サルサバンドLATIN FACTORYのブログ
EL WEBLOG DE LATIN FACTORY
本日は新年会(焼き肉編)
本日は、記事2008忘年会を受けての新年会でございます。ひとまず、15時に大久保界隈でなにがしかをやった後に会に突入すると思われますが、途中合流の場合はお問い合わせまでご連絡を。このお問い合わせフォーム、以前も記事に書きましたが、CABEZÓNの携帯に転送される事になっています。送信に時間がかかりますがそれもご愛敬という事で・・・。
昨日はPTA役員の新年会。昼間に某所を借り切っての昼食会でしたが、途中からアスリート系のもう一人の副会長Y氏が登場したので、餌を補給する展開に・・・。
そのY氏からは高速徘徊(マラソン)に関する色々なアドバイスを頂いたりする事が多いのですが、CABEZÓNは先日の10kmで、ようやく52分20秒までこぎ着けたところ。しかも、足が痛くなっているし(笑)。そのY氏はCABEZÓNより遙かに上回るタイムをたたき出します。
昨日聞いたところによるとY氏は小金井市元旦マラソンで、伝説の消防士高野甲子雄さんと一緒に走ったそうですが・・・、高野さんはスタート間もなく、米粒の様に遠ざかっていったそうです(笑)。次元が違いすぎますね orz... そのY氏曰く、
「5分/kmを切らないとアスリートではない」
多分、アスリートの領域に入った時点でCABEZÓNは死ぬでしょう(笑)、多分、、、。
Editor CABEZÓN


CADENA LATINA DEL BARRIO (12/27) Vol.4
出番が終わったはずなのにステージに舞い戻ったCABEZÓN・・・
何をユキーラさんとやり始めるのかと思ったら・・・
また暴れ始めた(笑)・・・
サラちゃん苦笑いってか(笑)
しかも何を血迷ったかコアリズムを始める始末(笑)
元気が有り余って
鬱陶しいので小さい写真にしますた(笑)
はい!ここで歯科医さんの登場です!!!
Monguitaさんからハンドパワーを送られるモントゥナー
悶々と焼き魚プレー
「次こそその歯を抜いてやる~」
更にはスペシャルパフォーマンス
フルートとピッコロの競演(ウソ)
事態を冷静に分析するComritoさん
「これで良いんだっけ?」
ステージの上は押し合いへし合い・・・
ああっマイクシールドが抜けた!!!(笑)
いよいよグランドファイナル
楽しい時間はあっという間ですね~(笑)
え?
あっという間じゃないって(笑)?
すいません m(_ _)m
ステージが2時間以上になってしまいますた orz...
かるかん柿島屋の二人が小さく見える~♪
という訳でSepteto Tradiciónの皆様、Son De Familiaの皆様、並びにゲストボーカルの皆様、そして聞きに来てくださった皆様有り難うございました。CABEZÓN、もう少し自重しますのでまたお邪魔させてください(笑)。
Editor CABEZÓN


CADENA LATINA DEL BARRIO (12/27) Vol.3
ここでサラちゃん登場。前回のリベンジとして颯爽とステージに上がった訳ですが、矢継ぎ早に記者団から質問を浴びせられる事に・・・。
記者団:「今回の調子はどうですか?」
サラ:「ちょっと歯が痛くて(笑)」
モントゥナー:「その歯、私がやりました」
「焼き魚を食べると痛みます」
彼女は、荒療治をしやがった歯科医への恨み節を情念を込めて歌い上げましたとさ(ウソ)。
こんなおりに、端から怪しい視線が・・・
一体、何を企んでいるんだ・・・
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あ、あれ~?CABEZÓN君
ちみのステージは終わったはずでは(笑)?
しかもゲストボーカルそろい踏み~
つづく
Editor CABEZÓN


