は数年前にも一度ここに来た事があった。その時は家族全員と義父、この遥か先の赤沢自然休養林を覗きに行き、その帰り道にこの道を通っていたのである。



左下に町並みを見下ろしながら暫く歩き、ふと顔を上げて見渡すと、雪を抱いた木曽駒ヶ岳を一望する事が出来た。日本百名山の一つに数えられる木曽駒ヶ岳、雄大な眺めである。



更に進むと、軌道跡は山沿いに方向を変える。



ひたすら軌道跡を歩き続ける。道沿いには、色々な構造物(柵・格子など)に軽便鉄道規格の細いレールが使われていて、間違いなくここが森林鉄道の軌道跡である事を感じさせる。このあたりは、大規模に開発されてしまった王滝森林鉄道本線とは大きく異なる部分である。



しかし、再開発の波はこの軌道上にも及び始めていた。いくつかの自動車道路と合流した後、見覚えのある地点にたどり着く。ここから先は明らかに軌道跡ではない。それは、車に乗って通り過ぎた数年前の記憶からも間違いが無い事は確かである。しばしこれ以上の歩行をためらいながら考えた。何よりも自分の体力が限界に近づきつつあった。携帯端末のGPSを確かめると、既に距離は15kmに及び、宿を出発してから休まずに3時間以上を歩行した事になる。しかも、旅用の鞄、とりわけ今回の旅には関係のないフルートまで入ったそれは流石に重く、熟慮の末ここに探索を断念したのである。





2時間後、私は上松駅のプラットホームにいた。正月休みを終え、明日からの仕事に備えて自宅に戻るのであろうか、故郷を後にする青年や夫婦連れが、改札で別れを惜しんでいる。やがて老人と共に改札に姿を現した子ども達、年の頃小学生低学年位であろうか、入場券を買わずにだと思うが、大人の制止も聞かずにプラットホームに入り込んでしまった。すると、人の良さそうな駅員が現れて、特別の計らいをしてもらったのであろう、子ども達はせきを切った様に跨線橋をめがけて走り始めた。同伴の大人からは駅員へのお礼の言葉が聞こえてくる。


ここも同じく人の住む町、ごくありきたりの光景ではあるが、何故かこの町の人々の情を感じた様な気がした。自分はといえば、自分の住む町を遠く離れてこの場所にいる。改めて、貯木場から周りの山並みまでをじっくりと見回した。20年の歳月を経て、この世の中は何が変わったのであろう。国鉄民営化?インターネットの普及?今回、確かに自分の求めていた風景には会えなかった。しかし、風景や生活のスタイルが変わってしまったかも知れないが、20年前とは変わらないものもある。それは、ここ上松の地に暮らしている人々の情なのかも知れない。





私は煙草をくゆらせながら、もう一度あたりの風景を見回した。プラットホームを吹き抜ける風は冷たく、そこは紛れもない木曾の山間の町であった。


さあ、自分も、自分の町に帰ろう、家族の待つ町に・・・


そう思う間もなく、自分を乗せて走るであろう鈍行列車のジョイント音が近づいて来た。これに乗れば、4時間後には自分の町に着ける。この町の主人公がここの住人達である様に、私は自分の町の主人公の一人なのだ、と自分に言い聞かせながら私は列車に乗り込んだ。



Editor CABEZÓN


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