岐阜街道・碑 美濃街道・直進
四ッ家追分・碑 長光寺前碑 ・道標
*岐阜街道・美濃街道・四ッ家追分碑!
住所=稲沢市井ノ口町5165
*四ッ家追分は、「岐阜街道・美濃街道」を起点として、
下津・赤池・一宮市・木曽川町を経て、一宮市北方町から、
木曽川を渡って岐阜県に入り、笠松町を経て、「岐阜市内」に至る道です。
*美濃街道(美濃路)は、四ッ家追分を西に進み、JRの踏切を渡り、
長束・稲葉宿を経て、一宮市の高木に入り、萩原宿・起宿となり、
起の渡船場で木曽川を越えて、岐阜県側に入り、正木輪中を通り、
大浦・不破一色・墨俣宿に至る街道です。
*道標は文政二年(1819)にこの場所に建てられていた。
現在は長光寺山門前建てられている。
右 岐阜道浅井道
左 京都道大垣道
文政二年己卯十二月立
施主 港屋源九郎
中屋源左エ門
「右 ぎふ道浅井道」とあるのが岐阜街道で、
「左 京都道大垣道」とあるのが美濃街道(美濃路)である。
四ツ家は美濃街道と岐阜街道の岐路にあたり、立場があった。
*「尾張徇行記」
美濃街道ト岐阜街道ノ巷二アル出町ヲ四屋ト云、八戸アリ、
ココは饂飩(うどん)ノ名物ニテ立場ナリ と記す。
*尾張名所図会」
四ツ家井ノ口村と六角堂村の堺にあり起街道(美濃路)一宮街道(岐阜街道)の、
岐路なる故俗に追分ともいふ休茶屋数軒ありて人をもてなす、
温飩(うどん)を此茶屋の名物として商ふ「四ツ家うどん」として
人々美せりと記す。 四ツ家のうどんは、つとに有名であった。
*この四ツ家を江戸時代全国を踏査して日本地図を作製した、
「伊能忠敬」が通っている。「伊能忠敬」は第七次測量の帰途、
文化八年(1811)三月二一日に、一宮方面から下津・井ノ口・四ツ屋に入り
「起街道(美濃街道)一里塚(起・富田村)」まで計測し、四ッ半ニ終り、
「中食」を「中屋源左衛門」でとったとある。
(尾三測量日記)