CADENA LATINA DEL BARRIO (12/27) Vol.2
さて、一度は見失いかけたステージですが(笑)、てぶろんと会場に戻って参りますた。すると、おお!TAKAさんが見えているではないですか。
更にはユキーラさんも登場。だんだん、ヒートうpして参りました(笑)。実は今回のゲスト一番手。
ところが残念な事に、ユキーラさんが登場した写真が、CABEZÓNのショボカメラで捉えたものしかありません orz... でも、後ほどS氏の写真で登場しますのでお許しを・・・。
おおっと、今回は風邪にもやられず(笑)、歯が取れそうなのを我慢して(ウソ)サラちゃんも登場。
今回CABEZÓNは授業参観モードでは無かったようです(笑:参照)
ユキーラさん演奏が終わってくつろぐの図、その背後にはモントゥナーも・・・。
更にMIWAちゃんも・・・、今度遊びに来てね。
それにしても本番の流れって、リハーサルと違ってえらく早く感じるんですよね。CABEZÓN自身、おおっと、自分の出番か!!!という状態で(笑)。
意味ありげなCABEZÓNのアクション、一体何をやっていたのか・・・。
奮闘するてぶろん、トランペット1本だけだから、ステージを通して吹きっぱなしです。
さぁ、次はここからだ・・・
つづく
Editor CABEZÓN


休話
皆さん、連休はいかがお過ごしでしたでしょうか?CABEZÓNはというと、やんごとなき呼び出し等を受け、連休どころではなくなってしまいました。しかも、せがれが熱を出したまま寝込んでいたので、家をおちおちと空ける訳にも行かず・・・。そんな中、昨日は久しぶりに娘と廃線シリーズに遠出してきましたが、その様子はまた後ほど、、、その前に昨年末でペンディングになったレポートを明日より再開する予定でおります。
朝晩の冷え込みは、いよいよ厳しい今日この頃ですが、電気ヒーター導入のおかげか、摂氏5℃以下となってもハムスターは冬眠せずに生き延びています。やっとCABEZÓNにも慣れてきたのか、以前の様に手を出すと噛みつかれるという事はなくなりました。ただし、寝ているところを邪魔されるのは嫌らしく、寝ている時のちょっかいに対しては脊椎反射の如くかぶりついてきます。
そうそう、バンドの方はというと、今週末(1/17)に幹事モントゥナーで焼き肉新年会を開催予定です。昨年は起動が早かったのですが、それも忘年会が異常に早かった為と思われ(笑)、今回は忘年会が例年並みだったので新年会も例年並みのペースなんでしょうなぁ(笑)。参加されたい方は、本ブログの問い合わせでも構いませんし、それ以外のメンバー経由ででもお問い合わせください。今からてぶろんが虎視眈々と炸裂を狙っているという噂もあります(笑)。
Editor CABEZÓN


旅程回顧
旅を終え、帰宅後に色々と調べ物をしてみました。特に気になった事は当然、、、
あの探し求めた隧道はどこにあったのか?
本当に消滅してしまったのか?
それとも現存しているが、今回たまたま発見できなかったのか?
この疑問を解明する為にとても役に立つサイトがありました。それは、林用軌道跡解体新書という、長野県から名古屋県にかけての林用軌道に関する情報を公開しているHPで、そこには現役時代の同じ隧道と思われる写真が掲載されていました(このページ再下段の方に写真があります)。また、そのサイトの掲示板から隧道の位置も判明してきました。
今回王滝森林鉄道本線を巡った際の行程を確認してみます。写真は国土地理院ウェブマッピングシステムから引用した昭和51年当時のものですが、黄色で記されているのが廃線跡、赤色で記してあるのが今回辿った行程となります。今回、木曾の桟で引き返した訳ですが、例の隧道の所在地は更に2キロ以上進んだ所だったらしい、、、
距離だけでも到達していなかった orz...
黄色い線が廃線跡と書きましたが、実際にはもっと先まで続いています。便宜上、ここで黄色い線を切ったのは、ここがその隧道の場所らしいからなのです。上記写真の該当する場所をもう少し拡大してみましょう。
写真の円の中、右下から窪地が円内に進み、円弧状で途切れますが、ここが隧道のあった場所だそうです。そして、写真を撮影した方向は矢印方向に、その円弧の切れ目を狙った事になります。
では、その隧道は現存しているのでしょうか?
残念ながら、林道建設時に埋められてしまったそうです orz...
今回の行程を振り返って、驚いた事がいくつかあります。まず、、、現在でも程々足に自信のあるCABEZÓNですが、20年前も王滝森林鉄道本線を10数キロ以上歩いていたという事実、それにもかかわらず全く疲れた記憶が無いのです。しかも、引っ張り出した写真を見てみると、どうやら普通に平地を歩く為の安物革靴を履いていたらしい(笑)。まぁ、身軽な格好だった様なので一概に比較は出来ませんが・・・。
また、この雑誌の地域見取り図に掲載されていた国民宿舎、子どもの頃からいつかは利用してみたいと思っていた場所でしたが、今回の宿泊で利用したねざめホテルは、偶然にもその国民宿舎そのものだったのです。もうちょっと味わっておくべきだったな(笑)。
更に、20年前の旅程を検証してみると、その時も最初に降り立ったのは木曽福島駅だった、、、三つ子の魂云々は言いませんが、似たり寄ったり、気がついたら深層心理にある記憶を追いかけていたのかも知れません。
最後に、今回の一連の記事を読んでくださった皆様に感謝申し上げます。いつもと違う様子に戸惑われた方もいらっしゃるでしょうし、年末からペンディングになっているライブレポートを懸念しなかった訳でもありません。しかし、自分へのケジメとしても書いておきたかった、、、そのような手前勝手な理由があったのです。最後までお付き合いいただき有り難うございました。
Editor CABEZÓN


