心象を求めて Vol.3


流石にこのカンバンには驚いた。これから一人で、人気のない隧道を通ったり、転落する危険性のある橋梁を渡ったりと、随分と腹をくくった気持ちで出発したのであるが、相手がクマとなると話は別である。確かに、木曾の山林はいつクマが出没してもおかしくない。しかし、このカンバンを通り過ぎて暫く、正確な情報を得ようと、改めて何が書かれているのかを確かめに舞い戻ってみた。










人騒がせなカンバンである






そうこうしている内に、小径は一旦下降を始めて先ほどの自動車道と繋がってしまった。場所は木曾の桟まであと1キロメートル程残した場所である。ここまでの過程で、かつて辿った王滝森林鉄道本線の痕跡さえも見いだす事の出来なかった私は、せめてもの気晴らしにと木曾の桟を訪れる事にした。



桟や、命をからむ、蔦かづら


松尾芭蕉の歌で著名な木曾の桟は、旧中山道の中でもとりわけ交通の難所として古くから知られてきた。高い断崖絶壁は人々の往来の為の道を許さず、やむを得ず木曽川と断崖絶壁に沿って作られた木の桟道によりかろうじて結ばれていた場所なのである。その後、松明の不始末により消失したものの、石垣を積み上げて再生した木曾の桟はそれ以降も人々の経済活動を支え続けてきた。



現在は同じ場所を国道が通っているが、対岸から見てわかる様にその石垣の一部が道路下に保存されている。また、鉄道にとっても難所である事には変わりなく、長い年月を経て路線の改良工事が行われてきた。上記写真「桟」の上方に存在する構造物、これはかつての中央本線桟トンネルの落石覆いである。ここを出た列車は左側にあった橋梁を渡り崖を這う様に走っていた。しかし、1979年に落石の多さから、さらに山中深く進む新線への付け替えが行われ、今はその面影を遺構に残すのみである。かつてここを、もうもうと黒煙を上げて走っていた中津川機関区D51の姿は、大自然に立ち向かう人間の技術の象徴だったに違いない。






私は今まで通ってきた方角を改めて見回した。眼下には旅館も見えるが生憎の正月休みである。暫く、対岸の自動車道を行き交う車を眺め続けた。








橋梁

隧道

そして、時の流れ・・・



初めてここを訪れて以来心の中にあり続けたもの

それが確かに失われてしまった



つづく


Editor CABEZÓN



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