https://ugaya.jimdofree.com/2020/03/18/大国主を苦しめたバッタの大発生/
ときおり、お邪魔するサイトなのですが、
いろいろ、考えさせられます。
大国主を苦しめたバッタの大発生
もうひとつは、これからご紹介する出雲国が滅亡の危機に瀕したときのことです。
『古事記』『日本書紀』が省略してしまったこの大惨事を、『ウエツフミ』だけが克明に伝えています。
詳しくかかれてあるのですが、
読みに行って下さるという前提で、
代理がなんとなく、思ったことを追記していきます。
(1)自ら「千座の置戸」を背負った。
⇒「チクラのオキド」とは、当時の刑罰の一種で、おそらく戸板のようなものを担がせて見せしめとしたもの。
大国主は自ら罪人であることを認め、反省していることを公言して、神に許しを請うた。スサノオもこれを背負って国外に追放されたことは記紀にもある。
(ちなみに私の考える「千座の置戸」のイメージは写真の石像そのもの、八女市岩戸山古墳出土)
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なにか、ここを、読んで、キリストの処刑・・を連想してしまいました。
十字架に張り付けにする・・という処刑方法にしろ
戸板を担がせる?にしろ、
見せしめという目的があると思えます。
時代も国もちがうのに、似たような方法を考えつくということが、
奇異にも思えるのですが、
キリストが日本に来ていた(真偽はさておき)という話と関係があるのか?とおもってしまいます。
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肉食は天照大御神の時代から厳しく禁じられていたのです。
そもそも牛や馬は人民の農業の助けをする動物である。
だからしっかりと育てて、死んだ際には、その皮を剝ぎ、七瀬の水に晒して、生きている牛と馬の道具(馬具)とせよ。
またこれらの動物の肉は、大変に穢れているものであるから、骨と肉とは地中に深く埋めて、人間と同じように埋葬せよ。
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ここの件は、牛馬道という話を思い起こさせます。
牛や馬は人の助けをしてきているから、
その肉をたべてはいけない。
どういう時にきいたのかおぼえていないのですが、
仏教でいう六道輪廻とも違う。
近いところでは、スピリチュアルの考え方。
波動の荒いものをたべない。とか、
殺生された思いが入り込んでるから。とか
大本(出口)も同じような事をいっていた。
草(植物)は、食べられようと思っている。
(出典調べられず、およその意味だけ)
が、この件を読む限り
そもそも牛や馬は人民の農業の助けをする動物である
牛や馬は人の助けをしてきているから、と、明確に言っているところが
牛馬道と同じなのです。
なにか、日本人の心根のルーツがこれか、みたいな。
恩(助)をうけた。と、いうことを大事に考えるところが。
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「そもそも牛や馬は人民の農業の助けをする動物である。
だからしっかりと育てて、死んだ際には、その皮を剝ぎ、七瀬の水に晒して、生きている牛と馬の道具(馬具)とせよ。
またこれらの動物の肉は、大変に穢れているものであるから、骨と肉とは地中に深く埋めて、人間と同じように埋葬せよ。
田んぼの作物に付く羽虫(羽根のある昆虫)は、私の神意である。
だから今日からは農作物を食べさせないように、その口を塞ぐことにしよう。
また、これを追い払うには、
麻の木と天の押草(不明?)を利用せよ。カラス扇であおげ。
また、田んぼの水口(みなくち)に、ひとつ成りのオガタマの木の実(おそらく陰嚢の象徴)と、男根のカタチをしたものを太くたくましく作ってお供えし、豊年歌を歌って、鼓を打ち、ほら貝を吹いて、笛を吹き、
その田んぼの畔(あぜ)ごとに巡り、(バッタを)大野に追い払って、
その四隅に柴の木に実るハジカミ・クルミ・クララ根(不明?)を叩き潰して水に溶いたものをまき散らせ。
このようにすれば、田んぼの草はことごとく元に戻って、豊作になるであろう。」
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全部はあてはまらないが、