変わらないもの
新旧の橋梁、方や当時の日本の技術を結集しての文化遺産級の遺構、しかる一方は現代の技術により建設された住民の足である。鬼淵橋(左側の橋梁)は、地元の実力者の理解を得られずに、未だに文化遺産としての指定を受けていない。近い将来、その方々の理解が進み、文化遺産としての指定を受けられれば、この橋の将来も安泰である。
橋梁を背にして、今度は反対方向に歩き始めてみる。こちらは小川森林鉄道の廃線跡、先の王滝森林鉄道本線と比べて、比較的小規模の道路建設にとどまっており、車の交通量も少ない。
実際に歩いた事もない場所であるので、今ひとつ実感が沸かないが、恐らくは比較的当時の面影を残しているのであろう。このあたりまで来ると、先程のクマさんではなく、別の道路御用達動物が姿を現し始める。それは・・・
おさるさん
とはいっても、実際にはこんな数がいた訳ではない。この写真は数年前、たまたま義父と車で通りかかった時に撮影した写真、今回対面したのは子ザル一匹のみである。そう、実は数年前にも一度ここに来た事があった。その時は家族全員と義父、この遥か先の赤沢自然休養林を覗きに行き、その帰り道にこの道を通っていたのである。
左下に町並みを見下ろしながら暫く歩き、ふと顔を上げて見渡すと、雪を抱いた木曽駒ヶ岳を一望する事が出来た。日本百名山の一つに数えられる木曽駒ヶ岳、雄大な眺めである。
更に進むと、軌道跡は山沿いに方向を変える。
ひたすら軌道跡を歩き続ける。道沿いには、色々な構造物(柵・格子など)に軽便鉄道規格の細いレールが使われていて、間違いなくここが森林鉄道の軌道跡である事を感じさせる。このあたりは、大規模に開発されてしまった王滝森林鉄道本線とは大きく異なる部分である。
しかし、再開発の波はこの軌道上にも及び始めていた。いくつかの自動車道路と合流した後、見覚えのある地点にたどり着く。ここから先は明らかに軌道跡ではない。それは、車に乗って通り過ぎた数年前の記憶からも間違いが無い事は確かである。しばしこれ以上の歩行をためらいながら考えた。何よりも自分の体力が限界に近づきつつあった。携帯端末のGPSを確かめると、既に距離は15kmに及び、宿を出発してから休まずに3時間以上を歩行した事になる。しかも、旅用の鞄、とりわけ今回の旅には関係のないフルートまで入ったそれは流石に重く、熟慮の末ここに探索を断念したのである。
2時間後、私は上松駅のプラットホームにいた。正月休みを終え、明日からの仕事に備えて自宅に戻るのであろうか、故郷を後にする青年や夫婦連れが、改札で別れを惜しんでいる。やがて老人と共に改札に姿を現した子ども達、年の頃小学生低学年位であろうか、入場券を買わずにだと思うが、大人の制止も聞かずにプラットホームに入り込んでしまった。すると、人の良さそうな駅員が現れて、特別の計らいをしてもらったのであろう、子ども達はせきを切った様に跨線橋をめがけて走り始めた。同伴の大人からは駅員へのお礼の言葉が聞こえてくる。
ここも同じく人の住む町、ごくありきたりの光景ではあるが、何故かこの町の人々の情を感じた様な気がした。自分はといえば、自分の住む町を遠く離れてこの場所にいる。改めて、貯木場から周りの山並みまでをじっくりと見回した。20年の歳月を経て、この世の中は何が変わったのであろう。国鉄民営化?インターネットの普及?今回、確かに自分の求めていた風景には会えなかった。しかし、風景や生活のスタイルが変わってしまったかも知れないが、20年前とは変わらないものもある。それは、ここ上松の地に暮らしている人々の情なのかも知れない。
私は煙草をくゆらせながら、もう一度あたりの風景を見回した。プラットホームを吹き抜ける風は冷たく、そこは紛れもない木曾の山間の町であった。
さあ、自分も、自分の町に帰ろう、家族の待つ町に・・・
そう思う間もなく、自分を乗せて走るであろう鈍行列車のジョイント音が近づいて来た。これに乗れば、4時間後には自分の町に着ける。この町の主人公がここの住人達である様に、私は自分の町の主人公の一人なのだ、と自分に言い聞かせながら私は列車に乗り込んだ。
Editor CABEZÓN


