(いのちは終わらない)
「生きているのが辛いのです」、その少女は真っ直ぐな瞳で私に訴えかけました。[そうかい」とだけ答えた私に、彼女は自らの苦悩をありったけぶつけた後、「だから私はもう
死んでしまいたいのです」と、再び私に詰め寄りました。
ずっと頷いて聞いていた私は、「死にたいのは、エムちゃんの思いだろう。ちゃんと相談はしたのかい」。「誰に?」。「それはエムちゃんのいのちにだよ」。
「私のいのち?」私はエムちゃんの手をそっと握り、「暖かいね、この温もりはどこからやって来たのだろう。そしてどこへ往くのだろう。今迄エムちゃんを生かし続けてくれ
たこのいのちに、もう一度相談してからまたおいで」と、家路につく様勧めました。それから数日後、行き付けのお店には、元気に働いているエムちゃんの姿がありました。
(死は終わりなのか)
普段私達は、お母さんのお腹の中から生れ出て来た時に、自分のいのちは始まり、死をもって終わってしまうと考えながら生きています。ですから、人間は生きている内が
華とか、死んだらお仕舞という人が意外と多いのです。 でも人のいのちは、そんなにははかなく薄っぺらなものなのでしょうか。
(歩みを共に)
人は自分の知識や経験を基に、それぞれが自分の世界を作りながら生活をしています。言い換えれば、自分を超えた世界のはたらきには物凄く疎いのです。例えば人は墓前に
行くと必ず手を合わせます。しかし私の手を合わさせたはたらきについて、思いを巡らせる人は殆どいないでしょう。親鸞様は先にお浄土にお生まれになられた方は、仏様となって必ずこの世に還って来て、あなたの人生を歓び護って下さっているのですと教えてくださいました。
死は終りではありません。あなたにとって、何よりも大切で掛け替えのなかったあの人は、今あなたのいのちと一つになり、あなたの中に生き続けていらっしゃるのです。人生に疲れ果てた時には立ち止れば良い、そしてまた少しだけ歩んでみようと思ったならば、それはきっと、あなたを護りながら、、ともに歩もうという先だったあの人の願いの表れそのものなのですから。
「生きているのが辛いのです」、その少女は真っ直ぐな瞳で私に訴えかけました。[そうかい」とだけ答えた私に、彼女は自らの苦悩をありったけぶつけた後、「だから私はもう
死んでしまいたいのです」と、再び私に詰め寄りました。
ずっと頷いて聞いていた私は、「死にたいのは、エムちゃんの思いだろう。ちゃんと相談はしたのかい」。「誰に?」。「それはエムちゃんのいのちにだよ」。
「私のいのち?」私はエムちゃんの手をそっと握り、「暖かいね、この温もりはどこからやって来たのだろう。そしてどこへ往くのだろう。今迄エムちゃんを生かし続けてくれ
たこのいのちに、もう一度相談してからまたおいで」と、家路につく様勧めました。それから数日後、行き付けのお店には、元気に働いているエムちゃんの姿がありました。
(死は終わりなのか)
普段私達は、お母さんのお腹の中から生れ出て来た時に、自分のいのちは始まり、死をもって終わってしまうと考えながら生きています。ですから、人間は生きている内が
華とか、死んだらお仕舞という人が意外と多いのです。 でも人のいのちは、そんなにははかなく薄っぺらなものなのでしょうか。
(歩みを共に)
人は自分の知識や経験を基に、それぞれが自分の世界を作りながら生活をしています。言い換えれば、自分を超えた世界のはたらきには物凄く疎いのです。例えば人は墓前に
行くと必ず手を合わせます。しかし私の手を合わさせたはたらきについて、思いを巡らせる人は殆どいないでしょう。親鸞様は先にお浄土にお生まれになられた方は、仏様となって必ずこの世に還って来て、あなたの人生を歓び護って下さっているのですと教えてくださいました。
死は終りではありません。あなたにとって、何よりも大切で掛け替えのなかったあの人は、今あなたのいのちと一つになり、あなたの中に生き続けていらっしゃるのです。人生に疲れ果てた時には立ち止れば良い、そしてまた少しだけ歩んでみようと思ったならば、それはきっと、あなたを護りながら、、ともに歩もうという先だったあの人の願いの表れそのものなのですから。