豊年歌を歌って、鼓を打ち、ほら貝を吹いて、笛を吹き、
その田んぼの畔(あぜ)ごとに巡り、(バッタを)大野に追い払って、
と、いう件は、跳ね踊りを思わす。
跳ね踊りは、豊作祈願とか、収穫祭というパターンより
虫追いの為だったと聞く。
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一方で、茅くぐり、
武塔神(字がちがう気がする)が
素戔嗚だったという話と
素戔嗚の話だというものがあるが
蘇民将来の話に代表される
疫病にたいしての信仰。
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昔、北の海におられた武塔神 (むとうのかみ) と称される神が、南の海の神の娘のところへ行かれる途中で日が暮れてしまった。そこに蘇民将来と巨旦将来 (こたんしょうらい) はという二人の兄弟がいた。兄の蘇民将来は大変な貧乏だったが、弟の巨旦将来は大変金持ちで、家も蔵も百ほどもあるような富豪だった。神は一夜の宿を弟の巨旦将来に頼まれたが、けちな弟は泊めることを断ったので、兄の蘇民将来のところへ行って一夜の宿を頼まれると、そこでは快く迎えた。しかし貧乏なので、敷物の代わりに栗殻を敷き詰めて座にし、栗飯を炊いてさしあげ手厚くもてなした。それは蘇民にとって精一杯のもてなしだった。
一夜明けて神はそこを出発され、幾年か経った後、八人の子を連れての帰り道、蘇民将来のところへ立ち寄られた。そして「巨旦将来への報いと、一夜の恩を受けたお前のために何かしてやりたいが、お前の子や孫達はおるのか」と聞かれると、蘇民将来は「私と娘と妻がいます」と答えた。すると神は「茅の茎で作った茅の輪 (ちのわ) を腰につけておきなさい」と言われたので、言われるとおりにした。ところがその夜のうちに、蘇民と妻子以外の、周りに住む人々がことごとく死に絶えほろぼされてしまった。
その時神は「私は須佐之男命である。今から後の世に疫病がはやれば、お前達は “ 蘇民将来の子孫 ” といって、茅の輪を腰につけなさい。私の言うとおりにすれば、茅の輪を腰につけた者は疫病から免れるだろう」と言われた。
この故事から「茅の輪 (ちのわ)」は疫病除け、悪災疫除けの霊力のある神符といわれている。
須佐神社では、毎年節分祭に茅の輪を授与し、また「蘇民将来之子孫」と記した守護札を授与しています。節分の日に参拝した人々は「茅の輪」を受け首にかけて持ち帰り、玄関や入り口に掲げ疫病除け、悪災疫除けの神符としている。
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この話も『ウエツフミ』「牛馬道」に通じるところがある。
なにか、日本人の心根のルーツがこれか、みたいな。
恩(助)をうけた。と、いうことを大事に考えるところが。
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してみると、
最後に、ウエツフミの別の章では「全ての災害は神々の怒りである」と説明されています。
ということは、今回の「コロナウィルス騒動」に加えて、ほぼ同時に起こった「バッタの大発生」には、何か大きなメッセージが込められているのではないでしょうか?
と、管理人さまは言われている訳ですが
神々(自然)の恩恵を大事に考えないとか、
神々の御心に沿ってない生き方とか
それらが、神々の怒りに触れたから、
こんなことになってるのかな?と思うわけです。
神はまた
上にも通じると思うのです。
上(政府をふくめ)外出を自粛せよと伝えられても
いっこうに、聞こうとしない人もいるのですから
当然、神の心など、判らない事でしょう。
神は、「示す申す」と書きます。
それは、不思議な事象をおこして神託を発布することでなく
例えば「上」「人」の口をかりて、「示す申す」のです。
その「示し申された」「神」の「心」の所だけを
受け止めれば良いのだろうけど
「上」がどーだ。こーだ。と、批判して
一番大事な「神の心」をうけとめそこねて
外出して、罹患する。
神様にすれば、腹が立つでしょう。
せっかく、伝えたのに・・と。
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と、代理は、いろいろなことを思いました。
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