解悟
私は暫く佇んだ後、ようやく木曾の桟に背を向ける決心がついた。
これ以上ここに居る必要は無い
王滝森林鉄道がダメでも小川森林鉄道があるではないか
せめてもの救いを、20年前に踏み込まなかった小川森林鉄道の廃線跡に求めたのである。
結局何度も行き来した鬼淵橋まで戻る事になった。復路も往路と同じくクマさん御用達の小径を歩く事にする。味気ない自動車道を歩く位であれば、幾らかでも往時の面影を感じられる集落の間を縫って歩いた方が気も収まると考えたからである。
道すがら住民とおぼしき男性とすれ違ったので、20年前から現在に至るまで、何が起こったのかを訪ねてみる事にした。概要は以下の通りである。
『かつて森林鉄道が廃止された後、しばらくの間は荒れ放題のまま軌道跡は放置されていた。しかし、変化が起こったのが10年程前の事。新鬼淵橋の建設と同時に軌道跡は自動車道として再開発され、往時の姿は完全に姿を消した。』
その男性は、さらに次の様に続けた。
『対岸の国道(19号線)しか無かった頃は、国道で一旦事故が起こると、渋滞どころの騒ぎではなく、完全に交通麻痺となり、国道の利用者だけではなく地元の住民の生活にまでも大きな影響を及ぼしていた。廃線跡の自動車道建設は地元住民達の願いでもあった。』
私はこの話を聞いて愕然とした。廃線跡が完全に消失してしまった事実、それが残念な事には変わりがない。が、しかし、である。地元住民にとっては、ここ上松の地は生活の場なのだ。自分の様な酔狂者が自分の趣味として黙々と訪れ、失われて行く風景を悲しむのは勝手だが、それは、ここに安住の地を持たない一趣味人の戯言に過ぎない。地元の生活にとっては、自動車道の建設は当たり前の生活をする為の悲願であったのである。
私はその男性に礼を述べると、更に足を速めて先ほどの鬼淵橋まで舞い戻った。
つづく
Editor CABEZÓN


