5日早朝、父から連絡があり、病院へ駆けつけると
母はすでに意識も無く左の瞳孔も開いた状態でした。
医者からは「あと数時間の命」と宣告されました。
クモ膜下出血でした。
しかし、私が話しかけると何とか手を握り返してくれたり
自己呼吸もままならない状態なのに関らず
必死で何かを伝えようとしていました。
京都に住む妹や九州、新潟の叔母に連絡を取り
肉親全てが揃った時には、それも無くなり
ほぼ植物人間状態でしたが、
かろうじて呼びかけに対して血圧や心電図などが反応し
応える事は出来なくても感情を司る器官は生きている事が
解かりました。
その後、肉親全員で寝ずで付き添い、
母は酸素吸入以外の延命処置などは
して無かったにも関らず
強い意思を持って頑張り、まる4日近く生き延び
母の親しかった友人や親戚全員と会ってから
少しずつ心拍数が減っていき静かに息を引き取りました。
病院から自宅へ搬送されてから、
私自身で母が生前愛用していた化粧品を使い
死に化粧をほどこしてあげ、死に水もお茶などではなく
母の好きだった焼酎で取ってあげました。
それから・・・
11日に通夜、12日に告別式を執り行いました。
生前の母の好みを考え、花だけの祭壇にする事にしました。
それも菊などのありふれたものではなく
母が生前好きだった花々を
常識が許す範囲で使って貰いました。
棺には愛犬の写真と、母が好きだった食べ物や嗜好品を
入れました。
平日の通夜、葬儀だったのに関らず、
多くの方々にご参列頂きまして
誠に有難う御座いました。
また沢山の方々から供花や弔電を頂き御礼申し上げます。
母は生前、花や植物のとても好きな人でした。
また明るく人好きで賑やかな事も好きな人でしたので
皆様のお陰で花でいっぱいの葬儀を行う事が出来
また通夜、葬儀併せて500名近くの方々に悼んで頂き
母もきっと喜んでくれている事と思います。
バタバタしておりましたので、きちんと1人1人にご挨拶が出来ませんで
申し訳ありませんでした。
皆様の励ましのお陰で
泣き崩れて何も出来なくなりそうな時に
沢山のパワーを頂きました。
というのは、母と最後に話した会話が、
例の介護問題の件で父と喧嘩して
「パパが謝らない限り、私は許さない」と
言い放った言葉だったのです。
母はきっと死の直前まで、
父と私の仲違いを心配していた事と思います。
また、線維筋痛症や直腸膣漏などで辛い手術を耐え
頑張って闘病して、やっと退院出来、
後は弱った足腰のリハビリのみで
人工肛門での生活ではありますが、
やっと元気になった矢先の
突然の脳出血でしたので、家族は勿論、母自身も
このような形で亡くなるとは
予想もしていなかった事と思います。
それを考えると辛く、悲しみより後悔の方が大きいのです。
5日に母が倒れてから、
ずっと危篤状態が続いておりましたので
父、妹、弟、叔母達と一緒に寝ずの看病を続けて参りまして
実家には遠方からの親戚が泊まりこみ、
その対応にも追われ
今日までほとんど寝る時間も泣く暇もありませんでした。
これからも、やらなければならない事が沢山で
位牌、仏壇、墓地の購入や49日の法要の手配、
遺品の整理、お報せ出来なかった方々への対応など
暫くは忙しい日々が続くと思います。
けれど、この忙しさがあるからこそ、
何とか気力を保てるのかも知れません。
葬儀は結局、遺族の為のものかも知れませんね・・・
最後に、まだご両親がご健在の方々にこの詩を贈ります。
http://www2.plala.or.jp/impact-FORZA/Last_time.htm
(「最後だとわかっていたなら」
"If I Knew It Would Be the Last Time")
私のように後悔のないように、
どうぞご両親を大事にして差し上げて下さい。
母はすでに意識も無く左の瞳孔も開いた状態でした。
医者からは「あと数時間の命」と宣告されました。
クモ膜下出血でした。
しかし、私が話しかけると何とか手を握り返してくれたり
自己呼吸もままならない状態なのに関らず
必死で何かを伝えようとしていました。
京都に住む妹や九州、新潟の叔母に連絡を取り
肉親全てが揃った時には、それも無くなり
ほぼ植物人間状態でしたが、
かろうじて呼びかけに対して血圧や心電図などが反応し
応える事は出来なくても感情を司る器官は生きている事が
解かりました。
その後、肉親全員で寝ずで付き添い、
母は酸素吸入以外の延命処置などは
して無かったにも関らず
強い意思を持って頑張り、まる4日近く生き延び
母の親しかった友人や親戚全員と会ってから
少しずつ心拍数が減っていき静かに息を引き取りました。
病院から自宅へ搬送されてから、
私自身で母が生前愛用していた化粧品を使い
死に化粧をほどこしてあげ、死に水もお茶などではなく
母の好きだった焼酎で取ってあげました。
それから・・・
11日に通夜、12日に告別式を執り行いました。
生前の母の好みを考え、花だけの祭壇にする事にしました。
それも菊などのありふれたものではなく
母が生前好きだった花々を
常識が許す範囲で使って貰いました。
棺には愛犬の写真と、母が好きだった食べ物や嗜好品を
入れました。
平日の通夜、葬儀だったのに関らず、
多くの方々にご参列頂きまして
誠に有難う御座いました。
また沢山の方々から供花や弔電を頂き御礼申し上げます。
母は生前、花や植物のとても好きな人でした。
また明るく人好きで賑やかな事も好きな人でしたので
皆様のお陰で花でいっぱいの葬儀を行う事が出来
また通夜、葬儀併せて500名近くの方々に悼んで頂き
母もきっと喜んでくれている事と思います。
バタバタしておりましたので、きちんと1人1人にご挨拶が出来ませんで
申し訳ありませんでした。
皆様の励ましのお陰で
泣き崩れて何も出来なくなりそうな時に
沢山のパワーを頂きました。
というのは、母と最後に話した会話が、
例の介護問題の件で父と喧嘩して
「パパが謝らない限り、私は許さない」と
言い放った言葉だったのです。
母はきっと死の直前まで、
父と私の仲違いを心配していた事と思います。
また、線維筋痛症や直腸膣漏などで辛い手術を耐え
頑張って闘病して、やっと退院出来、
後は弱った足腰のリハビリのみで
人工肛門での生活ではありますが、
やっと元気になった矢先の
突然の脳出血でしたので、家族は勿論、母自身も
このような形で亡くなるとは
予想もしていなかった事と思います。
それを考えると辛く、悲しみより後悔の方が大きいのです。
5日に母が倒れてから、
ずっと危篤状態が続いておりましたので
父、妹、弟、叔母達と一緒に寝ずの看病を続けて参りまして
実家には遠方からの親戚が泊まりこみ、
その対応にも追われ
今日までほとんど寝る時間も泣く暇もありませんでした。
これからも、やらなければならない事が沢山で
位牌、仏壇、墓地の購入や49日の法要の手配、
遺品の整理、お報せ出来なかった方々への対応など
暫くは忙しい日々が続くと思います。
けれど、この忙しさがあるからこそ、
何とか気力を保てるのかも知れません。
葬儀は結局、遺族の為のものかも知れませんね・・・
最後に、まだご両親がご健在の方々にこの詩を贈ります。
http://www2.plala.or.jp/impact-FORZA/Last_time.htm
(「最後だとわかっていたなら」
"If I Knew It Would Be the Last Time")
私のように後悔のないように、
どうぞご両親を大事にして差し上げて下さい。