宝江渡し船跡碑 渡し跡碑
説明板 渡し跡碑2
岐阜街道 追分道
岐阜街道碑 宝江の渡し跡碑
*宝江の渡し跡!(岐阜街道)
住所=一宮市北方町河原屋敷字4
*宝江の渡しは、慶長5年(1600)8月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際、
東軍の先鋒「池田輝政」は、一万八千の軍勢を率いてこの地に到着。
木曽川の川越え遅々として進まず、北方の住人「高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門の、
の機転により滞留なく渡河し、両名は恩賞を受ける。
次いて、同十二年(1607)「徳川義直」藩主の時、岐阜街道を改修し、
この地点から対岸への渡船を官道とした。
*岐阜街道(別名)鮎街道!
慶長八年(1603)「将軍・徳川家康・秀忠」に鮎鮨を献上。
元和元年(1615)からは、毎年六月から九月まで、月六回鮎鮨を江戸城へ届た。
岐阜町のお鮨元から「加納問屋」を経て笠松問屋で受け継ぎ一宮問屋へと送られた。
*岐阜街道(別名・鮎街道)とは!(一口メモ)
将軍の口に入る時に、食べごろ迎えるため、
岐阜~江戸間の「鮎鮨献上」のルート旅!
①岐阜を出るのは夕方で、木曽川を午後六時半ごろ。
夜中に尾張を(名古屋)を通過し、岡崎で最初の朝を迎える。
②二日目の朝は「日坂宿」
③三日目の朝は「蒲原宿」
三島ー箱根ー小田原の十二時間に及ぶ、箱根越えをして、
④四日目の朝は「小田原宿」 その後、江戸城へ。
江戸までの所要日時は五日間であった。