心象を求めて Vol.3
流石にこのカンバンには驚いた。これから一人で、人気のない隧道を通ったり、転落する危険性のある橋梁を渡ったりと、随分と腹をくくった気持ちで出発したのであるが、相手がクマとなると話は別である。確かに、木曾の山林はいつクマが出没してもおかしくない。しかし、このカンバンを通り過ぎて暫く、正確な情報を得ようと、改めて何が書かれているのかを確かめに舞い戻ってみた。
人騒がせなカンバンである
そうこうしている内に、小径は一旦下降を始めて先ほどの自動車道と繋がってしまった。場所は木曾の桟まであと1キロメートル程残した場所である。ここまでの過程で、かつて辿った王滝森林鉄道本線の痕跡さえも見いだす事の出来なかった私は、せめてもの気晴らしにと木曾の桟を訪れる事にした。
桟や、命をからむ、蔦かづら
松尾芭蕉の歌で著名な木曾の桟は、旧中山道の中でもとりわけ交通の難所として古くから知られてきた。高い断崖絶壁は人々の往来の為の道を許さず、やむを得ず木曽川と断崖絶壁に沿って作られた木の桟道によりかろうじて結ばれていた場所なのである。その後、松明の不始末により消失したものの、石垣を積み上げて再生した木曾の桟はそれ以降も人々の経済活動を支え続けてきた。
現在は同じ場所を国道が通っているが、対岸から見てわかる様にその石垣の一部が道路下に保存されている。また、鉄道にとっても難所である事には変わりなく、長い年月を経て路線の改良工事が行われてきた。上記写真「桟」の上方に存在する構造物、これはかつての中央本線桟トンネルの落石覆いである。ここを出た列車は左側にあった橋梁を渡り崖を這う様に走っていた。しかし、1979年に落石の多さから、さらに山中深く進む新線への付け替えが行われ、今はその面影を遺構に残すのみである。かつてここを、もうもうと黒煙を上げて走っていた中津川機関区のD51の姿は、大自然に立ち向かう人間の技術の象徴だったに違いない。
私は今まで通ってきた方角を改めて見回した。眼下には旅館も見えるが生憎の正月休みである。暫く、対岸の自動車道を行き交う車を眺め続けた。
橋梁
隧道
そして、時の流れ・・・
初めてここを訪れて以来心の中にあり続けたもの
それが確かに失われてしまった
つづく
Editor CABEZÓN


心象を求めて Vol.2
木曽川を渡ると、目の前に立ちはだかる様に小高い山が居を構える。当然、鉄道もそこを登る事はせず、あたかもT字路の如く、左側に小川森林鉄道、右側に王滝森林鉄道本線と分かれていた。王滝森林鉄道本線に先立つ事10年程前に廃止されていた小川森林鉄道の軌道敷きは、20年前の訪問時にも既に荒れ地となっており、最初から藪こぎを強いられるのを嫌い王滝森林鉄道本線の軌道敷きを散策した記憶がある。
それにしても何という変貌ぶりだろう。その分岐点あたりから王滝森林鉄道本線があったと思われる方向には、全くの記憶に無い大きな自動車道があった。左上方向は、軌道上部の集落への小径であり、記憶の中にある風景を良く残している。それに比べて、この自動車道の味気ない事・・・。しかし、集落への小径は明らかに鉄道が上れない急勾配を呈しており、やむを得ず車道を木曽ダム方面に進んで行った。
私は自動車道を歩きながら、度々左側の擁壁を見上げた。もしかしたら、擁壁の上に当時の遺構のごく一部だけでも残っているかもしれない、と。ただ、それだけを頭に巡らせながら気がつくと1キロあまりも進んでいた。ところが、進めどもそれらしい様子は微塵にも感じられない。次第に焦りの色が濃くなってきた。
手元の携帯端末GPSに目をやると、この自動車道とほぼ並行して自動車道を見下ろす先ほどの小径が確認された。このまま進んでも何も見つからない、と判断した私はもう一度先ほどの分岐点に戻る事にした。途中、車しか通りかからない自動車道を歩く老夫婦に尋ねられた。
「木曾の桟はどちらですか?」
自分の記憶を頼りに木曽ダム方面である事を伝えると、笑顔で礼が返ってきた。心なしか、焦りを感じていた自分の気持ちも和んだ様な気がした。
改めて集落に続く小径を進んでみる。このあたりは、以前からあまり様子が変わっておらず、この道の曲線や勾配さえ緩ければ、かつて森林鉄道が通っていてもおかしくないと思える程心象に合致する。この道は、遠く東京都の三鷹市で運行が開始されたコミュニティーバスが走る道でもある。東京近郊では、採算も良く地元の足として重宝されるコミュニティーバスだが、遠くこの上松の集落では、上下を含めて日に4本しか運行されていない。しかも、その運行時期も限定的でとても実用的な代物ではなさそうである。
私は度々足を止め、見通しの良い場所で先ほどの自動車道方面を見下ろしてみた。何か、手がかりはつかめないか・・・。しかし、行けども行けども見あたるのは集落のみで鉄道のかけら程も見つからない。やがて、道は雑木林に覆われ昼間でも薄暗い場所にさしかかっていた。人気のないその場所で、私はあるものを目にする事になる。
つづく
Editor CABEZÓN


