高橋英樹さんがチラッと説明してたある事に
「へェ~~~ そ~だったんだ~」と関心してた
ママの耳は ダンボに なっていた
ある事とは・・・ 隅田川で花火を楽しむ風習が生まれたわけ
それは 両国川開きのきっかけでもあり
享保17年(1732)に起こった大飢饉
この年は 西日本一帯に いなごの大群が 発生するなど
例年にない 凶作となり 多数の餓死者が出て
更に 疫病(コレラ)が流行して 多くの死者を出すなど 散々な年でした
これを重くみた幕府(8代将軍吉宗)は 翌18年(1773)5月28日(旧暦)
死者の魂を鎮めるのと 悪霊退散の祈りを込めて
隅田川において 水神祭を挙行し
両国橋のたもとで花火を打ち上げました
この折 両国橋畔の料理屋が 公許を得て 同日 川施餓鬼を行い
これが後年 川開きとして 年中行事化されていったのでした
川開きは例年5月28日 この日から8月28日までの3ヶ月間は
隅田川に涼み船を出すことが許可され
その初日に花火が上げられたそうです
それが 遊び上手で 派手好きな 江戸っ子の心を捉え
次第に 現在のような 娯楽を目的とした
華やかなものになっていったんですね~
そして そんな江戸時代の 花火の隆盛を 担ったのが
花火師の 鍵屋 と 玉屋 だったんですね~
素晴しい花火を 見た時に掛ける 掛け声
花火といえばつきものの 伝統的な あの2つ
「かぎやぁ!」 と 「たまやぁ!」
あの掛け声 どんな謂れがあるか 知ってました~?
実は江戸時代の 『鍵屋』 と 『玉屋』 に由来してまして~
江戸時代 打上げ・仕掛け花火製造の元祖が「鍵屋」
初代の鍵屋弥兵衛という大和(奈良)の人が1658年に創始
鍵屋は 1659年に 江戸で店を開き
一代で幕府御用達まで務めるようになりました
幕府の「のろしかた」を見て仕掛け花火を考案
隅田川の川開きに両国橋の花火が
江戸の大イベントになっていった1808年
7代目鍵屋の時 番頭清吉を両国に別家して「玉家」を称して以来
鍵屋は両国橋の下流 玉屋は上流を受け持ち
それぞれの技を競うようになったんです
あの 「かぎやぁ、たまやぁ」の掛け声は
見事な花火が打ち上げられる度に
打ち上げた 花火師に対して
応援する為の掛け声だったんですね
この玉屋の人気は 鍵屋をしのぐほど 高かっ頃から
浮世絵の画題としても 花火が多く 登場するようになりますが
もっぱら描かれているのは玉屋であり
このことからも 玉屋のほうに人気が あったことが察せられます
花火技術も 優れていたんでしょうね その証として
「橋の上 玉や玉やの声ばかり なぜに鍵やといわぬ 情けなし」
といった歌も残っています
ところが いいことばかりは 続きませんでした
「玉屋」 火事を起こし 江戸払いとなる
「玉屋」は11代将軍家斉の時 火事を起こし40~50戸を焼いたため
江戸御構となり 一代で断絶するが その名だけは残る
天保14年(1843)4月17日 玉屋は失火によって全焼
町並を半丁ほども類焼させてしまいました
当時 出火は重罪であり
しかも 将軍家慶が日光へ 参拝に出かける 前日であったため
玉屋は江戸払いの罪を科せられ 追放処分となってしまいました
江戸庶民の 絶大な人気を 集めた玉屋も
一代限りで その家名を 断絶したのでした
結局 鍵屋・玉屋の時代は 32年間で幕を閉じましたが
玉屋の名は 江戸庶民の間に 語り継がれ
其の後の 花火大会でも 江戸っ子達は
「かぎやぁ~」「たまやぁ~」と 歓声を上げて見物しました
現代では 「ワー」という 歓声に変わり
「かぎやぁ~ たまやぁ~」と 叫べば 場違い・・・かと思われます
日本人で最初に花火を見たのは 徳川家康らしい
花火は以前 通信の手段であった狼煙(のろし)に由来する
これを家康の花火鑑賞に火をつけ 花火作りが始まったとされてます
中でも家康の故郷でもある三河では 今も花火作りが盛んで
有名な伝統花火 『金魚花火』が大量に生産されてま~す