心象を求めて Vol.1
中山道六十九次の38番目の宿場町である上松宿は、「ひのきの里」と呼ばれる様に、宿場町としてよりもひのきの集散地として栄えてきたところである。従って、古い町並みが復元された妻籠宿や馬籠宿と比べても観光する場所としては非常に地味ではある。木曾五木の産地として江戸時代から山林奉行の厳しい管理下に置かれてきた上松宿は、伊勢神宮の遷宮の際に用いられる檜を産出する神宮備林、一般に言われるところの御料林を擁していた。その為に、人々はその扱いに大いに腐心し、「檜一本、首一つ」とまで言われていた時代があったのである。
私は20年以上前に降り立った貯木場の前に佇んでいた。自分の記憶が確かであるならば、その位置には狂いがない。しかし、かつて一面に所狭しと積み上げられていた檜の束が、今ひとつ少なく寂しく感じられたのは時期が時期だったからなのであろうか・・・。木曾は雨が似合う町だと言われる。確かに、雨の降る旧中山道を歩くと、所々で見え隠れする製材所からの得も言われぬ檜の香りが辺り一帯を支配し、それは心の中に忘れ得ない大きな印象を残すのである。残念ながら、訪れた日は快晴、しかし歩く為には絶好の日和であった。
貯木場を出ると、いきなり自動車橋の脇に主を失った橋梁が現れる。幸い交通事情の変遷の影響を受けずに残ってきたのであろう。20年前の記憶を辿ってみたのだが、残念ながらその姿を思い出す事が出来なかった。もしかしたら20年前は、全く違ったルートで木曽川に向かったのかもしれない。
それにしてもここから木曽川に至るまでの一帯の豹変ぶりは凄まじい。かつてモータリゼーションにより森林鉄道を追いやった車社会は、現在となっても発展を遂げており、道路の入り組む様は当時の記憶を私の頭の中から彼方に追いやってしまった。
そして木曽川を渡る。右側のこぢんまりとした鉄橋は鬼渕橋と呼ばれる王滝森林鉄道のトラス橋である。技術後進国であった日本における、日本人の設計・日本での製造による最初のトラス橋であり、その産業遺産としての価値は計り知れない。しかしながら、どの世の中にも金銭的合理主義一点張りの人はいるもので、この橋も一時期は左側の新鬼渕橋の完成により、重要文化財級の遺構でありながら解体の危機に瀕したそうである。ちなみに王滝森林鉄道の廃止の日にはこの鉄橋でフィナーレが行われたそうだ(ニュアンスとしてはセレモニーか、理解に苦しむ表現であるが説明板に記述されていたので、そのまま引用させていただいた)。王滝森林鉄道の廃止後もこの右側の鬼渕橋が全ての交通の足がかりとして使用されてきたが、現在は通行止めとなっており、通行人などの目を盗まない限りはその上を通行する事は出来ない。
つづく
Editor CABEZÓN


憧憬
手元に一冊のボロボロになった鉄道雑誌がある。発行が昭和46年1月1日とあるから、38年前に発行されたモノである。親からこの雑誌を買い与えられた頃、世の中はやがて消えゆく蒸気機関車への関心が高まっていた。いわゆるSLブームである。折しも、この雑誌の後半に掲載されているのは、昭和45年10月のダイヤ改正で首都圏から蒸気機関車が消えた事に関する記事などである。しかしながら、生まれてから首都圏で育ったCABEZÓNには、現役時代の蒸気機関車の記憶は無い。当時、雑誌などが唯一の情報源であったが為に、必然的にこの内容は幼い子どもの頃のCABEZÓNの頭脳に刻み込まれて行く事となる。その中でも、上記写真の見開きで「木曾路」と書かれた記事には大きな影響を受けたと思う。それこそ、文章の作りなど本ブログの構成要素までが似ている様に・・・。
時は流れて1986年(昭和61年)の夏、学生生活を謳歌し始めたCABEZÓNは、当時の友人3人と連れだって木曽路を訪れた。宮脇俊三氏の「鉄道廃線跡を歩く」が1995年に刊行され、一躍廃線跡が脚光を浴びる様になる10年程前の事である。当時は廃線跡というモノを訪ねる物好きは自分以外には居ないと信じ込んでいたし、良くもそんな状況で、鉄道そのものにも関心がない友人をこんな場所まで引っ張り出したものである。
どの様な旅程で上松駅に降り立ったのかは定かではない。貧乏学生の旅だったので、恐らく青春18切符等を利用したのだと思う。インターネットなど無い時代だから、事前に手にした資料は上記の雑誌のみ。しかし、当時であっても足を使う事だけに関しては自信があったらしく、さっさと町役場を訪れて地図を入手したのを覚えている。そして、その後に訪れた上松駅の貯木場。廃止後11年経ったその場内には、当時の軌道敷きなどは残っていなかったが、ある建物からわずかに姿を出していた一条の軌道に興奮した記憶がある。
そして、場内の片隅には機関車が数両留置されたままになっていた。残念な事に、写真は数枚しか残っていない。というよりも、数枚しか撮影しなかったのである。当時持ち合わせたのは、恐らく使い捨てカメラで、予算的に残り枚数も限られていたのであろう。現在であれば、さんざん撮りまくってから剪定できるのであるが、当時の状況となればこれも致し方のない事なのか・・・。
季節は夏の真っ盛り、かなりの暑さであったと思われるが、記憶には微塵も残っておらず、木曽川を渡った所から王滝森林鉄道本線をひたすら木曽ダムの方面に向かったのである。既に、廃線跡の路盤は生活路として地元の住民に使われていたが、橋梁を始めほとんど全ての遺構がそのまま残されていた。途中、二股に分かれる道があり迷いそうになった場合であっても、鉄道の特性を示唆しつつ自信満々で先頭に立って進んで行った様だ。そして、ひたすら進んだ先で現れたもの・・・
当時これ以降の路盤は地元住民でも近寄らない場所であった。若気の至りと言えようか、住民でさえも嫌がるこの隧道を通り抜け藪をかき分けた。そして、気がついたら橋梁の上、下は落ちたらただごとでは済まない高さだった記憶がある。
ここに行きたかった・・・
Editor CABEZÓN


山間の町
1/4にレポート再開を予告したのですが、CABEZÓN個人の事情により今暫くお待ちいただきたいと思います。昨日までの投稿にもあるとおり、突然ではありますが木曽路に出ていました。また、この様な事情により年賀状も遅れまくっております。本記事執筆後に投函するつもりでおりますので、どうぞご容赦ください。
中央本線をひたすら乗り継ぎながら塩尻経由で木曽福島まで。漠然と宿は何とかなると思っていたが、時期が時期なのでスキー客や家族連れ優先、とうとう潜り込める宿は見つからず。たまたま、目に入った寝覚の床近くのホテル、連絡をとってみたら宿泊可能との事。
山間の町は夜の帳がおりるのが早い。鈍行電車は2時間に一本程の運行。
上松駅から30分以上、真っ暗な中を車道沿いにトボトボと歩いてたどり着いた宿。ドライブがてらに温泉を利用する客も多い様子。
翌朝は名勝と聞いていながら一度も訪れた事の無い寝覚の床へ。木曽川を目指して中央本線のガードをくぐり抜ける。
昔から文人・歌人に記されてきたという寝覚の床。滝や川のせせらぎを聞きながら、暫く物思いにふけった。
Editor CABEZÓN


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